うわさになりたい - 番外編

「See Through」



 物足らないというわけではなくて、もう少し、ほんの少しだけ、離れがたくて、すがりつくように、見上げることがある。
 萎えた体が動かなくて、けれど、視線だけが、自分から遠去かろうとする肩を追う。
 相手の察しの良さに感謝しながら、また伸ばされる腕に、少しだけ戸惑う振りをしてから、自分の腕を絡めてゆく。
 もう一度と、そういうわけではなくて、ただ、まだ汗ばんでいる体が、離れてしまえば空気に冷たく、その冷たさがほんの少しだけいやで、相手の体のぬくもりを分けてもらおうと、触れる肩や胸の重さが、もう少しだけ欲しいだけだ。
 アルベルトは、数度に一度はそうするように、知らずにジェロニモを見つめて、また自分にかぶさってくる大きな背中に、ぎゅっと腕を回した。
 今では、隠す素振りすら忘れてしまっている鉛色の右腕を、高く盛り上がった肩甲骨の上に乗せて、ジェロニモが、自分の体の重さを気にするのを、けれど抗うように、左腕はしっかりと太い首に巻きついている。
 果ててしまったから終わりというわけではなくて、もう少し、穏やかに先があってもいい。
 汗に濡れた額が、ぶつかって、滑る。鼻先をこすり合わせて、ついでのように唇も触れさせて、汗が引いてゆくのを、体を寄せて、ふたりで待つ。
 アルベルトは、耳の傍で、ジェロニモ、と呼んだ。
 声が、ひどく甘いのが、自分でもわかった。
 ジェロニモは少しだけ肩を浮かせて、何か考え込むような表情でアルベルトを数秒見下ろした後、アルベルトを強く抱き寄せて来た。
 萎えていた体の隅々に、また、体中の血管がゆっくりとふくれてゆくような、ふわりとした感覚が走る。投げ出していた両足を、すり合わせるようにジェロニモの腰に絡めて、アルベルトは、自分から唇を寄せて行った。
 眠りに落ちるにはもう少しだけ足りずに、明日の朝がつらそうだと、そう思いながら、アルベルトはジェロニモの手の動きに、自分の躯を添わせてゆく。


 仕事ではなさそうだったけれど、ジェロニモが、リビングのコーヒーテーブルの上に、何かいろいろ広げて忙しそうにしていたので、アルベルトはふたり分の紅茶を自分でいれた。
 「何してるんだ?」
 テーブルいっぱいに広げられた、さまざま細々したものを見下ろして、どこに紅茶のマグを置こうかと、アルベルトはテーブルの上にすき間を探して、視線をうろうろさせる。
 いろんな形の、いろんな色の箱、いわゆるギフトだとか贈答品だとか、そんなふうに呼ばれる類いのものだと知れて、アルベルトはちょっと首をかしげた。
 よく見れば、ジェロニモが膝に乗せて、今空にしようとしているのは、ベッドルームにある、サイドテーブルの引き出しだった。上段ではない。あそこは、アルベルトもしょっ中開け閉めしているから、中身はよく知っている。ということは、それは、手も触れたこともない、下の段に違いなかった。
 わざわざ覗いたことがないから、そんなものが放り込んであったとは夢にも思わない。
 ジェロニモは、やっと空になった引き出しを膝から下ろして床に置いて、アルベルトの方へ腕を伸ばしてきた。
 「壮観だな。」
 薄く笑って、すき間もないテーブルに向かってあごをしゃくって見せると、受け取ったマグに唇を寄せながら、ジェロニモが苦笑を返してくる。
 「仕事先でももらった物なんだが・・・。」
 語尾が曖昧に消える。もらったはいいが、使い道のないものなのだとそれで知れて、アルベルトは今度はもっと笑みを深くした。
 「なるほどな。」
 箱はほとんどが開封された跡があって、アルベルトは、そこに立ったままで、テーブルの上の箱に手を伸ばした。
 長細い、一目でペンの類いだとわかる箱が大半で、ジェロニモが箱から中身を取り出してゆく手元を眺めていると、キーホルダーもいくつか交じっている。
 ペンは、どんなものでも使い道がないわけではないだろうと、それを訝んで訊くと、
 「細すぎて握れない。」
 ジェロニモが、アルベルトの方に、掌を大きく開いて見せた。
 なるほど、確かにアルベルトの手にさえ華奢すぎる、そんなペンばかりだ。女性向けというわけでもないのだろうけれど、確かに使いやすそうとは思えない。
 ペンばかりをざらりとまとめて、テーブルの片隅に寄せる。
 「どうするんだ、それは。」
 「忘れたふりでもして、あちこちに置いてくる。」
 「俺も手伝おうか。」
 笑いながら、冗談で言ったつもりだったのに、ジェロニモが真面目な顔で、アルベルトにペンを数本差し出して来た。
 「こんなところにしまい込まれてるよりは、誰かに使ってもらえた方がいいだろう。」
 「まあ、それはそうだな。」
 ペンを受け取りながら、どこかの会社の名前の入っているそれを見下ろして、アルベルトは、事務所にでもまとめて置いて来ようと思う。事務所なら女性もたくさんいるから、こんな細身のペンでも、きっと誰かが使えるだろう。
 それなりに安っぽくはない外見のペンばかりだ。確かに、せっかくだから、誰かに使ってもらえた方がいいに決まっている。
 もらって困っているものというのは、自分のアパートメントにもいくつかあるなと、クローゼットの奥の方に押し込んであるだろうあれこれを思い浮かべながら、アルベルトは、受け取ったペンを手の中に握りしめた。
 いちばん最後の箱は、他よりもずっと大きくて、上ぶたのかぶさる形のそれの中から現れたのは、銀色の丸い本体に白い文字盤の、エナメルらしいバンドがつやつや光る腕時計だった。
 ジェロニモは、数秒黙ってその時計を見つめた後で、そのままふたを軽くかぶせ直して、テーブルに戻してしまった。
 マグを、やっと広くなったテーブルの上に置いて、アルベルトはその箱をそっと取り上げた。
 「あんたの会社からじゃないか。」
 ざらっとした黒い箱の上には、金色の文字が押してある。ふたを取って中を見ると、わざわざ白く敷かれた布---これも、素材はともかく、つやつやしていた---の上にも、会社の名前を記した名札状の紙片が貼り付けてあった。
 布の上に乗った時計を取り上げて、文字盤の裏を返せば、祝勤続10年と彫ってあるのが小さく読み取れて、バンドの輪の中に差し込んだ指先を開いて、アルベルトは、口笛を吹くように、ちょっとだけ唇を突き出した。
 「気に入ったなら、持って行ってくれていい。」
 実のところ、バンドのきらきらしさはともかく、時計の本体自体のシンプルさがちょっと気に入ったところだったので、アルベルトは、思わずその時計を手の中に握りしめた。
 そうしてしまってから、慌てて掌を開いて、時計を箱の中に戻してから、ふたを閉じた。
 「時計なら、あんたが使えばいいだろう。」
 テーブルに戻しかけたところで、ジェロニモが、言葉を返してきた。
 「手首にはまらないんだ。」
 なるほど、体が大きいというのは、いろんなところで不便なものだ。いちいちバンドの穴を増やすのも業腹だろうし、特に気に入って手に入れたわけでもない時計のバンドを、わざわざ取り替えるというのも面倒なのだろう。
 だからと言って、さっさとありがとうと言って受け取ってしまうのには、一瞬アルベルトの手が止まる。
 そこまで欲しいわけではないとか、もらっても自分も困るとか、そういうことではなく、気に入ったと思ったのが、うっかり面に出ていたのかと、それを恥じる気持ちがわいて、アルベルトは空いていた手で口元の辺りを覆った。
 「・・・俺は、そんなに物欲しそうに見えるのか・・・?」
 語尾が少し弱々しくなる。この時計のことだけを言っているのではないのだと、自分で自覚しながら、また余計なことを言っていると、唇の端が忌々しさにねじ曲がる。
 自分は今、とても不機嫌な顔をしているなと、そう思いながら、ジェロニモが答えるのを待っていた。
 ジェロニモは、アルベルトの方を見て、けれどまったく表情は変えずに、視線もそらさない。
 「そんなことはない。」
 表情もない声には、けれど思いやりがにじんでいて、それから、ほんのわずか、苦笑が交じっているようにも聞こえた。時計のことだけではなくて、もっと別のことについても尋ねられているのだと、ジェロニモには伝わっている。そう伝わってほしいと思いながら、伝わってしまっていることにはまた羞恥がわいて、アルベルトは、赤くなった頬を、下に伏せた。
 「そんな素振りが見えないから、よけいに与えたくなる、ということは、ある。」
 一言一言、まるで言い聞かせるように、ジェロニモが、ゆっくりと言った。
 そんなふうに優しく言われて、あっさり納得するようなアルベルトではなかったけれど、とりあえず、時計の箱をテーブルに戻すのは思いとどまった。
 「・・・あんたは、俺を甘やかしすぎだ。」
 「甘やかすのが趣味の人間もいる。」
 今度は素早く、笑顔つきで返されて、何か気の利いた反論でもできないかと、アルベルトが無駄に口をぱくぱくさせていると、ジェロニモは空になっているマグを片手に立ち上がって、その大きな掌で、アルベルトの頭を自分の方へ引き寄せた。
 「紅茶のお代わりをいれよう。」
 耳元でささやいてから、キッチンへ行こうとする背中に向かって手を伸ばすと、アルベルトは、ジェロニモのシャツを引っ張った。
 どうしたと、怪訝そうに振り返るジェロニモに、下を向いたまま、小さな声で、
 「紅茶は、後にしないか・・・」
 目を伏せて、表情が見えないように。それを無駄なことだと思いながら、アルベルトは、ジェロニモのシャツを握ったままでいる。
 多分、自分がこんな表情を見せるのは、ジェロニモだけになのだろう。四六時中、鏡で確かめるような、そんな趣味はないから、確実ではないけれど。ジェロニモだけにならいいだろうと、自分を甘やかすことにして、アルベルトは、頬に触れるジェロニモの掌に従って、ゆっくりと顔を上げた。
 「・・・後にしよう。」
 今は、全身が物欲しげに違いないと思いながら、時計の箱を持ったまま、空いた方の腕をジェロニモの腕に巻きつけた。
 ジェロニモが、自分を軽々と抱き上げて、ドアの閉まる部屋へ運んでゆくのを、アルベルトはじっと待っていた。


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