「あらし」 - 番外編
Set On
何か飲まされたのだと思った時には、普段なら軽々と振り払える---けれど、そんなことはしない---アルベルトの腕に押さえつけられて、ネクタイをむしり取られていた。
奇妙なほどの脱力感と、そのくせ全身を駆け巡る血の音が聞こえるほど、速度を増す心臓の音。胸の筋肉が、そのせいで激しく上下しているようにさえ見えた。
「毒なんかじゃない、心配するな。」
冷ややかな、平坦な声で、アルベルトが言った。
ジェロニモは、そこだけはいつものようにきちんと動く瞳の位置をずらして、アルベルトを視線でだけ追った。
毒を盛られたとは、最初から思っていない。けれど、あまり安全な類いの薬でもなさそうだと、持ち上げられない腕を、指先だけでも動かそうと必死になる。ジェロニモの体の大きさなら、少々の薬なら過剰摂取で死にかける心配はなさそうだったけれど、酒にさえ慣れてはいない体が一体どんな反応をするのか、それだけが気になった。
アルベルトが今日1日、常になく穏やかだったのは、こんなはらづもりがあったからなのかと、ほどかれたネクタイで両手首を縛られながら、ジェロニモは息苦しさに胸を反らす。
店の事務所だというのに、ひどく優しい仕草で、ジェロニモの首に右腕を絡め、首を伸ばして爪先立って、青白い唇を重ねてきた。凹凸のある、ドアの上半分にはまったガラスからは、けれどきちんと見えない位置で、冷たい唇が湿って熱くなるまで、アルベルトはジェロニモを離さなかった。
それからずっと、人目がなければすぐに、ジェロニモの腕や脚に触れ、まるで猫のようにすり寄ってくる。グレートに、いつもそうしていたようにと、そう思ってから、ジェロニモはそれを否定するように軽く頭を振った。
ただの気まぐれだ。誰だって、人の体温が恋しい時はある。自分がグレートの代わりなのだと、うぬぼれる気はない。アルベルトはただ、淋しさをまぎらわせるためにジェロニモの腕を欲しがっているだけで、どれほど頻繁に、どれほど深く、どれほど親密に躯を重ねても、アルベルトがそこに追っているのは、グレート---と、おそらくジェット---の面影だけのはずだった。
ひどく穏やかに触れられて、あやうくアルベルトを抱き返しそうになりながら、それを必死で押しとどめて、ジェロニモは、甘えてくるアルベルトの好きにさせていた。珍しく挑発の匂いはなく、そこから先へ進む気配もなく、唇が重なることさえ滅多にないまま、ジェロニモは、今夜は子守唄をねだられるかもしれないと、冗談交じりに思いさえしていた。
視界が、少し揺れている。頭の中も、同じほど眩暈に満たされていたけれど、その中心だけが、まるで削り取ったようにくっきりと、意識の一部とともに澄み切っている。
アルベルトは、ジェロニモを半裸に剥くと、自分も服を脱ぎながら、ジェロニモの首筋や鎖骨の辺りに顔を埋めた。
舌が這う。まるで、骨から皮膚と肉を剥ぎ取るように、あるいは、骨の上に何かを刻みつけるように。そうやってアルベルトの舌になぞられるたびに、ジェロニモは声を殺して耐えた。皮膚はなく、神経にじかに響くように、舌の動きが全身になだれ込んでくる。
薬の作用だ。皮膚を溶かして、神経を剥き出しにして、すべての触感が、躯の中心へ向かって走り出すように。耐えるための神経は鈍り、アルベルトの舌にだけ、鋭く素速く応えるように。
首を舐め上げて、あごを噛んで、ジェロニモの刺青の線の始まりに、歯列が食い込んだ。アルベルトの前髪が揺れるのが、下目に見える。アルベルトは、ゆっくりとジェロニモの刺青の線をたどって、舌を伸ばしたまま顔の位置を上げてくる。
高い頬骨を越えて、思わず目を閉じたジェロニモの左の眼球の形を、アルベルトの舌先が、くり抜くようになぞって来る。そのまま、眼を食べられてしまうかもしれないと、馬鹿げたことを思いながら、閉じたまぶたの裏で瞬きをする。ジェロニモは、ほんの少しだけ、怯えていた。
ぐるりと、舌先が這う。薄くて柔らかい上まぶたに歯が当たり、それを追うように、冷たい指先が触れてゆく。ジェロニモの頭を抱え込んで、アルベルトは、また刺青の線の続きを追い始めた。
きれいに剃り上げている頭頂部を両手で撫で、首の後ろまで続く刺青の線を舌で追い、胸の前にジェロニモの頭を抱え込むようにして、アルベルトは、ジェロニモの耳の近くで、ひどく深いため息をこぼした。
呼吸の生ぬるさに、ぞくりと背骨が震える。頭上で、ベッドのヘッドボードに縛りつけられている両手を、ジェロニモはぎゅっと握りしめる。
唇を重ねて、ゆるく舌と唾液を絡めると、そこもまた確かめるように、舌先で探り始める。唇のすみずみと、白く並んだ歯列と、頬の裏側と、舌の奥と、届く限りを舌先でなぶって、アルベルトの唇は、今は濡れて光って見えた。
嫌悪感など、最初から抱いたこともない、色違いの腕と肩と、アルベルトは隠すこともなくジェロニモの上で体を伸ばし、その冷たい右手を伸ばして、ジェロニモの濡れた唇に触れた。
舌を伸ばして鉛色の指先を舐めると、びくりと肩を震わせて、さっと手を引く。
気に障ったかと、ジェロニモは素直に唇を閉じた。
アルベルトはまた、ジェロニモの全身に舌を這わせ始めた。盛り上がった胸や肩の筋肉と、滑らかに凹凸の浮いた肋骨と腹筋と、まるで舐めしゃぶるように、アルベルトの舌が丹念にひとつびとつに這う。
時々、跡を残すためか、ひとところに長くとどまって、ついでに、皮膚を食い破るように歯を食い込ませることもある。
そうしながら、肝心のところにはまったく触れずに、アルベルトは、ジェロニモの腿の内側に、右手を滑らせた。
全身をくまなく舐め上げながら、けれどそこにだけは触れずに、ジェロニモは黙って耐えながら、けれど剥き出しの神経は、そこへ向かって熱を送り続けている。
自分の上を這い回るアルベルトを思わず追えば、自分の躯が視界の中に入ってくる。そちら側に、目元を上気させたアルベルトの、白い顔が見えた。自分とはまったく似ていない、アルベルトの膚の皓さに、ジェロニモは目を細めた。
アルベルトを追いながら、少しずつ少しずつ、身内にふくれ上がる熱に浮かされて、澄み切っていた意識の一部さえ濁り始めているのに気づく。それに抗うために、唇を血の出るほど強く噛んで、けれど、自分の脚の上を這い上がってくるアルベルトに、それはあっさりと封じられた。
わざと、するりと触れて、それから、ジェロニモの腰をまたいで、また唇を重ねてくる。噛みしめていた唇を、指先でほどいて、舌先をなぶるように指を滑り込ませ、それから、指を抜き出すすきに、ぬるりと舌が入り込む。
そうしながら、ジェロニモの腹の辺りに、開いた両脚の間を、すりつけてくる。
全身が湿りを帯びている。汗と唾液と体液と、体温に蒸発する端から、また湿り始める。喘ぎながら、ジェロニモに唇をこすりつけて、まるで食むように舌を絡め取って、アルベルトは、ひとりであえいでいた。ジェロニモの上で肩を揺すって、胸を波打たせながら、まるですでに躯を繋げているかのように、背中を反らせて、額に汗を浮かべている。
そんなアルベルトを見上げていて、薬のせいでひどく敏感になっている触感が、最後に残っていた理性の一片を吹き飛ばした。
わけがわからなくなって、凶暴さのない激しさに突き動かされて、気がつくとガタガタとヘッドボードを揺らして、腕を振り上げようとしていた。
ジェロニモが決して暴れないことを想定して、もともと大してきつく縛ったわけではなかったのか、滑りのいい生地のネクタイがゆるまり、ジェロニモは、そこから手首を抜き取った。
体を起こした途端に、目の前に、驚いている---あるいは、怯えている---アルベルトの顔があった。
言葉はなく、引き倒したアルベルトの両脚の間に、性急さだけで自分自身を埋め込んでゆく。喉で声が割れて、もがくように、アルベルトがシーツの上で腕を振る。大きく開かせた脚を、構わずに引き寄せた。
理性を溶かした身内の熱と同じほど、アルベルトの中も熱い。躯を軽く引くたびに、すがりつくように絡みついてくる。
濃い血の色の上がるアルベルトの胸の辺りを見下ろして、ジェロニモは、後先も考えられずに、まるでアルベルトの背骨を引き裂くように、全身を揺すり上げていた。
そうして、少しだけ満足を得た頃に、そっと姿勢を変えて、正座のように膝を折ると、その膝の上に、アルベルトの腰だけ乗せた。
中途半端に持ち上げられた体は、腰も背中も浮いて、肩だけで支えられ、両腕は投げ出されたまま、両脚も力なく、かかとがシーツを滑るだけだった。それでも、薄目にこちらを伺っているのを確かめてから、今度はゆっくりとまた動き始める。
今度は、自分のためではなく、アルベルトのために。
悲鳴交じりだった声が、甘くかすれ始める。がくがくと、ジェロニモの動きに力もなく揺すられて、投げ出されたままの手足とは対照的に、次第に腰の辺りが勝手に揺れ始める。アルベルトの気配----躯の、外側も内側も---を確かめながら、速さと角度を変えて、揺れるアルベルトに合わせて、ジェロニモはゆるく動いた。
喉が限界まで反って、肩もシーツから浮き上がり、何よりも絡んでくる内側の熱さが、アルベルトの様子をはっきりと伝えてくる。頭だけで体を支えて、アルベルトはまるで、吠えるように大きく口を開けていた。
そのままでは首を折ってしまいそうだと、一瞬戻った理性で、ジェロニモはアルベルトの首に向かって手を伸ばした。
ジェロニモが体の動きを止めたせいなのか、アルベルトは、我に返ったように、目の前に近づいてきたジェロニモに向かって両腕を伸ばして、その首に絡みつかせた。それから、まるでしがみつくようにジェロニモに体を寄せて、耳元で言った。
「まだだ。・・・もっと・・・」
静かな声だったのに、それは叫びのようにジェロニモの耳には聞こえて、しがみついてきたせいで、完全にシーツから持ち上がってしまったアルベルトの体を支えて、ジェロニモは、何もかも忘れろと、自分の中に言い聞かせた。
薬を盛ったのはアルベルトだ。求めているなら、与えてやればいい。望んでいるのなら、従ってやればいい。
優しさを忘れたのは、薬のせいに違いなかった。先走るままに、アルベルトの中で暴れながら、いつそのままふたり一緒に息耐えてもおかしくはない激しさを、ジェロニモは荒い息の下に吐き出している。
痛めつけるためでは決してなく、それでも、荒々しさがアルベルトを引き裂いていることには間違いなく、ただ繋がるからではなくて、こすり上げて生まれる熱の激しさに、全身を焼かれるような気がしていた。
火遊びが過ぎると、やけどをする。比喩が、比喩では、なくなりつつある。
喉をいっぱいに開いて、ずっと叫んであえいでいたアルベルトが、不意に甘さの微塵もない声をかすれさせた。
「こ・・・こわ、壊れ、る---」
壊れたのは、アルベルトではなかったのかもしれない。
すでに壊れてしまっているのかもしれないアルベルトと同じほど、ジェロニモも壊れてしまっているのかもしれない。
引きずり込まれた奈落の深さと、その底の闇の濃さと、けれどその中で、アルベルトの姿だけが、どこまでもしろい。
ジェロニモは、少しだけ動きをゆるめて、そうして、腕の中にアルベルトを抱き込んだ。
伸びた首に顔を埋め込んで、唇を滑らせるふりをして、歯を立てる。赤い血の跡をそこに残すために、ジェロニモは、歯列の間で、ぎりぎりとアルベルトの白い膚を噛んだ。
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