「路地裏の少年」 - 番外編

たわむれ



 「なんだよ、これ?」
 ジェットが、冷蔵庫から、小さな容器を取り出して、シンクの前に立っているアルベルトに、振り返る。
 ジェットの手には、四角くて薄い、まるで小さな酒のビンのような形の、透明な容器が握られていた。中身は、濃い茶色の、とろりとした液体だった。
 「ああ、メープルシロップだ。」
 ちらりと見て答えると、ジェットが、それを冷蔵庫には戻さず、そのままアルベルトのところへ持ってくる。
 「シロップって、甘いのか、これ?」
 皿を洗う手を止めて、濡れた手を、シンクの縁にかけて、アルベルトは、容器とジェットを交互に見る。
 「どうやって、食うんだ、これ?」
 「ハチミツなんかと同じだ。パンケーキにかけたり、アイスクリームにかけたり、紅茶にも入れる。」
 「アンタ、全然、使ってない。」
 ほとんど減った様子のない、中身を見て、ジェットが、怪訝そうに言った。
 「甘すぎるから、一度だけ使って、それっきりだ。」
 アルベルトは、また、皿洗いに戻ろうとした。
 「なめてみても、いいか?」
 ジェットが、容器を胸の前に抱いて、小さな声で言った。
 ああ、とアルベルトがうなずくと、ジェットは、容器のキャップを取って、中を、目を細めて眺めた後、ゆっくりと、伸ばした指先に向かって、容器の口を傾けた。
 とろりと、うつむいた手元で、茶色い雫が、こぼれた。受け止めた指の腹から、流れ落ちるのを、唇が追う。
 口の中で、指先を舐めているのが、頬の動きでわかる。
 「あんまり、甘くない。」
 指を抜き取って、つまらなそうに、ジェットが言った。
 「キミには、そうかもしれない。」
 アルベルトは、思わず笑った。
 ジェットは、自分が笑われたと思ったのか、軽く唇を突き出して、上目にアルベルトをにらむ。
 また、指に茶色い雫をたらすと、アルベルトに向かって、差し出した。
 驚いて、あごを引いて、それから、首を伸ばした。促された通り、舌を出して、ジェットの指を、唇の中に、誘い込む。
 うす甘い、柔らかな味が、舌の上に広がる。
 舌先で、ジェットの指を舐めて、それから、唇を外した。
 ジェットが、おもしろがって、また容器を傾け、今度は、掌に雫をたらす。掌のくぼみにたまったそれを、口の前に持って行って、ぺろりと舐める。
 たれた雫が、手首を汚して、それから、シャツの前を汚した。
 あ、と、声を上げて、まだ手を舐めながら、ジェットがシャツの前をつまみ上げる。白いコットンのシャツに、薄茶色い染みが、ぽつんぽつんと見えた。
 アルベルトは、少し怒ったふりで、ジェットが、それ以上遊ばないように、メープルシロップの容器を取り上げる。
 ジェットが、まだ手を舐めながら、その影で、上目にアルベルトを見た。
 ジェットの舌の動きに、ふと、目を奪われる。アルベルトは、不意に熱くなった頬を隠すために、汚れた皿の方へ、向き直った。
 水を出そうとして、気がそがれ、アルベルトは、皿を洗うのをやめることにした。
 ジェットが、アルベルトの腕を引いた。
 メープルシロップが、まだ唇の回りに残っているのが、見下ろして、見える。
 ジェットの、舌の動きを思い出して、それから、目を細めて、引き寄せられるままに、体を傾けた。
 唇も、口の中も、舌も、甘い。唇は、べとついていた。
 舌先で、その、べたべたする部分を舐め取りながら、薄れてゆく甘みが、なぜか恋しいと思う。
 キッチンの床は、冷たいし、今、水を使ったばかりだから、きっと濡れているなと、そう思ってから、そんなことを考える自分に、少しだけ驚く。
 唇を外したジェットは、腕を伸ばして、キッチンのカウンターにアルベルトが置いた、メープルシロップの容器を、また取り上げ、アルベルトから離れると、キッチンの椅子の上に、足を上げた。
 どうするのだろうと、ジェットを見ていると、椅子に上がってから、くるりとこちらを向いて、テーブルの上に、腰を下ろす。体重の軽いジェットが乗ったところで、テーブルは、きしりとも音を立てない。
 ジェットが、手招いた。
 アルベルトは、椅子をよけて、ジェットの前に行った。
 ジェットは、アルベルトの動きを、目線で追いながら、また掌に、メープルシロップをたらした。
 上目にアルベルトを見ながら、舌先で、メープルシロップをすくい取る。わざと、唇の回りに、塗りつけるように、舌を使いながら、大部分を舐め取って、残りを、アルベルトに差し出す。
 数瞬、ためらってから、ジェットの手首を軽くつかみ、ゆっくりと、それの上に、顔を伏せた。
 全部舐め取るのに、もう、時間はかからない。ジェットが、そんな自分を、じっと見つめているのを知っていて、アルベルトは、必死で平静を保とうとする。
 ジェットの手首をつかんだ指から、速度を速める心臓の鼓動の音が、伝わらないかと、不安になる。
 舐め終わった手を返すと、ジェットが、唇を引き結んでいるのが見えた。緑の瞳が、ゆらゆらと揺れて見えた。
 「・・・なあ・・・」
 汚れていない方の手で、アルベルトを引き寄せる。
 「テーブルが、壊れる。」
 現実的なことを、口にしてみた。途端に、ジェットの頬に、血が上がった。
 その頬の赤みを見て、アルベルトは、自分を、うそつきだと思った。
 「・・・そのうち、捨てようと思ってたんだ。」
 メープルシロップの容器を、ジェットの手からまた取り上げて、アルベルトは、なんだよと、自分を見上げたジェットの肩を、軽く押した。
 倒して、テーブルに体重をかけないようにしながら、ジェットに、キスをする。
 べとつく唇を、また舐めて、間近に、ジェットの潤んだ瞳が見えた。
 使わないから、処分しようと思っていたのは、ほんとうだけれど、今、この場で口にしているのは、単なる言い訳だと、アルベルトは思う。
 思いながら、ジェットのシャツのすそを、まくり上げた。
 薄い、つるりとした腹は、寝そべれば、痛々しく骨が浮き上がり、そのくぼみに、右手の指を滑らせてから、アルベルトは、ジェットを脅かさないように、まず左手に出したメープルシロップを、ジェットの腹に、塗りつけた。
 ジェットが、息を止めたのが、薄い腹筋の動きで、わかる。
 奇妙なことをしているのだと、自覚して、ジェットの腹の上に、顔を伏せた。
 そこで舐める、とろりとした茶色の液体は、もっと甘いような、そんな気がする。
 「・・・へんなとこ、なめるなよ・・・くすぐったい。」
 腹筋が、細かく揺れる。
 今度は、直接、みぞおちに、たらした。
 斜めに、肋骨の形に沿って、腹に落ちてゆく線を、シロップが、とろりと流れてゆく。それを、唇で追って、舌でたどった。
 ジェットを裸にして、すみずみまで舐めたら、どんな感じだろうかと、あまりまともではないことを考える。
 来週、提出する予定の論文のことで、ずっと頭がいっぱいだったのに、今は、ちらとも思い出さない。
 理性が、失くなっていると、自分で思った。
 ジェットは、身をよじることもせず、アルベルトのするままに、テーブルの上に体を伸ばしている。
 こんなふうに欲情する自分が珍しく、戸惑うよりも、観察したい気分でいた。
 ジェットの、ひょろりと長い手足や、胸元が、シロップで汚れるところを想像して、そのせいで、べとつく自分の体を、想像する。
 アルベルトは、ジェットのシャツを、もっと上までまくり上げた。
 また、たらして、舐めながら、ジェットの呼吸が、少しずつ早くなっているのを、左の耳に聞く。
 舐めながら、舌で塗り広げ、わざと残して、乾いて、べたつく膚の感触を、左手に楽しんだ。
 ジェットの手が、アルベルトの肩にかかり、足が、もがくように動いた。
 「・・・いつまで、やってんだよっ・・・」
 まるで、抗議するように、ジェットが小さく叫んだ。
 体を軽く起こして、アルベルトの肩を小突いた。
 「アンタばっかり・・・」
 こんな遊びに夢中になるのは、何も、自分だけではないらしかった。
 ジェットが、頬を染めて、怒ったように目つきをきつくするのを、アルベルトは、どこか微笑ましい気分で眺めた。
 「テーブルが、壊れる。」
 また、同じことを言った。
 抱きついてくるジェットを、抱き返して、肩の上で、ジェットがささやくのを聞いた。
 「だったら、ベッドに行こうぜ。アンタが、シロップまみれになる番だ。」
 べとつく膚が、重なる様を、頭に思い浮かべた。
 「ベッドに、食べ物は、持ち込まない主義なんだ。」
 ジェットが、背中に回した腕に、力を込める。
 くすくすと、忍び笑いに、胸が揺れた。
 ちぇっと、ジェットが、笑いながら、舌打ちした。
 「アンタのに、かけて、舐めたかったのに・・・。」
 ジェットの細い足が、アルベルトの足に絡む。
 その仕草でようやく、ジェットの言葉の意味を解して、アルベルトは、静かに、いきなり真っ赤になった。
 早く、と、アルベルトの頭のどこかで、声がした。
 首に両腕を巻きつけてくるジェットを、正面から抱え上げて、アルベルトはテーブルから離れた。
 メープルシロップの容器は、ふたも閉めないまま、置き去りにされる。
 また、少し重くなったジェットを、両腕で支えながら、近づいてゆくベッドルームのドアに、目を凝らした。
 舌の上に残る、甘味をまた、反芻しながら、メープルシロップを見るたびに、平静でいられなくなるのだろうと、アルベルトは思う。
 ジェットの薄い皮膚から、甘い匂いが、立ち昇った。


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