「あらし」 - 番外編
Tease Me
運転はしなくていいと、そう言われ、けれど後部座席は、驚くほど居心地が悪かった。
アルベルトの隣りで、運転中の、若い男の後頭部を見ている。傷んだ茶色の、肩にかかる長い髪を、きちんと短く切ればいいと、そんなおせっかいなことを考えるのは、車の中に漂う、奇妙に重い空気に気づかないふりをするためだ。
ジェロニモは、何度も、アルベルトの方へ視線を流したけれど、アルベルトは窓に視線を当てていて、こちらに首を動かそうともしない。
足を組み、両腕を胸の前で組んで、ちらともリラックスした様子はなく、こちらに見える左の頬の線が、時折、ひくひくと痙攣するように動くのが見えた。
機嫌が悪いのだ。それも、ひどく。
低く、早口だったあの電話と、何か関わりがあるのだろうかと、ジェロニモは考える。
小さな名刺を取り出して、たっぷり数分眺めて、それから電話をする。
この間電話した者だと、最初に前置きがあって、あちらが、何か確認しているような沈黙があって、アルベルトはただ、そうだ、と小さくうなずいて、そうして、せいぜい20半ばくらいの、クリーンなのをと、念を押すように言って、その時だけ、横顔のまま、ちらりとジェロニモへ視線を流した。
ジェロニモは、いつものように、大きな事務机の傍に立って、電話中のアルベルトからわざわざそらした視線を、少しずれたところへ据えていて、部屋から追い払われないということは、完全にプライベートな用件ではなく、けれどジェロニモにはさっぱりわからない内容だということは、少なくとも仕事に関わることではないらしいと、考えるともなく、思っていた。
興味を持つ必要はない、けれど、知っておかなければならない、それが、ボディーガードの役目だった。
自分に投げられたアルベルトの視線が、挑んでいるような、怯えているような、罪悪感に満ちているような、蔑んでいるような、そのすべてを、複雑に絡み合わせたような色を浮かべていて、それを怪訝に思うと同時に、一体何をするつもりだろうかと、単なるボディーガードで、優秀な部下であるという以上の、好奇心が湧く。
直に教える気はないくせに、隠す気もないように、行くぞと、素っ気ない声であごを振って、ジェロニモを促した。
部屋を出て、前を歩き出した背中は、いつも以上に頑なに見えて、ふと、今はただの部下である一線を、あやうく越えてしまいそうになる自分を、ジェロニモは必死に止めた。
運転席の男に告げた行き先は、市内ではなく、高速に乗ってしばらく走った途中にある、寂れた、小さな街だった。
必要なこと以外、一切何も言わないアルベルトに、尋ねることはおそらく無駄だろうと、いまだ心の底のわからない、白い男の横顔を見る。
それ以上は、何も考えないようにして、ジェロニモは、車が走ってゆく前方に目を据えた。
運転手は、この辺りの地理には明るいのか、アルベルトに、行く先について何も問い返すこともせず、見た目の若さに似合わない慎重な運転で、黙ってハンドルを握っていた。
高速に乗って、しばらく経って、アルベルトが、不意に動いた。
ジェロニモに肩をすりつけて来て、それから、伸ばした右手を頬に添えてきた。
まるで、猫が突然喉を鳴らして、じゃれついてくるように、唐突にジェロニモに抱きつくと、まるでふたりきりの時のように、唇を重ねてくる。
慌てた仕草で、アルベルトを抱き返す余裕などあるわけもなく、運転手の、ちらりとも動かない後頭部に横目で視線を流して、ジェロニモは、振り払うわけにも行かないアルベルトの腕に、そっと自分の手を掛ける。
動く舌が、ぬるりと唇を舐めて、合わせ目から入り込むと、強引に歯列を割ってくる。どういうつもりだろうかと、目を白黒させながら、逆らいはせずに、応えるために唇を開く。
運転席の男には、気配でばれているだろうか、それとも、ちらとも視線を動かしているようには見えないバックミラーに、けれど写る姿を見られているだろうかと、ジェロニモは、首の後ろに冷たい汗が吹き出すのを感じた。
舌を深く絡め合わせながら、アルベルトの右手が、ジェロニモの膝を撫で始める。筋肉ばかりの、硬い腿の内側を、革手袋の感触が這い回る。
きっちりととめていた上着のボタンが外され、ネクタイの下に右手が滑り、素肌にも、直に触れてくるかもしれないと、ジェロニモは体を固くする。
まるで、食い散らされるような接吻に、困惑交じりに応えながら、シャツの上から触れるアルベルトの右手に、体温は、確実に上昇していた。
唇の間からもれる濡れた音の大きさに、もう驚くこともなく、完全に本心からではないにせよ、アルベルトの誘いに乗せられた形で、ジェロニモは、ためらいながらも、アルベルトを抱き寄せようとさえしている。
腿の内側を撫でていた手が、もっときわどい触れ方をしてきた時も、もう止めようとすらしなかった。
布越しに、形を確かめられ、こすり上げられて、絡みつく指先の、その硬さの、うまく伝わって来ないもどかしさに、うっかり自ら躯を開いてしまいそうになりながら、接吻の内側に、声を殺す。
その右手で触れられることを、ジェロニモが嫌がる---そして、そんな事実は、ない---よりも、アルベルト自身が、触れることにためらういつもとは違って、直ではないせいなのか、ひどく大胆に、卑猥に手を動かしていた。
これから、どこか、ふたりきりにでもなれる場所へ行く気なのだろうかと、何もかもを忘れてしまいたい気分になりながら、そう願う。
直に触れたい、触れ合いたいと、そう思わずにはいられずにさせられて、思わず、ひどく切なそうにアルベルトを見つめてしまったことに気づいて、ジェロニモは慌てて目を伏せた。
上気した頬に散る髪を、頭を振ってどかせ、アルベルトは、不意にジェロニモから腕を引いた。
さっきまでの、言葉もない激情がうそのように、またドアの傍に寄って、ジェロニモから離れると、乱れた髪や服を整えて、それから、唾液で濡れて光る唇を、左手で拭う。
いきなり放り出され、そのことを責められる立場でもなく、ジェロニモは、呆然と、アルベルトの硬い横顔を見つめた。
車は、いつの間にか高速を降りていて、そのまま高速沿いを走りながら、街の中へは入らずに、ぽつりぽつりとあるモーテルのひとつへ向かって、ゆっくりと徐行し始める。
場末の、いかにも気軽に数時間、誰からも邪魔されないために、ひっそりと---誰かと、一緒に---こもるためのような、人気のないモーテルのように見えた。
ここへ部屋を取るのかと、隣りで、ずらりと並んだ部屋のドアを見つめているアルベルトの横顔を、そっと盗み見る。
アルベルトは、いきなり組んでいた腕を解いて、懐ろから百ドル紙幣を数枚取り出すと、それを、ジェロニモの膝に放り投げた。
「3時間後に、ここに戻って来い。おまえはそれまで、女でも拾って好きにしろ。」
最初の部分は、運転手に聞こえるように、後の部分は、少しだけ声を低めて、まるで投げ捨てるように、けれど最後まで、アルベルトはジェロニモの方を見なかった。
車を降りてしまうと、振り返らずに、恐らくコの字型に建てられた建物の内側へ、駐車場を左に横切って、入り込んでゆく。
誰が待っているのだろう。そのためだけに用意された、薄暗い部屋の中で、誰が、アルベルトを待っているのだろう。相手を見れば、平静ではいられないような気がして、自分を貪るアルベルトの、いつもの激しさを思い出しながら、ジェロニモは、顔も知らない誰かと、絡み合うアルベルトの姿を想像して、それがうまく像を結ばないことに、今は深く感謝する。
アルベルトが、建物のどこかへ消え、それから、ジェロニモはやっと、膝の上に散らばった紙幣をつまみ上げた。
どこかで女を拾って、数時間愉しむには、少しばかり多すぎる。ジェロニモをおもちゃにした、その代金と言うわけだ。
どうしてか、目の奥が痛くなった。
アルベルトは、もう部屋へ入っただろうか。待っているのは、おそらく身ぎれいななりの、若い男。金のために、何でもする類いの、秘密を守ってくれるはずの、そんな男と、ジェロニモとはできない何かを、愉しむために。
「女のいる処へでも?」
黙ったままでいるジェロニモに、運転席の若い男が、顔を動かさずに声を掛けた。
考えて、それから、アルベルトの投げて行った紙幣のうちの1枚を、運転手の肩越しに差し出しながら、ジェロニモは、努めて平静な声で、
「酒の飲めるところ、行く。後で、迎え、来る。」
男は、握っていたハンドルから、左手だけを離して、振り返らずに、肩に乗った紙幣を受け取った。
言われた通りに女とどこかへ消えれば、アルベルトは敏感にそれを悟るだろう。自分がそう唆したくせに、そうだと知れば、ジェロニモに腹を立てる。
けれど、そうしろと言われたことを拒んだと知れば、それにもまた腹を立てる。
どこかで調達してきた男と分け合う数時間の共犯者に、ジェロニモを仕立て上げるためのお膳立てを、ジェロニモが台無しにすれば、ひとりきりで己れを恥じることに、アルベルトは耐えられない。
あれは、そういう人だ。
こうやって、無礼としか思えない方法で、人の心を試すしか、人の想いを確かめる術を持たない人なのだと、ジェロニモは、投げられた紙幣を重ねて、丁寧にふたつに折って、上着の胸ポケットに入れた。
やっとモーテルの駐車場を出た車の中で、乱された服を整えて、いつもの無表情を取り戻すと、まだ身内に残る熱に、引き戻される心を、必死で引き止めながら、膝を軽く閉じて、その上に両手を組む。
右腕のことを、アルベルトは何と言うのだろう。それとも、何も言わずに、あの腕で、どこかの見知らぬ誰かを、抱き寄せるのだろうか。
ジェロニモは、滑るように走る車の中で、座席の後ろに頭をもたせかけた。そうして、取り出したサングラスを掛けて、目元を隠した。
胸が、きりきりと痛んでいた。
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