「あらし」 - 番外編
Tease Me #2
視界が、少しばかりぐらぐらとして、足が地面から浮いているような気がした。
車のドアを開けて、外で待っているジェロニモに、視線を投げることができたのはほんの一瞬で、転がり込むように、後部座席に倒れて、アルベルトは自分の肩を抱いた。
寒いわけでない。けれど、体のふるえが止まらない。心配そうに、中に上半身だけ入って、近々と見下ろしているジェロニモを、横目にちらりと見た。
「ボス・・・?」
今は、そんなふうには呼ばれたくはない。聞きたいのは、そんな声ではない。
うるさそうに腕を振って、それから、汗の浮いた額を、ついでに掌で拭う。拭ってから、それが、革手袋の右手だったことに気づいて、ちっと舌を打った。
「ボス・・・」
ジェロニモの手が、肩に乗る。大きくて、そのくせ、重みもないような、暖かな手だった。
触れられたそこから、びりびりと全身に痺れが走る。びくんと、体がのけ反った。
まるで怯えたように、手を引っ込めたジェロニモが、また上からのぞき込んでくる。
放っておいてくれ。早く、家に帰してくれ。
胸の前に寄せた腕の中に、顔を埋めて、アルベルトはそう思った。
ふわりと、体の上にかけられたのは、ジェロニモの、大きな上着だった。
やっと頭を起こして、そちらに首を伸ばすと、アルベルトの足をきちんと車の中に入れ、静かにドアを閉めるジェロニモの姿が、窓の向こうに見えた。
「おれ、運転する。おまえ、ここで降りる。」
運転席の若い男と、短いやり取りをしているのが聞こえ、アルベルトは、肩に掛かったジェロニモの上着をあごまで引き寄せて、両手でぎゅっと握った。
注文通りの相手だった。若くて、きちんしていて、ヤク中でもアル中でもなさそうに見えた。
いちいち、こちらの意向を伝えなければならないのが、ひどく鬱陶しくて、アルベルトがそう言った通り、目隠しをして、両手を縛って、自分に触れてくる、なめらかな掌の感触だけに集中しながら、アルベルトはすでに後悔し始めていた。
金であがなわれたことはあっても、あがなったことはない。
金で買った男と、売られる身だった、子どもの頃の自分とが重なる。いやな汗が吹き出て、躯は、反応するどころか、委縮してゆくばかりだった。
だから、用意していた薬を使った。
自分に半錠、面白がった相手にも半錠、ずっと以前、ジェットが、そうしたように。
文字通り、我を忘れた。躯を繋げる以外のことは、すべてやったような気がする。手と口と指と、薬のせいなのか、男は、アルベルトの右腕について問うことすらせず、気づいてすらいないように、どの男も、常にそうだったように、むしろその手で触れられることを面白がった。
姿勢を変えるたびにずれる目隠しが、すっかり取れてしまって、そうして、上に見える男の顔に、ジェットやグレートを重ねた。
男の体つきは、どちらかと言うとグレートを思い出させたけれど、稚拙な動きはジェットほど荒々しくもなく、違うと、心の中で、ずっと叫び続けていた。
何か、ろくでもない道具でもあれば、もっと別のことをしたのだろう。残念ながら男は、空手で来ていて、そのことを、残念にも、ありがたくも、アルベルトは思った。
約束の時間が過ぎて、ふらふらしながら身支度を整え、金はもう、先渡ししてあったので、別の紙幣をベッドに投げて、アルベルトは、逃げるように部屋を出た。
男が、多分そう思わないだろう以上に、アルベルトは、二度とその男に会いたいとは思わなかった。
車がガレージに入って止まり、車のドアを開けたジェロニモの腕に、抱き抱えられた。ジェロニモの上着を、しっかりと肩に巻きつけて、ぶ厚い胸と肩に、額をぶつけるようにしながら、自分を運ぶジェロニモの、今はすっかり覚えてしまった体臭を、胸一杯に吸い込む。
触れられる端から、皮膚が溶けてしまうような気がした。
家の中に入ったジェロニモに、
「ベッドに・・・」
と言うと、素直にそのまま2階へ運び上げる。
けっして軽くはないアルベルトの体を、胸の前に抱いて、ジェロニモは階段を上がりながら、よろけもしない。
ベッドで体を伸ばして、ようやく、アルベルトは、自分を心配そうに見下ろすジェロニモを、真っ直ぐに見つめた。
まだ、薬の効き目が残っている。薬が切れなければ、眠ることもできない。
体の下に敷いたジェロニモの上着を、起き上がった背中の下から抜き取って、床に投げた。それを拾おうと、そちらに向いたジェロニモのネクタイを、手前に強く引っ張った。
グレートにも、ジェットにも、どちらにも似ていない。引き寄せて、自分の下に引き倒して、そのぶ厚い腰をまたぎながら、似ていない方がいいのだと、ひとりでにやりと笑う。
抗いかける両腕を、シーツに縫いつけて、首筋に顔を埋めて、他の誰かの---女の---匂いがないか、確かめた。
女の匂いはない。他の誰の匂いもない。どこの誰とも知らない男と、絡み合って来たばかりの自分とは違う。
膚に染みついたその匂いを、消すために。
服を脱いで、脱がせて、ジェロニモの手を、全身に引き寄せる。大きな、いつも暖かい掌。触れる手が溶け、こぼれながら、全身を覆う。
熱い膜に包まれて、何度も息を止めた。
上から躯を繋げて、肩から揺すり上げる。ジェロニモを導きながら、注がれて、そのたび、皮膚が1枚、溶けてゆく。
交じり合って、どちらのともわからない唾液が、あごを濡らす。汗でぬるつく肩をぶつけて、首筋に添えられた掌に、揺れる体の重みを預けた。
何度も何度も、迎え入れた内側は、もう熱も痛みもなく、それでも、求めることをやめられずに、また上から繋がってゆく。
果てた後の、真空のような数瞬が、次第に長くなる。
ぼうとして、焦点の合わない目で、ジェロニモをねめつけて、アルベルトは、その頬に走る白い線を、1本1本、舌で剥ぎ取るように舐めた。
やわらかなまぶたに歯を立て、眉間に噛みつき、そうしてふと、そのままジェロニモの眼球を、飲み込んでしまいたくなる。
自分のとも、グレートのとも、ジェットのそれとも、色の違う、ジェロニモの瞳。底なし沼の水面のような、静かな、濃い茶色の瞳。足を取られれば、浮かび上がることのかなわない、底なし沼の底へ、引きずり込まれてゆくように、アルベルトは、ジェロニモの瞳をのぞき込む。まつ毛の触れ合う音さえ、聞こえそうに。
舌に乗せて、喉の奥へ送り込んで、飲み込んで、つるりと食道を滑ってゆく。ことりと、音を立てて胃の中へ落ち着く。胃液が、ゆっくりとその眼球を溶かしてゆく。溶けて、胃壁を通り、血管を流れ、体中を駆け巡って、血肉になる。
目がなくなれば、もう、こんな醜い様を、眺めなくてすむ。アルベルトに、尽くす義理があるとしても、果たせないと言い訳が立つ。
離してやれと、声がした。心のうろを埋めるための、一時しのぎのおもちゃなら、もう許してやれと、声がした。
その声に逆らうために、いつもにない激しさで、ジェロニモに挑み、自ら淫らな仕草と姿勢で誘う。今は正気ではないのだと、自分に言い訳しながら、開いた躯の奥へ奥へ、ジェロニモの熱を飲み込んでゆく。
そうやって、注ぎ込まれながら、すり切れ、干からびてゆくのは、アルベルトの方なのはどうしてだろう。
折り曲げ、ねじ曲げ、歪んだ形に整えられたのは、躯だけではない。受け入れるために引き裂かれたのは、躯だけではない。
けれど、こんなやり方しかしらない。誰かと、躯で繋がれば繋がるほど、心が遠くなってゆく。
ジェロニモを、魂のない人形のように扱いながら、そうする自分に吐き気がする。
それなのに、欲しがることをやめられない。
一体、何を欲しがっているのだろう。暖めてくれる肌か、抱きしめてくれる腕か、それともただ、注がれる熱か。
もう、そこから先へは進めずに、ジェロニモの上で、アルベルトの体が、ぐらりと傾いた。
抱き取られた腕は、これ以上ないほど、熱かった。
胃の痛みで目覚め、ざらつく口の中に、ひどい苦みがあった。
水でも飲もうと、まだ傍で、疲れ果てて眠っているジェロニモを起こさないように、そっと床へ降りた。
床に投げたジェロニモの上着が、爪先に当たる。ぎしぎしと、きしむ体をゆっくりと折って、それを拾い上げた。
全裸の肩に羽織って、そのまま腕を通すと、すっぽりと体を包んでくる。そうして、ベッドの方へ振り返って、改めてジェロニモの大きさに驚いてみる。
鏡をのぞくまでもなく、憔悴した自分の顔が、目の前の闇に浮かんだ。その頬に、涙が流れる。
崩れ落ちるように、床に膝を折り、アルベルトは、そこで自分の体を抱きしめた。
声を殺して泣きながら、自分の、救いようのない醜さを、心の底から呪った。
ジェロニモの上着に顔を埋め、アルベルトは、そのまま、冷たい床の上で泣き続けた。
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