The Abyss - 「あらし」番外編
たとえばこれは、少なくとも親愛の表現のひとつなのだと、長い間そう信じて来た。膚を合わせること、躯を重ねること、どれほど滑稽で陳腐であろうと、そうするなら、そこには何か、互いを、あるいは少なくとも相手を、大事に思う気持ちがあるはずだと、ずっとそう信じて来た。
グレートといる時に、大抵の場合、彼は幸せそうに見えた。グレートも、幸せそうに見えた。
赤毛のあの男と一緒にいる時を、ほとんど目にしたことはなかったけれど、グレートを裏切ってまで一緒にいようとした相手なのだから、きっと彼は幸せだったのだろう。
そうじゃなかったのかと、直接尋ねることなどできるはずもなく、ふたりともを失った彼は、それ以来どこかに感情の大元を置き忘れて来たように、滅多と笑うこともなく、幸せそうに見えたことなどないような気がする。
当然だと思いながら、同時に、グレートを裏切った報いだろうと、ほんのわずか、髪の毛ひと筋ほどのかすかさで、彼を責める気持ちもどこかにあると、ジェロニモは気づいている。
それでも、グレートを失った悲しさを分け合える互いだったから、そんな気持ちは絶対に表には出さず、グレートと言う支えを失った後では、もう互いしか残ってはいなかったから、ほんとうのところはともかくも、ふたりは何となく向き合って、互いに腕を伸ばし合い、支え合うことになった。
互いにどこか、本意ではないのだと、そう感じている節がある。仕方なく一緒にいる、抱き合っていても、薄寒い空気が、胸の間に、優しいそよ風の振りをして滑り込んで来る。
抱き合いたいのは、傍にいたいのは、互いではないけれど、他には誰もいない。だから、我慢している。
彼の方が、そんな態度は露骨だ。おまえしかいない。仕方ないからおまえでいい。彼を護る立場のジェロニモは、彼の態度に対しては何の感想も表わさず、そもそもグレートが死んだのはこの男のせいだと考えたところで、人を恨むことに慣れていないジェロニモは、自分の気持ちをどう名づけていいのかわからず、憤りのような、やるせなさのような、あるいはただ、グレートのいないことが悲しくて淋しくて、彼もまったく同じ気持ちを味わっているのだと思えば、彼は充分に罰を受けているのだからと考えもする。
世間並みの言葉で言うなら、彼はグレートの情人だった。彼ら自身は自分たちをきちんと恋人同士──あるいは、もっと深くて親(ちか)しい間柄──だと思ってそう振る舞っていたから、グレートを喪った痛みは、彼の方がきっと深いのだろうとジェロニモは思う。
まるで、自分の体の一部を失ったように。
そう考えてから、ジェロニモは彼の右腕のことを思った。
彼は文字通り体の一部を欠いていて、金属で形作った代用品を身に着けている。そのことを、彼は滅多と他人に知らせず、ジェロニモが知る限り、彼の体を見たことがあるのは、グレートとあの赤毛の男、そしてジェロニモ自身だけのはずだ。後は、たまに会いにゆく医者だけだ。
硬くて冷たい、彼の右腕。生身と同じ形だろうかと、触れるたびに思う。爪の形さえそっくりに模して、この腕に触れたグレートと、この掌に触れられたグレートと、あの赤毛の男と、自分たちは奇妙な形にこの男を通して繋がり、彼本人に対しては常に距離を感じていると言うのに、ジェロニモは時折、グレートやあの赤毛の男に、ほとんど皮膚に直に触れるような親密さを感じることがある。
彼に触れ、彼に触れられ、彼と寝た男たち。彼が求めた、ごく少数の男たち。そこに自分の顔があるのを、ジェロニモは不思議に思う。
腕を失くした代わりにグレートを得たのか、グレートを失ったからあの腕も失ったのか、すっかり見慣れてしまった彼の裸体は、今さら生身で元に戻ったとしても、恐らく彼のようには見えないだろう。
右肩とそちら側の胸が半分欠けた、代わりに金属の腕を着けた彼の体。鉛色のそれは冷たく、拳の形で振り下ろすと、簡単に骨くらい折れてしまいそうだ。彼に、そちらの手で殴られるたびに痣が残ることはあっても、まだそれ以上の怪我をしたことがないと言うことは、彼なりに手加減をしているのだと気づいたのは、一体何がきっかけだったか。
あまりに次元の違う、彼の優しさではあったけれど、それでも確かにそれは優しさではあったし、それを優しさと感じてしまうのは、恐らく自分の神経が少しばかり病んでいるのだとも、同時に思った。
あんな風にしか、優しさを表現できない男なのだ。グレートが教えてくれた優しさは、人が悲しみの泥にまみれた後に、他の誰にも泥をかぶせたくはないと、汚れたままの全身を差し出すような優しさだった。護ろうと近寄れば、護る相手を汚すのに、それでも、護る手を伸ばさずにはいられなくて、触れた端から汚れてしまう、その原因になってしまう泥まみれの自分の手を、けれどきれいに洗う術はとうに失われていた。グレートの優しさを受け入れられるのは、グレートの汚れに、一緒に染まってしまえる誰かだけだった。彼と。そして自分と。
彼は、グレートから伝(うつ)る汚れには、その存在すら気づいてない風に、ジェロニモは、気づきながら、構わずにグレートの手を取って、自分からその汚泥の中に浸り込むことを選んだ。
同じ泥にまみれても、その存在に気づかない彼は、今は自分が伝す汚れの存在を知らず、ジェロニモは、できればこれ以上は広がらないようにと、誰にも胸を広げずに、誰を抱きしめる目的もない両腕は、ぶらりと下がったままだ。
グレートの泥に、すでにまみれているふたりは、これ以上汚れる心配もせず、汚す心配もしない。ふたりでいる限り、汚染は広がらずにすむ。
グレートが残したもの。彼と、この汚れと、そして、筆舌に尽くし難い深い、底のない悲しみ。ひとりで沈み込むには昏(くら)過ぎるし深過ぎるけれど、ふたりでなら、その闇の濃さにも耐えられる。
それだけで、人は繋がり合えてしまうものなのだ。愛だの情だの、そんなものはかけらもなくても、ただ淋しくて、触れられるぬくもりでさえあればそれだけで充分だと、それだけで人は、躯を重ねてしまえるものなのだ。
彼の、ぬくもりのない右腕。体温がひとり分ではない、彼の躯。あたためるために、自分の体温を伝える。分け与える前に奪われて、肌をこすり合わせていればグレートがいないことに耐えられるとでも言いたげに、彼はただジェロニモを貪り続ける。
愛も情もなく、躯は繋がる。触れれば躯は反応するし、繋がれば確かな手応えを返して来る。水素と酸素が混ざれば水になる、それと同じただの反応だ。
それなのに、彼に腕を引かれるごとに、躯はより深く繋がって、心まで少しずつ、溶けて彼の方へ流れて行くような気がする。
グレートを間に置かなければ、何の関りもないはずの彼だった。
自分はきっと、グレートの代わりですらないのだ。ただ、淋しさと悲しさを紛らわすためのぬくもり、たまたま体温のある、彼を満たせる何か。
彼を満たしながら、いつの間にか自分も満たされている。彼を通して、ジェロニモは自分の胸のうちに空いてしまった穴に気づいた。グレートは、彼の一部を奪って逝き、同じように、ジェロニモのどこかも、グレートを喪って欠けてしまっている。彼のそれほどあわらではないジェロニモの喪失感は、彼を鏡にして映し出される。彼に近づけば近づくほど、ジェロニモはグレートを失くした後の自分の姿を、彼の上に鮮やかに見てしまう。
感情の失せたような彼は、ジェロニモそのままの姿だ。同じだと、彼を抱いて思う。喪った悲しさは同じだ。その昏さもその深さも、まるで双子のそれのように、ふたりの抱え込んだ闇は同じ色をしている。
時と場所を違えて生まれた、血の繋がらない双子の兄弟のような、グレートを親にしたふたりは、今ではまるで体の一部が繋がったまま生まれるシャムの双生児のように、別々の躯を無理に繋げて、そうして、やっと完全にひとりになれるのだと、心のどこかで感じている。
彼の足りない体温を補い、彼の足りない右腕を補い、そうして彼は、グレートの思い出を、ジェロニモの中に注ぎ込む。混ぜて満たして、ふたり分の思い出は、そうやって嵩を増し、重なればいっそう鮮やかに、記憶の中に焼きついてゆく。
グレートを忘れないために。忘れてしまえば、もうふたりには何も残らないから、だから、グレートを忘れないために。
彼がそう求めるように、彼を抱く。折り重なって、彼の手足を折りたたんで、手足を、肌の色の違いでやっとどちらがどちらと分かるくらいに絡め合って、そうして、彼が躯を裏返し、獣の姿勢を取ると、ジェロニモは彼の背中に掌を当てて、彼の躯に繋がってゆく。
見下ろせば、歪んで見える彼の体だった。右腕のせいか、あるいは反り返る背中の角度のせいか、あるいは胸の下に敷き込んで、無理矢理押し潰された腕のせいか、高く差し出された腰を自分の方へ引き寄せながら、円みも柔らかさもない彼の体の、けれどそこは信じられないほど熱い内側に取り込まれて、その熱さが、ふと錯覚を呼ぶ。
グレートは、今では言い訳に過ぎないのかもしれない。始まりは確かにそうだった。グレートがいない。それが理由だった。けれど今では、ジェロニモの腕は彼のためだけにあったし、彼はそれをジェロニモに強いると同時に、どこかへふらりと姿を消すことをいつの間にかやめてしまっている。少なくとも、ジェロニモに知らせるようにはやらない。
すべては誤解だろうか。相変わらず、グレートなしには呼吸すらできないままのふたりなのか。
それとも、いつの間にか、互いが、生きてゆく理由に変わってしまっているのだろうか。
躯が、一緒に揺れる。彼の髪がシーツに散って、額を押しつけたその下で、歪んだ声が湿る。こすり上げられて、慄える躯。取り込まれて、引きずり込まれてゆく躯。
この姿勢を彼が好むのは、顔を見られたくないからだと知っている。そして、顔を見られたくないのは、隠さなければ、もう何もかもがあらわになってしまうからだ。
彼の躯が応える。ジェロニモに沿って、これ以上は不可能に思える深さで寄り添って来る。そうして次の時には、いっそう深く繋がる躯だった。
底なしの彼の悲しみを、満たすことはできないだろう。彼の躯の熱さと同じに、何もかもが底なしの彼は、底のない深遠にジェロニモを引きずり込んで、それはまるで、心中に誘われているようだと思ったこともあったけれど、今では逆に、死なないために彼にはこれが必要なのだと知っている。
そこで生き続けて呼吸を続けるために、彼はぬくもりを求めている。誰のぬくもりでも構わないはずだった。けれど彼は、ジェロニモを選んだ。ジェロニモが、グレートの傍にいたから。ジェロニモもまた、グレートに護られた人間だったから。
背中から、ジェロニモは彼の右腕に触れた。どれほどぬくまっても、数度低い体温──と言うのも妙だ──が、掌に今はひやりと冷たい。汗をかくはずもないその腕に、ジェロニモは自分の汗を移して、そうして、喉元へ突然こみ上げて来た何かに突き上げられたように、声が彼を呼んでいた。
「・・・アルベルト。」
聞こえたのか聞こえないのか、彼はそれには反応せず、躯だけは相変わらず、ジェロニモに応え続けている。
幸いに酸素には満たされた彼の深潭に、ジェロニモは彼と一緒に沈み込んでゆく。彼に伴われて、彼だけがそこへジェロニモを連れてゆける。息を止めている時間を数えて、ジェロニモは、彼のためにひと時仮死の世界へ飛び込もうとした。
肩越しに、不意に彼が振り向いて、無理にそこから伸ばした右手が、ジェロニモに触れようとする。もがくように動くその手に気づいて、ジェロニモは自分の手をそこへ預けた。
獣の姿勢で繋がりながら、右手が重なる。そこだけは見間違えようのない、あくまでひとらしいふたりの手だった。
自分のことを、ろくでなしで人でなしだと言っていた、グレートの声を唐突に思い出して、おれたちはみんなそうだと、ジェロニモはその声に向かってつぶやいていた。
震える唇が続けて、また彼の名を呼んだ。
アルベルト。
今度は彼が声に合わせてジェロニモを振り返り、切なそうに眉を寄せた。
開きかけた唇が、また動きかける。ジェロニモはそれを途中で止めた。この男を愛しているのだと突然悟って、それを口にしてしまうところだったからだ。
言ってはいけない。伝えてはいけない。まだ。あるいは、永遠に。絶対に。
彼の右手を握りしめた。強くではなく、ただ優しく。それだけのことが、繋がった躯よりも、いっそう彼に近づけるような、そんな気がした。