「あらし」 - 番外編
The Moment
ダウンタウンの、大きなレストラン、行けば必ず知った顔に会う、そんな場所だった。
まだ、人込みに連れ出すたび、おどおどとした素振りで、グレートの上着の袖をつかんで、その背中の陰に隠れようとする。もう、隠れようとしても、肩がはみ出してしまうほど、背が伸びたというのに。
伸びっ放しの柔らかな銀の髪は、時折あちこちを、つまんでグレートが切ってやる。
上から下まで、すきなく揃えた服も靴も、グレートが選んで与えたものだった。
生身の人間というよりは、誰かが気まぐれに造った人形のようなこの若者---まだ、少年と言った方が良さそうな---は、まるで自分の意思などないように、グレートに従う。
無理なことを、グレートがしないとわかっているのか、口答えなど、まだしたこともない。
生まれたばかりの動物のヒナが、初めて見たものを親と思うように、アルベルトは、すり切れた心を慰撫してくれるグレートを、自分の庇護者と、素直に受け入れている。
今夜も、外へ食事へ出掛けようと言うと、少しだけ不安に眉をくもらせて、それでもこくりとうなずいた。
外へ出るのを、まだ怖がっている。
親に売られたために、腕を失くしたために、閉じ込められていた時間はあまりにも長く、外界は、異次元でしかない。
化け物の徘徊する、恐ろしい場所。
そこが、少なくともこれからは普通の生活の場になるのだと教えるために、グレートは辛抱強く、アルベルトを、外の世界に馴れさせようとしている。
席に案内され、自分のためにワインを選び、アルベルトのためにミルクの入った紅茶を頼んで、それから、メニューを開いて、手渡した。
レストランへ食事へ行くために、服を選ぶこと、シャツを着ること、靴の紐を結ぶこと、レストランで、メニューを読んで、食べたいものを選ぶこと、ウエイターやウエイトレスと言葉を交わすこと、ひとつびとつを、見せて、学ばせる。
少しだけ、親の気分を味わっていた。
メニュー越しに、アルベルトがグレートを見た。少しばかり戸惑ったような視線が、読めるけれども、メニューが理解できないと言っている。
今度また、あのドイツ料理の店に連れてゆくかと、ふと思って、アルベルトのメニューに手を伸ばした時、アルべルトが、そうとはっきりわかるほど、頬を硬張らせ、瞳を見開いた。
「どうした?」
メニューの陰に、頭を下げて顔を隠し、それだけ見える指が、震えていた。
「どうした?」
語気を強くして、重ねて尋く。
怯えた色の瞳が、メニューの上に、また現れた。
「・・・・・・人が、いる。」
言っている意味がよくわからず、アルベルトの視線をたどって、グレートは、肩越しにそっと振り返った。
確かに、人は大勢いる。店は、ざわめきで満ちている。どれだ、とグレートは目顔で尋いた。
「人って、誰だ?」
アルベルトが首を振った。
「どうした?」
メニューを持ったまま、震えている指を、そっと握ってやった。
「・・・あそこに、いる。前に、腕がある時に、ひどいこと、された。」
腕が、まだあった頃、つまり、悪趣味な連中に、金で買われていた頃。その金を受け取ったのは、もちろんアルベルトではないけれど。
口元が引きつるのを、止められなかった。
メニューを取り上げて、真っ青になっているアルベルトの手を、人目もかまわず、テーブルの上で握る。
指に力を込めて、必死で、声の調子を抑えて、グレートは訊いた。
「どれだ、どいつだ?」
アルベルトが、今は、革の手袋に包まれている、機械の右手の指を、ゆっくりとグレートの背後に伸ばして示した。
静かな声で問い詰めると、アルベルトは、泣きながら、起こったことを話した。
つたない言葉使いで、稚ない表現で、その男がしたことを、切れ切れに語った。
話を止めようとするアルベルトを、聞き続けることの苦痛を押し隠しながら、グレートは何度も促した。
男が欲しかったのは、アルベルトよりももっと年下の、少年とさえ言えない年齢の男の子だったらしかった。
あてがわれたアルベルトに、不満を隠しもせず、髪をつかみ、肩や腕を揺さぶって、何度も床の上に突き飛ばした。
頬を何度も張られ、唇の端から血を流しながら、口で、男を悦ばせることを、強制された。
歯を立てたと言っては、小突かれ、喉をうまく奥まで開けないと言っては、また殴られ、男の言葉を話せないアルベルトを、その間中、部屋が揺れるほどの大声で、怒鳴り続けた。
怯えて、体を縮めると、手足を縛り、それから、何の愛撫も加えないまま、男はアルベルトを使った。
痛みに悲鳴を上げると、口を塞がれ、容赦もなく、開ききらない躯を侵す。何度も、何度も、男はアルベルトの薄く細い躯を、痛めつけた。
目元が腫れ上がり、唇の端は切れて、青く跡を残していた。
泣くことももうできずに、床に転がされたまま、夜明けまで、男は飽きずに、アルベルトの躯を引き裂き続けた。
裂傷のひどさに、ひとりでは歩くこともできず、それでも翌日にはまた、別の男に買われた。
うつむいて、子どものようにしゃくり上げながら話すアルベルトを、強いて無表情に見つめながら、煙草を持つ手が震えるのを、グレートは、止めることが出来なかった。
+++++++++++++++++++++++++++++
おいで、と手を伸ばす。
アルベルトは素直に立ち上がり、それでも、ためらいを隠せない。
なだめながら、その手を引いて車に乗せ、連れて行ったのは、張大人の店の、地下だった。
監禁や、私刑のために使う、場所。
その部屋に今転がっているのは、殴られ、血塗れになった、あの、アルベルトがレストランで示した、男だった。
手足を縛られ、もう、どれほど長く床に横たわっているのか、死んだように動かない男を、グレートは、冷たく見下ろした。
自分の傍で、これが、あの男だと気づいて、アルベルトが息を飲む音が聞こえる。
あの時、この男がアルベルトにしたように、今は、男の方が、殴られ、痛めつけられ、床に転がされている。
手足の1、2本、へし折ってもかまわない、と部下には告げてあった。
ただ、誰にも見つからずに、ここへ連れて来い。
部下たちは、この男が、グレートに一体何をしたのだろうかと、怪訝な顔を見せた。それでも、ボスの命令に口出しする者はいるはずもなく、男は速やかに見つけ出され、ここへ連れて来られ、理由すらわからないまま、部下たちに、一昼夜殴られ続けていた。
床にぽつぽつと、血に塗れた白いかたまりが転がっている。一枚一枚、ペンチで剥がした、男の手の爪だった。
目をえぐり出してやってもよかったのだと、そんなことを平然と思う自分に、ふと背筋が寒くなる。
腕が折れていると、今は外にいる部下のひとりに、告げられていた。
おそらく飲み込んでしまったのだろうけれど、歯も、少なくとも数本折れているだろう。
左耳の辺りから、血の筋が大量に頬に向かって流れているのは、耳を削ぎ落としかけたせいに違いなかった。
裸にすれば、体中、白い部分など残っていないほど、あざだらけだろうし、股間は、何度も蹴り上げられたせいで、使い物にまだなるにしても、腫れ上がって、しばらくは歩けないに違いない。
使う機会が、あれば、だけれど。
性器を切り取って、死体の口に突っ込むのは、イタリア人がよくやる手だ。そんな時はたいてい、輪姦もされている。
そうしてやっても良かった。こんな男には、他の男に強姦されるなど、その身に起こり得る、最悪に違いなかった。それでも、性的な暴行は、男に対するにせよ、女に対するにせよ、あまりグレートの好みではなかった。
指から、一本一本、関節ごとにへし折ってやるという手もあったと、今はもう、ぼろくずのようになった男を見下ろして、思う。
残酷に痛ぶる方法など、数え上げればきりがない。
この男は、アルベルトのような少年を、一体何人、どれほど、どれだけ長く、踏みにじってきたのだろう。
金さえ渡せば、何でも調達してくれる人間たちに、こっそりと望むものを伝え、手に入れる。
それは、人ではない。物でしかない。物は、使われるためにあり、どんな使われ方をしようと、文句を言うはずもなかった。
アルベルトも、物だった。今ようやく、人に戻るために、こういうことも必要なのだと、グレートは、自分の傍らで、口元を押さえて震えているアルベルトを、そっと振り返る。
おれは、人殺しだ。
心の、深い部分で、低くつぶやいて、一歩前に出た。
床に向かって膝を折り、男の髪をつかんで、顔を持ち上げた。
「心配しなくてもいい、地獄には、お仲間がたくさんいるさ。」
腫れ上がった目を、うっすらと開けて、男が、グレートを見た。
まだ、自分の身に起こったことが理解できず、受け入れてさえいない、男の目だった。
懐から、銃を取り出し、ゆっくりと、男の目の前に差し出した。
「運がいいと、思った方がいい。もう、楽になれる。」
男が、何か言おうとして、口を大きく開けた。おそらく、必死で怒鳴ろうとでもしたのだろう。
男が声を出す前に、その口に銃身を突っ込み、やや上向きに、脳に向かって、グレートは弾を放った。
ぱんと、思ったよりも軽い音がして、肉の焦げる匂いが上がる。
男の体は、がくんと後ろに弾け、ぱしゃっと、頭の後ろが砕けた。
自分で目を閉じる間さえなく、男は、息を止めた。
ひっ、と、銃を撃った瞬間に、アルベルトが悲鳴を上げたのが、かすかに聞こえた。
髪をつかんでいたグレートの手は、男から飛び出した血に濡れ、男の体の後ろには、大量の血と、肉の破片らしいものが、飛び散っている。
ばさっと、男の体を床に投げ、今度こそ、ほんものの死体になってしまった男を眺めながら、グレートは、銃をしまった。
ゆっくりと、立ち尽くしているアルベルトの方へ、振り返る。
蒼白に、唇をわなわなと震わせて、その瞳に、けれど格別表情はなかった。
血に濡れた手を伸ばし、グレートは、唇を歪めた。
「アルベルト、My Dear。」
My Dearと呼ばれ、それに、ぴくりと反応しながら、アルベルトは、無言でグレートを見つめる。
My Dear、いい響きだ、自画自賛しながら、ようやく、うっすらと笑う。少年と青年の境い目にいる、今ようやく人に戻りつつある、愛しさの増すばかりの存在に、グレートは、やっと相応しい呼びかけを与えた。
「My Dear、もう、誰にも、指一本、触れさせない。」
微笑みを浮かべて、低く、けれど真摯に、グレートはそう言った。
アルベルトの瞳が、一瞬、打たれたように、見開かれる。
そこに浮かんだのは、嬉しさとも失望とも喜びともつかない、複雑な色の感情だった。
アルベルトの手が、グレートの、血塗れの手に向かって、伸びる。
生身の指と、機械の指が、そっと触れ合った。
腕を引き、抱き寄せる。そのまま、口づける。
血のついたままの手で、肩を押し、胸を開き、頬と髪に触れた。
固い床の上で、躯を重ねる。
深くなる口づけのまま、その、細い両脚の間に滑り込んだ。
昂ぶる己れを、そこに沈み込ませる。アルベルトが、悲鳴を噛んだ。
死体の傍で、交わる。人でなしの、人殺しと、人に戻れたばかりの、機械の腕の少年と。
荒い息を殺しながら、グレートは、血だらけになったアルベルトを、静かに熱く、見下ろしていた。
「My Dear。」
耳元に囁いてやると、両腕が、首に回った。
奇妙に熱い、静かな、行為。儀式のように、ふたりはそれ以上言葉もなく、躯だけを絡め合わせた。
流れる涙を、目尻に舐めてやると、アルベルトが、グレート、と呼んだ。
涙は、血の味がした。
戻る