「あらし」 - 番外編

There, Here



 酒を浴びるように飲んで、酒臭い息を吐きながら、ジェロニモをベッドに引きずり込む。
 満足してしまえば、服を脱ぎ捨てるように、ジェロニモをベッドから追い出して、まだ酔いと、熱の残った、虚ろな頭に忍び込む睡魔に勝ちを譲って眠りに落ちる。
 その眠りが、静かで、平穏であることは、あまりなかったけれど。
 耳の奥で、ざざっ、ざざっと、誰かが、頭蓋骨の中を歩き回っているような音がしていた。
 うるさいと、知らずに腕を振って、また眠りに戻ろうとしても、音はいっそう耳障りに、ざざっざざっとアルベルトの神経を逆撫でする。
 ついに目を覚まして、首を回して、今は乾いてしまった、汗に濡れたままのシャツだけを羽織って眠ってしまったのだと、ぬるいベッドの中で、ゆるく体の向きを変えた。
 そうして、ベッドから部屋のドアまでの空間に、見えるはずのない人の姿を認めて、アルベルトは、弾かれたようにベッドから滑り落ちる。
 グレート。小さな声で呼んで、腕を伸ばした。
 薄い肩、そこに乗った、頭髪のない首、穏やかな笑みを浮かべて、かすかに、いつもつけていたコロンと、煙草の匂いが、部屋の空気に溶け交じる。
 見覚えのある、長い茶色のコート。アルベルトも、同じものを持っていた。
 ---やあ、My Dear。
 幻が、唇を動かすと、声は、空気ではなくて、アルベルトの胸の中を慄わせる。
 「・・・グレート。」
 床に、ぺたんを坐り込んで、腕だけを伸ばす。しわくちゃになったシャツは、袖は通しているけれど、襟が肩からずり落ちて、ひどく乱れていた。
 それを隠す気遣いも今はなく、アルベルトは、呆然と、目の前のグレートを見上げている。
 「帰って来てくれたのか・・・。」
 申し訳なさそうに、グレートが微笑む。首をかしげ、ひどく穏やかな仕草で、言い淀むように、唇をかすかに動かした。
 ---おまえさんの、様子を見に、ちょっと、な。
 膝で、床を滑るように、グレートににじり寄って、アルベルトは、黒っぽい革靴に掌を乗せる。そこから、柔らかな布を滑って、膝にたどり着くと、グレートの足を抱き寄せるように、アルベルトは、グレートの腹の辺りに、頬をすりつけた。
 「グレート。」
 確かに、ここにいるのだと、信じるために名前を呼ぶ。グレートの手が、アルベルトの頭を撫でた。
 ---飲み過ぎは、体に悪いって、散々言ったじゃないか。
 以前よりもこけた頬と、いっそう鋭くなった、額から鼻にかけての線を、グレートの指がなぞってゆく。
 暖かな手に、驚きながら、安堵しながら、アルベルトは、さらに必死に、グレートの足にしがみついた。
 「酔わないと、眠れない。あんたが、いないせいだ。」
 グレートの瞳が、淋しそうに、細くなる。
 ---こればっかりは、いくらおれでもどうしようもない。
 なだめるように、グレートの手が、頬や髪を撫でる。
 ---おまえさんが、心配なんだ、アルベルト。
 「だったら・・・戻って来てくれ、グレート。」
 抱き寄せるグレートの腕に促されて、いっそう強くグレートのみぞおちに、頬や額をすりつける。
 アルベルトの頬に手を添えて、顔を持ち上げて、グレートは、消え入りそうに微笑んで見せた。
 ---それができるなら、とっくにやってるさ。
 手応えの確かさも、ぬくもりも、グレートが、この世の人ではないとは思えず、アルベルトは、離さないと言うように、立ち上がって、グレートの肩を抱き寄せる。そうして、近づけた唇を、グレートの手が避けた。
 ---そいつは、勘弁してくれ、アルベルト。
 懐かしい、イギリス訛りが、ドイツ語の名を呼ぶ。
 「もう、抱いてもくれないのか・・・」
 落胆を声ににじませて、アルベルトは、哀願するように、グレートを見つめた。
 気がつくと、グレートを抱いていたはずの腕は空っぽで、数歩先に、グレートが、コートのポケットに両手を入れて、立っている。
 近寄ろうとして、腕を伸ばして、グレートが、さらに1歩、後ろへ下がった。
 ---おまえさん、おれを恨んでるか。
 アルベルトは、グレートが何を言っているのかわからないまま、いいやと、激しく首を振る。
 グレートが、今度は、顔一杯で、泣き笑いの表情を浮かべた。
 闇の中に、グレートの姿が溶け、透けて、輪郭だけになってゆくそこに、アルベルトは必死で腕を伸ばす。
 「グレート、グレート! 俺も行く。あんたと一緒に、俺も---」
 飛ぶように、踏み出した爪先が、床を滑る。伸ばした指の先にあるのは、ただの薄闇で、まるで突き飛ばされたように、床に崩れ落ちて、アルベルトは、もう一度大声で、グレートの名を叫んだ。


 階上から聞こえた叫びに、ジェロニモは、横たわっていたソファから体を起こし、慌てて上へ向かう。
 2段飛びで階段を上がって、飛び込んだ部屋の真ん中で、アルベルトが、肩を抱いてうずくまっていた。
 傍へ来たジェロニモを、ほうけたように見上げたアルベルトの頬は濡れていて、犬か猫の子に手を差し出すように、ジェロニモは、そっとしゃがんで、アルベルトの肩を抱いた。
 アルベルトは、あらぬ方向を見つめたまま、ぶつぶつとひとり言を繰り返している。
 グレートと聞き取れて、ジェロニモは、ふと眉をひそめた。
 そろそろ本気で、酒量のことを進言した方がいいのかもしれないと思いながら、ベッドに連れて行こうと、アルベルトの肩を、もっと強く抱き寄せた。
 「・・・グレートが、来たんだ。」
 突然、大きな声で、アルベルトが言った。
 驚いて、けれど低い声で、落ち着かせようと、言葉をかける。
 「それ、きっと、夢。」
 シャツだけを身に着けて、床にだらしなく足を折ったアルベルトが、ジェロニモにすがりつくようにして、どこか音程の外れたような調子で、そのまま言葉を続けた。
 「違う、夢じゃない。グレートがいたんだ。俺に会いに来たんだ。グレートがいたんだ。俺を置いてまた、消えたんだ。あれはグレートだ。どこかに、まだきっといる。探してくれ、グレートを、探して連れて来てくれ。」
 たがが外れたように、ひとりで喋り続けるアルベルトの瞳の、尋常でない色に気づいて、背中に冷たい水を浴びたように、ジェロニモは、ぞっと寒気を覚えて、思わず後ろを振り返る。
 「・・・グレート、いない。探せない。」
 子どもに言い聞かせるように、低くはっきりと言って、途端に、アルベルトの頬と唇が歪む。
 「探して来い! どこかにきっといる。どこかに隠れてるんだ。グレートが、グレートが---」
 腕を振り上げて、そこから動こうとしないジェロニモの、肩や胸を叩き始める。
 素手なら、我慢はできても、アルベルトの義手に打たれるのは、骨に響くほど痛んだ。それでも、逆らうことはできずに、ジェロニモは、アルベルトを抱いたまま、振り下ろされる腕に、黙って耐えていた。
 「いたんだ、ここに来たんだ! まだどこかにいる、絶対にいる!」
 叩かれるまま、じっと動かないジェロニモに、ついにしびれを切らせて、アルベルトは、その腕からすり抜けるように、いきなり立ち上がった。
 「俺がひとりで探しに行く。おまえが行かないなら、俺ひとりでも---」
 髪が乱れて、シャツだけの半裸で、こちらを振り返ったアルベルトの目は、闇の中でもぎらぎらと光って見えた。
 正気ではない。そう思った途端、考えるよりも先に、体が動いていた。
 後ろから抱きすくめて、初めて、名前を呼んだ。
 「アルベルト!」
 決して、大きな声ではなかった。それでも、打たれたように、アルベルトは体の動きを止めて、ジェロニモの方へ、ゆっくりと振り返って来る。
 アルベルトは、泣いていた。涙をこぼして、それを隠しもせず、無防備な泣き顔を晒して、ひどく弱々しく見える姿をしていた。
 「・・・アルベルト・・・」
 もう一度、声を低めて、呼んだ。
 ずるりと、アルベルトの体が、腕の中で滑った。
 床に向かって崩れる体を、慌てて支えて、一緒に床の上に坐り込みながら、今度こそ、声を放って泣き始めたアルベルトを、ジェロニモは、逃がさないように、しっかりと抱きしめる。
 「グレートが・・・どうして・・・俺だけ・・・いたんだ・・・ここに・・・」
 子どものようにしゃくり上げて、切れ切れに、ジェロニモにはわからないつぶやきをこぼして、すがりついてくるアルベルトの震える背中を、辛抱強く撫で続ける。
 このまま、いつものように抱けば、落ち着くのだとわかっていた。
 躯を繋げて、我を忘れてしまえば、おとなしく眠ってしまうだろう。
 それでも、今アルベルトに必要なのは、落ち着くことではなく、思う存分泣いて、吐き出してしまうことなのだと、そう思いながら、アルベルトをただ抱きしめている。
 馴れ馴れしく、名前を呼んでしまったことを、心の中で少しだけ後悔する。
 またひとつ、越えてはいけない壁を乗り越えてしまったのだと、それは、グレートに対する申し訳なさでもあった。
 けれど同時に、自分の背中を押す、小さな衝動があることに、ジェロニモは気づいていた。
 今夜は、きっとお互いに正気ではないのだと、誰に向かってなのか、言い訳めいたことを考えて、ふと目を上げた薄闇の先に、微笑むグレートの姿を、見たような気がした。
 そうして、ジェロニモは、自分の腕の中で震えるアルベルトに、そっとささやいた。
 「・・・おれ、いる。おれ、ここにいる。ずっといる。ずっと、いる。おれ、どこにもいかない。」
 聞こえたのか聞こえなかったのか、アルベルトは何も言わず、まだ泣き続けている。
 いつ果てるとも知れない、アルベルトの涙を受け止めながら、ジェロニモはそれきり黙り込む。
 アルベルトは、ジェロニモの胸の中でグレートの名を呼び続け、いつまでもいつまでも、子どものように肩を震わせていた。


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