「あらし」 - 番外編

A Trance



 綿棒で、細かな溝や、凹凸の汚れを取り、肘までまくり上げたシャツの袖が、時折落ちてくるのを、またずり上げながら、機械の手に、じっと目を凝らす。
 まじまじと顔を近づけると、こすられたり、引っかいたりした、小さな傷が、表面にいくつもあるのが見える。
 この腕と、付き合って来た時間の長さを考えれば、まるきり新品同様なわけもなく、今はもう、違和感もなく、いとしさすら、特にはわかないほど、自分の一部になりきっている腕を、磨く。
 肘から上と、肩の後ろは、昨日グレートがきれいにしてくれた。
 そうやって、何も考えずに、ただ、自分の腕に目を凝らしているうちに、奇妙なトランス状態に陥るのが不思議だった。
 狭まった視界に、鉛色しか見えず、他のものはすべてぼやけ、頭の芯が、ぼうっとしてくる。
 音も聞こえず、そうやって、機械的に、きわめて単調な動きを繰り返して、だから、ジェットが、勝手にアパートメントの中に入って来て、大きな足音で傍へやって来て、まるで、撃たれたように肩を震わせて、アルベルトは、ようやく我に返った。
 「何だよ、殺されそうな顔して。」
 ソファの後ろから、右肩に手を乗せて来たジェットに、顔だけで振り返って、アルベルトは、額に浮いた冷や汗に気づく。
 何でもないと、かすかに震える声で素っ気もなく返すと、ジェットが、長い脚でソファの背をまたぎ、ずるりと腰を滑らせて、アルベルトの隣りに坐ってくる。
 行儀の悪い仕草に、露骨に眉をしかめ、磨いていた腕を、左側に引き寄せて、ジェットの視線から隠そうとする。
 ジェットが、それを面白がって、わざとアルベルトの腕を取る。
 「こうやって、きれいにするのか?」
 引き寄せられれば、わざわざ逆らう気にもならず、落ちてしまったシャツの袖を、またずり上げてやると、ジェットが、アルベルトの左手から、腕を磨くための、厚手の、つるつるした布を取り上げた。
 ジェットの、長い指が、掌を開き、手首をつかんで、目の前に伸ばされたアルベルトの、腕と手を、磨く。
 皮膚の上に浮き出るはずの、骨の形をそっくり写した、金属の凹凸を、ジェットの指の腹が、撫でるよりもほんの少し強く、なぞってゆく。
 意外に丁寧な、繊細な手つきに、アルベルトは思わず、感心したような表情を、こっそりと浮かべた。
 ソファの上で、向き合い、ジェットは、アルベルトの右腕の上に顔を伏せ、前髪の奥に表情をすべて隠して、一心不乱に、この遊びに夢中になっているように見えた。
 細かい部分は、すべてきれいにしてあったし、ほとんどの部分は磨き終えていたので、アルベルトは、口も出さずに、ジェットの好きにさせた。
 手首から、掌に変わる、ふっくらと、ほんものそっくりに盛り上がった辺りに、ジェットの指先が、かすかに触れる。
 布の感触が、まるで、ジェットの生身の指そのもののように思え、アルベルトは、すっと眉を寄せた。
 下唇を噛んだことが、ジェットにわからなければいいがと思っていると、その指先は、からかうように、掌の真ん中を真っ直ぐにたどり、そして、まるでいたずらな線を描くように、羽のように、触れてゆく。
 「感じるのか?」
 腕が震えたのがわかったのか、ジェットが、顔を斜めに上げ、片目だけを、アルベルトの方へ上げて見せる。
 口元が、いやしく笑みにひずんでいる。
 侮辱されたのだと悟って、アルベルトは、頬を薄赤く染めて、首を振った。
 「いいや。」
 嘘をついて、グレートとは違う手つきに、また肩が震えるのを、左手で押さえて、わからないように、止めようとする。
 頬の赤みが消えないことを、アルベルトは知らなかった。
 ジェットの指が、また動き出す。
 手の輪郭をなぞり、指の輪郭を、1本1本なぞり始める。
 指の根元へたどり着くと、つけ根を軽く押して、まるで、そこにあるはずもない---ほんものでは、ないから---生身の柔らかさを見つけようとするかのように、ジェットの指先が動く。
 中指までたどり着いた時、指の腹と、脇と、根元を、執拗に、ジェットがくすぐるように、何度も行き来した。
 感覚も感触も、きちんとある。そういうふうに、つくられている。
 自分のせいではなく、この腕のせいだと、そう思った。
 ジェットが、不意に腕を磨いていた布を投げ捨て、アルベルトを、ソファの背に押しつけた。
 肩を押さえつけ、ベストの前を開き、ネクタイを乱暴に解いて、引きちぎる勢いで、シャツの前を、全部開ける。
 それから、アルベルトの右手を取って、形を変え始めているそこへ、自分で触れさせた。
 アルベルトの手に、自分の手を重ねたまま、卑猥に、こすり上げる仕草をさせる。
 アルベルトは、羞恥に、目を伏せて、唇を噛んだ。
 「仕方のねえ淫乱だな、アンタ。」
 軽蔑をありったけ、毒を含ませて、ジェットが嗤う。
 「・・・その右手、使え。」
 手を離し、アルベルトを見下ろして、ジェットが、低くささやいた。
 数瞬迷って、けれど、結局は言った通りにさせられるのだと、そう、させられたいのだと悟って、悔しそうなふりを装って、アルベルトは、右手を滑り込ませた。
 左手で前を開け、ソファの上に、足を持ち上げて、膝を大きく開き、ジェットのために、淫らなショーを披露する。
 胸を反らすと、ソファが、きしきしと鳴った。
 右手で触れるのは、好きではない。自分で触れるのは、好きではない。
 冷たい機械の掌は、これは誰かの手だと、錯覚させてくれない。
 ジェットの体温を思い出しながら、指と掌でこすり上げ、ほんものとにせものの、奇妙な対比が、ジェット---だけではない---の目には、ひどく淫猥に映るのだと、知っている。
 その淫猥さで、煽るために、その淫猥さに、煽られるために、煽られて、もっと深みに足を取られるために、自分を見下ろすジェットのために、アルベルトは、淫猥な手つきで、淫猥に、自分を慰めて見せる。
 ジェットが、精一杯の軽蔑を込めた目つきのまま、アルベルトに見せつけるように、ゆっくりと前を開いた。
 思わず、手の動きが止まり、視線が、釘付けになる。
 へへっと、嘲笑うジェットの瞳はうるみ、目元は、ぼうっと赤い。
 それに目を細めると、ジェットの唇が、声低く、動いた。
 「今度は、アンタがきれいにしろよ。」
 髪を乱暴につかまれ、前に引き寄せられる。そのまま、ソファとコーヒーテーブルの狭い空間に引きずり下ろされ、ジェットを見上げる形に、顔を仰向けにされた。
 唇の合わせ目を、ジェットが手を添えて、なぞってゆく。もう、湿っていて、アルベルトは、それ以上命令される前に、自分から唇を開いた。
 「右手、休めんなよ。」
 ジェットの爪先が、アルベルトの、床に垂れていた右手を蹴る。慌ててまた、自分を慰め始めるアルベルトの頬を、両手でつかんで、ジェットは、唇の奥に、突き立て始めた。
 「もっと、舌動かせ。」
 容赦もなく、声を浴びせながら、言葉の合間に、息が切れる。
 アルベルトはもう、目を閉じて、ジェットの動くままに体を揺らして、さっき、腕を磨いていた時と同じように、自分の内側が、空っぽの、真空になり始めるのを感じていた。
 真空の、ただの筒は、また密度を取り戻し、血の色を浮かべて、うねうねとうごめく。桃色の肉の塊は、さまざまな裂け目から、体液をにじませて、全身を濡らす。
 舌と右手と、単調な動きを、早さと強さを変えて繰り返す。
 ジェットを憩わせるために、自分を慰めるために。
 機械の手の中で、こすられて、やめたいと思いながら、動きを止められない。快感はすでになく、痛みしかないそこで、それでも、ジェットに触れられたくて、手を動かし続ける。
 開きっ放しの唇の端も、痛んだ。
 自分の存在の、単純さに、突然思い当たる。使われるための、肉の塊。無駄としか思えない器官を、一時憩わせるための、穴だらけの肉塊。使われることを求めて、うごめく、うねる肉塊。
 自分を使う人間を、自分を使わせる時を、少なくとも選べることを、幸せというべきなのだろうかと、ふと思う。
 肉に、心はいらない。思考は必要ない。言われるままに、唇を開いて、脚を開いて、躯の奥を開いて、使わせてやればいいだけだと、うっすらと、上目にジェットを見上げて、思う。
 とらわれているのは、どちらなのだろうかと、思った憐れみが、瞳に浮かんだのか、ジェットが突然、くやしそうに唇を噛んだ。
 ジェットが不意に去り、アルベルトは、腹を空かせた犬のように、半開きの唇から、濡れた舌を垂らして、ジェットを見上げたままでいた。
 肩を突き飛ばされ、ソファに寄りかかるように、床に崩れると、ジェットが右手を取った。
 「・・・せっかく、オレがきれいにしたのに、汚しやがって。」
 かすかに、ぬめりの残る指先に目を凝らし、それから、アルベルトを荷物のようにソファに上げると、ジェットは、服を乱して短く息を吐くアルベルトに、また蔑みの口調を投げた。
 「後ろ向けよ。突っ込んでやる。」
 言われた通りに、もう、羞恥もなく、ソファの背に肩を乗せ、膝を立てて、剥き出しの腰を晒す。
 ぎしぎしと音を立てて、ジェットがのしかかって来て、アルベルトを押し潰しそうに、入り込んでくる。
 濡れているのは、唾液のせいだけではない。
 アルベルトの背中に胸を乗せ、体全部を突き込むように、ジェットが全身を揺らす。
 ソファのきしむ音と一緒に、声を上げながら、開いた唇から唾液が垂れた。
 またジェットが、右手を取る。そして、また、触れさせられる。
 「自分でイケよ、淫売。」
 機械の手は、もう乾いてしまっていて、ジェットの言う通りにはできそうになかった。
 それでも、ジェットの動きに合わせて、こすり上げて、熱くなるのは、ジェットに侵されてうねる内側ばかりだった。
 ジェットが、アルベルトの髪をつかみ、首をねじって、顔を横に仰向けさせた。
 唾液で濡れた唇とあごを、ジェットが舐める。
 「オレが、後でまた、きれいにしてやるよ。」
 奇妙に優しい声でそう言われ、けれど、何を、とも、どこを、とも問い返すことはできなかった。
 視界はすべてぼやけ、もう、ジェットの輪郭すら定かではなく、確かなのはただ、粘膜で交じり合せる体温だけだった。
 ねじれたままの首が、折れそうに、肩を反らし、ジェットの唇に向かって、うごめく舌を伸ばす。


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