うわさになりたい - 番外編

「What A Day」



 甘々10のお題@創作者さんに50未満のお題
 1) ペアグッズ
 2) キスが足りない
 3) ぶかぶかのシャツ
 4) コミュニケーション過剰
 5) 痴話喧嘩

 

@

 目が覚めたら、ハインリヒが子どもになっていた。
 ジェロニモとおそろいのパジャマ---ネルの、青いチェックの、あたたかいやつだ----に埋もれて、きょとんとベッドに坐り込んで、ジェロニモを見上げている。
 「・・・アルベルト?」
 「おじちゃん、だあれ。」
 パジャマの襟元から、小さな肩が抜け出せそうになっている。同じく小さいらしい手足は、ネルの生地に埋もれていて、どことも定かではない。
 可愛らしいけれど、とても危険な眺めだと、自分の理性を過信せずに、ジェロニモはとりあえずハインリヒの、今にも剥き出しになってしまいそうな肩をきちんとパジャマで覆って、うっかり強く触ると、骨でも折りかねないと、改めて子どものハインリヒの小ささに驚く。
 「とりあえず、朝食にしよう。」
 ハインリヒの質問には答えずに、ジェロニモはひとりでベッドを下りようとした。
 「ぼくも起きる。」
 床に並んで脱いである、これもおそろい---大きさは、少し違う---のブルーのスリッパに、ジェロニモが爪先を突っ込んだのを、ベッドの上から見下ろして、ハインリヒがベッドからずり落ちると、残った自分の分のスリッパに、その小さな爪先を差し入れた。けれど大人のハインリヒのスリッパは、子どものハインリヒには大きすぎて、スリッパの先の部分に、足が全部隠れてしまう。
 そのまま歩き出そうとして、前につんのめったのを、ジェロニモが慌てて抱き止めた。
 「履かない方がいい。転んでケガをする。」
 スリッパを床に置き去りにしたまま、子どものハインリヒを抱き上げ、その、パジャマの上だけにすっかり埋もれてしまっている珍妙な姿を、それがハインリヒだけにとても可愛らしいと思いながら、ジェロニモはとりあえず、こほんと小さく咳払いをして、平静さを保つ努力をしてみた。
 小さな裸足の爪先が、ぷらぷらとパジャマのすそから揺れている。肩をきちんと覆っても、指先はパジャマの袖の肘にすら届いていない。
 そもそも、抱き上げても、ろくに重さも感じない。
 自分の片方の掌に乗ってしまいそうな子どものハインリヒの小ささに、ジェロニモは、また不穏に胸が騒ぐのを、必死で片隅に追いやろうと、ベッドルームのドアの前で、無駄な抵抗をしていた。


 とりあえず卵を、スクランブルで、いつもよりずっと少なく焼いて、ベーコンもいつもよりもずっと枚数を減らして、トーストも、子どものハインリヒには1枚の半分きり、バターは塗らずに、いちごのジャムだけにしてみた。
 いつも使う皿は、それだけ乗せるだけでは半分以上空で、差し出したフォークも、ハインリヒの腕と同じほど長い。いや、ハインリヒの腕が短くて、手があまりにも小さいのだ。
 いつもの椅子に坐らせると、テーブルが高すぎて、あごしか出ない。
 とりあえず自分の朝食は後回しにすることにして、ジェロニモは、フォークすらまともに扱えそうにない子どものハインリヒを膝に乗せて、卵を口に運んでやる。
 自分の膝から落ちないように、小さな体にしっかり手を添えて、長すぎるフォークが、ハインリヒの口の中を刺したりしないように気をつけながら、小さく切ったベーコンを差し出すと、
 「おいしい。」
 油で濡れた唇が光るのは、大人と同じだ。ただ、とても小さいだけだ。
 幸いに、食べ物で遊ぶような行儀の悪さはなく、またたくまに皿を空にすると、いちごジャムのついた、半分に切ったトーストを、両手できちんと持って、自分で食べた。
 そうしてようやく、ジェロニモは自分の皿に手を伸ばして、ハインリヒに使ったフォークを取り替えもせず、そのまま自分の朝食になだれ込む。少しばかり冷めていることなど、今は気にかけている暇もなかった。
 せわしないジェロニモの朝食よりも、一足先にトーストを食べ終わったハインリヒが、満腹して元気になって退屈したのか、突然ジェロニモの膝の上に立ち上がってくる。
 いきなり、小さなハインリヒの顔がぬっと眼前に現れて、ジェロニモは卵を乗せたフォークを、あやうく取り落としそうになった。
 バランスを崩して落ちてしまったりしないようにと、慌ててフォークを放り出して、両手でハインリヒの小さな体を支える。
 子どものハインリヒは、そんなジェロニモの慌てぶりなどどこ吹く風で、ジェロニモの首にしがみつくように体を寄せてくると、
 「おじちゃん、名前は?」
と無邪気に訊いてくる。
 小さな唇は、大人のハインリヒのそれよりも色が濃いように見えて、それが、さっきのトーストについていたいちごジャムのせいだと悟ったのは、子どものハインリヒが、その唇でジェロニモの唇に、キスをした時だった。
 べたべたの小さな唇は、その後、ジェロニモの頬や首に触れて、きゃっきゃと笑い声を立てる。
 いちごジャム味のキスは、それ自体はとてもかわいらしいけれど、ジェロニモにとってはあまり歓迎できるものではなく、それでは足りないと思ってしまったのは、子どものハインリヒの唇の小ささのことではなくて、もっと別のことだったから、ジェロニモはハインリヒが飽きてキスをやめてくれるまで、少しばかりの罪悪感とたたかわなくてはならなかった。
 ハインリヒが、ジェロニモにキスするのに飽きるまでに、ジェロニモのかわいそうな朝食がすっかり冷めてしまったことは、言うまでもない。


 波乱万丈の朝食をようやく乗り越えて、キッチンの片付けなど後回しで、ジェロニモはハインリヒをシャワーに放り込んだ。
 汚れた手や顔を洗いたかったし、何よりシャワーを口実に、ほんとうにハインリヒがどこもかしこも子どもになってしまったのかを、きちんと確かめたかった。
 ここでも子どものハインリヒはとてもよい子で、髪を濡らしても泣かず、せっけんの泡で遊ぶこともせず、ひとりでバスタブの中に裸で坐らされてもいやがらず、ジェロニモが用心深く、小さな指や爪先をつまみ上げるのに、時折くすぐったそうに身をよじる以外は、けたたましい声さえ上げなかった。
 頭から爪先まで、すっかり洗い上げられて、ぽたぽたとしずくをたらしている小さな体を、大きなタオル---ハインリヒのタオルだ---で包んで拭いてやる。小さな耳は、ちょっと強くこすっただけで壊れてしまいそうに薄い。髪は、大人のハインリヒのそれよりももっと細くて柔らかくて、色も淡いように思えた。小さなあご、細い首、筋肉の線などどこにも見当たらない胸や腹、どこまでも柔らかい腕と脚、確かに、どこもかしこも子どもだ。
 ジェロニモは、ハインリヒに聞かれないように、タオルを使いながら、そっとため息をこぼした。
 ハインリヒがいつも使うコロンの香りを、これほど懐かしく思ったことはなく、いくら抱きしめても、ミルクの匂いしかしなさそうな子どものハインリヒが、今度はなあにと、目をきらきらさせているのに、ジェロニモはもう一度ため息をつく。
 子どもに合う下着や服があるわけはないから、ハインリヒの服の中から、なるべくサイズの小さそうなシャツを見繕ってみたけれど、義手の右腕を隠すために長袖ばかり着ているということを思い出して、あきらめて、下着の半袖のシャツを着せることにした。
 下着のシャツだから、普通のシャツよりは体にぴったりとしていて、サイズも幾分小さめにも関らず、子どものハインリヒにはもちろんぶかぶかで、Vネックの襟元はろくに胸を覆ってはくれないし、すそは床に引きずりそうだったけれど、それでも裸よりはましに見えた。
 半袖から、小さな手が出ている。ふっくらとしていて、指の付け根にはえくぼの浮く、まさしく子どもの手だ。
 「おじちゃん、なんていうの?」
 まだジェロニモが答えていなかった問いを、またハインリヒが繰り返す。
 ジェロニモは、ハインリヒの右手を取って、ぶかぶかの袖をまくり上げるようにしながら、二の腕まで撫で上げた。
 強くこすればたやすく裂けてしまいそうな、子どもの柔らかな皮膚。その腕は義手ではなく、きちんと生身だった。
 「ジェロニモ。」
 「じぇろにも?」
 「ジェロニモ。」
 「ジェロニモ?」
 口移しに、ぎこちなく繰り返すのに、ジェロニモはうっすらと微笑んで、うなずいてやる。
 そうしながら、ずっと、子どものはインリヒの右腕を、撫で続けていた。

 
 ジェロニモの名前を覚えた途端、ハインリヒは、まるでそれが新しい遊びだとでも言うように、ジェロニモの名を連呼し始めた。
 ジェロニモがキッチンを片付けている間中、足にまとわりついて、ジェロニモを呼び続ける。
 何度か皿を取り落としそうになって、
 「危ないから、少し離れててくれ。」
 そう言えば、おとなしくうなずいて、数瞬は離れていてくれるのだけれど、すぐにジェロニモの名前をまた呼び始めて、足にまとわりつき始める。
 冷蔵庫の中身を確かめておこうと、そちらへ歩こうとすれば、しっかりとジェロニモの足にぶら下がったままだ。抱き上げようとしても、
 「いや!」
と言って離れず、仕方なくそのまま、足におもりをつけたように、ずるずると歩かなければならなかった。そうすると、子どものハインリヒが、とても喜んだので。
 その間ももちろん、歌うようにジェロニモの名前を呼び続けたままだ。
 冷蔵庫の扉を開けて、中を覗き込むために床に坐り込むと、その大きな背中にぶつかるように飛び乗ってくる。両腕を巻きつかせて首にぶら下がられると、いくら体重の軽い子どもとは言え、苦しくないわけはないので、慌てて背中に腕を回して、ハインリヒを支える。
 ハインリヒは、うるさく耳元でジェロニモを呼びながら、とんとんと足で腰の辺りを蹴る。
 子どもというのは、こんなに騒がしいものなのかと、いつも物静かな、物音も立てずに本ばかり読んでいる大人のハインリヒを思い出して、成長というのは素晴らしいものだと、ジェロニモは改めて思う。
 子どもに、それも子どものハインリヒにこんなふうになつかれて、うれしくないわけはないのだけれど、そろそろほんとうに、大人のハインリヒが恋しくなり始めていた。
 子どものハインリヒは、確かにとてもかわいい。ジェロニモを怖がりもせず、無邪気に無心にまとわりついてくる。今も床に下りて、今度は正面からジェロニモの首にしがみついてくる。おかげで、冷蔵庫の中が見えない。
 開け放った扉から流れ出る、冷蔵庫からの冷気を浴びて、ジェロニモの名前を呼びながら、その小さな手で、ジェロニモの顔の刺青の白い線をつついて、キスして、挙句に、
 「ジェロニモ、大好き。」
と、とても明るい声で言ってくれた。
 あんたが好きだと、大人のハインリヒが言う時は、もっとはにかんでいて、声も小さくて、しかもそれを聞くのは、たいていベッドの中で、部屋も暗い時だ。少しばかり瞳を動かして、ジェロニモは、大人のハインリヒの声を思い出そうとしてみる。けれど、今は、あまり相応しい時ではなさそうだったので、しぶしぶあきらめることにした。
 この子どものハインリヒは、大人のハインリヒの記憶を、少しでも持ったままでいるのだろうかと、ふと思う。
 どちらにせよ、子どものハインリヒに嫌われなかったのはとりあえずよかったと、ジェロニモの頬や額や唇にキスの雨を降らせながら、大好き、大好きと言い続けているハインリヒの小さな体を抱き寄せて、少しばかり視界の端にずらして、再び果敢に、冷蔵庫の探索に取り掛かった。

 
 時間ばかり掛かった、あまり信頼性のない調査の結果、冷蔵庫の中身は、明日の夜には空になってしまうだろうという結論に達したジェロニモは、買い物に出掛けるために、子どものハインリヒにその旨を伝えるために、床に膝をついて、目線を同じにした。
 「買い物に行ってくる。すぐに戻ってくるから、おとなしく留守番をしててくれ。」
 今まで笑顔ばかりだったハインリヒの口元が見る見るうちに歪んで、小さな唇がぷっくりととがる。
 「いや!」
 「買い物に行かないと、食べるものがなくなるんだ。」
 「一緒に行く!」
 「そんな格好で外には行けないだろう。」
 「じゃ脱ぐ!」
 「・・・もっとだめだ。」
 「一緒に行く! 留守番や!」
 「すぐに戻ってくる。ほんのちょっとだ。」
 「や! ジェロニモと一緒に行く!」
 この頑固さには、とても覚えがある。
 ハインリヒの小さな肩に手を置いて、ジェロニモは、今すぐ頭を抱え込みたくなった。
 早く大人になってくれないかと、わけのわからないことを思って、どうして自分がこんな状況に陥ってしまったのだろうかと、見当違いではあったけれど、大人のハインリヒを少しばかり恨み始めた。
 たとえば、駄々をこねる子どものハインリヒを、躾けのためにその小さな尻を叩くとか、その小さな手をぴしりとやるとか、そんなことがジェロニモにできるわけもなくて、けれど大人のハインリヒなら、きちんとそれができるような気がして、一体どこに雲隠れしてるんだと、心底困り果てる。
 「アルベルト、すぐに戻ってくる。ひとりでおとなしくしててくれ。」
 小さな両手を握って、懇願するように、ジェロニモはできるだけ優しい声で、そう言った。頼むからと付け加えるのは、さすがにやめることにして。
 ひく、とハインリヒの喉が鳴った。ジェロニモの手から自分の手を引き抜いて、途端にわーわー泣き始める。流れる涙を小さな両手で拭いながら、どこからそんな声が出るのかと思うような、大きな声で泣く。
 「ジェロニモ、一緒じゃないと、や。ひとり、いや。ジェロニモ、置いてくの、や。」
 「アルベルト・・・。」
 頼むから泣くなと、言いそうになって、口をつぐんだ。
 「ジェロニモ、きらい・・・一緒に行かないの、や。ジェロニモ、きらい。」
 人に嫌われることには、ごく普通に慣れているつもりだったけれど、子どもに、しかも子どものハインリヒに言われるきらいという一言は、何よりも深くジェロニモの胸を刺した。ぐっさりと。
 こんなに泣きたいと思ったのは、ほんとうに久しぶりだと思いながら、泣きじゃくるハインリヒに向かって、ジェロニモは白旗を振った。できることは、それしかなかった。


戻る