うわさになりたい - 番外編
「What A
Day」
甘々10のお題@創作者さんに50未満のお題
6) ホットミルク
7) 涙を舐める
8) ぎゅうってして。
9) 添い寝
10) ずっといっしょだよ
A
とりあえず、買い物に行くのはひとまずあきらめて、まだ泣きじゃくっているハインリヒを泣き止ませることに腐心する。
柔らかい髪を撫でて、抱いて、背中を撫でてやって、それから、
「わかった、買い物には行かない。アルベルトと一緒にいる。」
と、はっきり、優しく言った。
「ほんとに?」
「ほんとうに。」
半分泣き止んだ子どものハインリヒは、けれどまだ疑り深くジェロニモをにらんでいて、この目つきは間違いなくあのハインリヒだと、ジェロニモはこんな時にも関らず、ひどくそれが嬉しくて、それではどうやってこのハインリヒの信頼を再び勝ち取るべきかと、普段は滅多と使いもしない頭の一部を忙しく働かせ始めた。
大人のハインリヒをなだめる時には、紅茶と甘くないケーキがいちばんだったけれど、子どものハインリヒが紅茶を、しかも砂糖も入れない紅茶でごまかされてくれるとは思えず、さっき仔細に眺めた冷蔵庫の中に、子どもが喜びそうなものは見当たらなかったはずだと思い出す。
ジェロニモは、時間を稼ぐために、ハインリヒを抱き上げて、テーブルの椅子に坐らせた。
「ほんとうに、行かない?」
「行かない。ほんとうに、行かない。一緒にいる。」
もう一度ハインリヒの頭を撫でてから、その柔らかさで、ふと連想したものがあった。
温めた牛乳。牛乳ならまだ確か、コップに1杯くらいなら充分な量が残っているはずだ。
ジェロニモは、大きな音は立てないように、けれど素早く冷蔵庫の扉を開けると、2Lの牛乳のカートンを取り出して、耳の傍で振った。大丈夫だ、まだ半分弱は残っている。
何やら忙しく動き始めたジェロニモを、子どものハインリヒが、何事かとじっと見つめている。
小さな鍋に牛乳を注いで、あまり強くはない火で温める。温めすぎてはいけない。表面にうっすらと膜が張ってしまう直前に、タイミングを見極めて火から下ろさなければならない。ジェロニモは、ひどく真剣な眼差しを温められている牛乳に注いで、そうして、牛乳を入れるカップを探さなければと思いつく。
できれば、小さなカップがいい。温かいミルクを注いでも、外が熱くならないように、きちんと厚みのあるもの。
ばたばたと、上に並んだ棚を開け閉めして、普段は使わない食器の置いてある辺りまで覗き込んで、何かないかと探す。
ようやく、記憶に頼って視線を注いだ先で、単純な線で描かれた、可愛いうさぎのマグを見つけ、確かそれはハインリヒがどこかでもらって来て、あげてしまう先も思いつけずに、ここに持ち込んだものだったと思い出して、ジェロニモは、ひととき、そのマグに、ひどくいとしげな視線を当てた。
使ったことのない小さなそのマグを軽く洗って、外側の水気を拭き取った頃には、ちょうど牛乳がかすかな湯気を立て始めていて、よし、と小さくひとりつぶやいて、ジェロニモは鍋から牛乳をそのマグに注いだ。
それから、滅多と使わない砂糖を出して、スプーンに1杯、軽く山盛りで、柔らかく湯気の立つ牛乳の中に落とす。くるくるとスプーンを回し、しっかりと砂糖を溶かして、ついでに、少しばかりそうして温度も下げて、ジェロニモは大きな手にすっぽりと隠れる小さなうさぎのマグのホットミルクを、ハインリヒのところへ運んだ。
テーブルの上に置いて、自分も椅子に坐って、朝食の時のように、ハインリヒを膝に坐らせて、熱くないかと気をつけながら、ハインリヒにマグを差し出す。
「ミッフィー!」
子どものハインリヒが、マグを両手で抱えて、うれしそうに叫んだ。
「みっふぃー?」
「ミッフィー!」
どうやら、マグに描かれたうさぎは、そういう名前らしい。そう言えば、大人のハインリヒもそんなことを言っていたかなと、また思い出して、恋しさに胸が痛む。
ゆっくりと、温かいミルクを飲み始めた、すっかり機嫌の治ったらしい子どものハインリヒを抱いて、ジェロニモは、小さな小さな声で、アルベルトと、呼んだ。
ハインリヒは、ずいぶんと長い時間をかけて、ジェロニモが温めてくれたミルクを飲み干した。
ジェロニモは、その間、ずっとハインリヒを膝に乗せたまま、何も言わずにいて、時々ハインリヒの頬を撫でたり、髪をすいたり、それからもっと時折、アルベルトと小さく名前を呼んだ。
ようやくマグを置いたハインリヒは、白く濡れた唇でジェロニモを振り返って、体を伸ばして首に腕を巻きつけてくる。
子どものハインリヒは、どこか甘い匂いがして、抱きしめれば抱きしめるほど、これはハインリヒだけれどハインリヒではないのだと思い知らされて、ジェロニモは、そろそろそれに耐えられなくなりつつある自分を感じていた。
ハインリヒは白い唇のまま、ジェロニモの頬や首筋に頬ずりを始めて、うれしそうに笑い声を立てながら、ジェロニモにもっともっと抱きしめてもらいたがる。
そのうち、またキスの雨が、顔中に降り始めた。
子どものハインリヒの、小さな背中を抱いて、その体を支えて、アルベルトと、ジェロニモはまた呼んだ。目の前にいる子どものハインリヒではなくて、どこかへ消えてしまった、大人のハインリヒを。
自分の声は、きっと届かないのだろうと思いながら、それでも呼ぶ声を止められずに、ジェロニモが自分を呼んでいるのだと思っている子どものハインリヒは、そのたびに、うんうんと、ひとり相槌を打っている。
そのうち、子どものハインリヒのキスの嵐が、ひととき止んだ。
「ジェロニモ、どこかいたいの?」
目の前の小さな顔---何もかもが、小さい顔---が、少し心配そうに、額をくっつけてくる。
「どうして、そんなことを言う。」
「ジェロニモ、だって、泣いてる。」
小さな掌が、頬を撫でた。そうして、いつのまにか、気づかずに自分が泣いていたことを知らされて、ジェロニモはごまかすように、自分の顔を大きな掌でこする。
「どうしたの、おなかいたいの。かなしいの。」
いや、と小さく首を振って、早く涙を拭ってしまおうとしたジェロニモの手を、ハインリヒが止めた。
「泣かないで。ジェロニモ泣かないで。」
「泣いてない。大丈夫だ。」
ハインリヒの手を握って、笑って見せても、ハインリヒは心配そうな悲しそうな表情を消さず、ちょっと唇をとがらせて、自分まで泣きそうな顔になると、またずいっと額を近づけてきて、そうして、ジェロニモのまぶたにキスをする。
ジェロニモの首に腕を回して、一度強く抱きしめて、それから、まだ濡れているジェロニモの頬を、小さな舌で舐めた。
刺青の白い線を、大人のハインリヒがそうして舌先でなぞったことを、思い出して、自分の涙を舐め取ろうとしている子どものハインリヒを止めることはせず、目の奥の熱さに、ジェロニモは何度も瞬きをした。
ジェロニモが静かになってしまったので、ハインリヒも何も言わずに、相変わらずジェロニモの膝の上に立って、ジェロニモの首からぶら下がるように、ジェロニモに抱きついている。
ジェロニモ、と舌足らずに何度か呼んで、そのたびにジェロニモがきちんと背中を撫でてくれるのを確かめて、少しだけうれしそうに、その場で足踏みをする。
ほんとうに、なんて小さな体だと、また何度目か、ジェロニモは思った。
こんな小さなハインリヒが、あんな大人のハインリヒになるのかと、自分だって子どもの頃があったじゃないかと思って、それを今はうまく思い出せないことにひとりで焦れる。
一体いつ、大人のハインリヒは戻って来てくれるのだろうか。このまま、何十年も、この子どものハインリヒが大人になるのを、待たなければならないのだろうか。それを待てるだろうかと、そう考えて、待てるときっぱりとは言えない自分がいた。
子どものハインリヒは可愛い。けれどそれは、大人のハインリヒを自分が知っているからだと、そう思えば、目の前の子どものハインリヒにも悪いような気がして、何だか、気分がぐるぐると悪くなってゆく。
自分は案外と狭量な人間だと、今さらのように思い知って、これからどうしようかと、不安ばかりが胸に湧いてきて、子どものハインリヒのように大声を放って泣けたらどんなに楽だろうかと、沈んでゆく一方の気持ちを引きずり上げることができずに、ジェロニモは、大人のハインリヒがいないことが、こんなに自分を淋しく混乱させることに、ひどく驚いていた。
ジェロニモの不安な気持ちを読み取ったのか、ハインリヒが、下から覗き込むように見上げてきて、一生懸命微笑んで見せる。子どものハインリヒの、笑って、笑ってと、そう言わんばかりの微笑みが、よけいに大人のハインリヒを思い出させて、ジェロニモは思わず、大きく息を吐き出す。
驚いたハインリヒが、薄い眉を寄せて、ひどく心配そうな表情で唇の端を下げて、ジェロニモの頬を小さな両手で挟む。
「ジェロニモ、あのね、一緒にいようね。一緒にいて、ぎゅっとしようね。」
そう言って、背伸びをして、ジェロニモの首に短い両腕を回して、そうして、ジェロニモの肩を叩く。円を描くように撫でて、叩く。
「ジェロニモもぎゅうってして。ぎゅうってして。」
自分の背中の始まりに触れる小さな手の感触が、その手の動きが、大人のハインリヒのそれにそっくりで、彼は、子どもの頃からこんなに優しい人間だったのかと、その彼が、自分と一緒にいることを選んでくれたことを、ジェロニモは、今までのいつよりも、深く感謝した。
そうして、自分を必死で慰めようとしてくれている子どものハインリヒの背中を、今まででいちばんの優しさ---と感謝---を込めて、静かに抱きしめた。
背中を叩いて、撫でて、叩いて、撫でてを、ハインリヒがそうするのに合わせて繰り返して、ジェロニモはそれでも時折、聞こえないため息を止められはしなかったけれど、少なくとも、落ち込んでゆく気分はそこで引き止められて、子どものハインリヒだってきっと、こんなふうにぎゅうっとされたいくらいには、不安に違いないと、いつもの気遣いがわずかに頭をもたげ始めていた。
ジェロニモと子どものハインリヒは、しばらくの間ずっと、そんなふうに抱き合っていた。
朝からの騒ぎで疲れたのか、それとも、子どもというのは昼寝を必ずするものなのか、ジェロニモに抱かれたハインリヒが、しきりにあくびをして、淡い水色の目を、小さな手でこすり始めた。
昼食もまだだったけれど、ジェロニモは食欲はなくて、子どものハインリヒがしばらく眠ってくれるなら、ひとり静かに考え事ができていいと、キッチンテーブルからリビングのソファに移動する。
抱き上げた体は熱くて、くたりとして、溶けたようにジェロニモの胸にくっついていた。
ソファに下ろすと、うつぶせに、口元に左手の親指を運んで、吸いはしないけれど爪を噛むように、かちかちと、これも小さな歯を鳴らす。
目を開けて、床に坐っているジェロニモが、そばにいるのを確認して、目を閉じる。けれどまた、すぐに開ける。
寝かしつけようと背中を撫でていると、眠そうな声で、けれどはっきりと、
「ミッフィー。」
と、言った。
「みっふぃー?」
うん、と、ソファに頬をこすりつけるようにうなずく。
どうやら、さっきホットミルクを飲んだマグのことを言っているのだと悟って、ジェロニモはゆっくりと音を立てないように立ち上がると、足音を消して、テーブルまで行って、マグを持って符ソファまで戻って来た。
横になっているハインリヒに見えるように、ソファの前のコーヒーテーブルにマグを置いて、これでいいかと目で聞くと、うん、とまた微睡みながらうなづく。親指の先を噛んだ口元が、ゆるく微笑んだ。
さあ、これで眠ってくれるかと、ソファから離れるしおをうかがっていると、
「ジェロニモも、一緒。」
そう言って、シャツの袖をつかんでくる。一緒に寝てと、そう言っているのだとわかるけれど、そのつもりのないジェロニモは、ハインリヒが袖を引っ張るのに、わずかに抵抗を示した。
眠そうな声と表情で、けれどはっきりと、悲しいと、唇がとがる。
子どものこんな表情に勝てるやつがいるものかと、ジェロニモはやれやれと口の中でつぶやいてから、うつぶせのハインリヒの体をそっと持ち上げて、ハインリヒの体温にぬくまったソファに大きな背中を伸ばすと、自分の胸の上にハインリヒの小さな体を乗せた。
足を伸ばせばはみ出すソファの大きさだったけれど、クッションに頭を乗せて、胸の上に暖かな、くたりと伸びた、幸せそうな塊まりを乗せて、ジェロニモも、幸せそうにゆるく笑う。
細い背骨の、小さな背中を、シャツ越しにゆっくりと撫でる。猫ほどの重さもないように感じる小さな体は、ジェロニモの広い胸の上で、そのまま眠りに落ちて行った。
掌にじかに触れるのは、大人のハインリヒがいつも肌の上に着ているシャツだけれど、その下にあるのは、小さな子どもの体だ。
それがハインリヒだとすぐにわかる顔立ちと、けれどまだ生身のままの右腕と、とても幼い声としゃべり方と、けれど頑固さと底なしの優しさは、大人のハインリヒとそっくりだ。
ああ、間違いなくハインリヒだと、今朝からの騒動をひとつびとつ思い出しながら、ジェロニモはゆっくりと息を吐く。
子どもになってしまっただけで、これは間違いなく、自分がとても大事に思っているハインリヒだ。
大好きだと、自分に無邪気にまとわりついてくるのは、それは大人のハインリヒの記憶が、どこかに残っているせいなのか、それとも、それとは何の関係もなく、子どものハインリヒもジェロニモを好きだということなのか、けれどその好きが、大人たちの言う好きとはまるで違うだろうということはきっちり自覚して、これは何か、自分の理性を試すための試練なのだろうかと、そんな埒もないことを考える。
そんなことを考えられる程度には、気分は少し落ち着いていた。
ソファは狭くて、ハインリヒが上に乗って寝ているから、動くこともできなくて、正直寝心地がいいとは口が裂けても言えなかったけれど、額から一部が見える、子どものハインリヒの寝顔はひどくかわいらしくて、もぞもぞと動いてそれを起こすことはしたくなかった。
そう言えば、比較的寝つきのいいジェロニモは、大人のハインリヒの寝顔を、あまり明るいところでじっくり眺めたことがなかったと、不意に思い当たる。
規則正しく上下する、小さな背中もかわいらしくて、起こさないように、そっと掌を置いた。
こんな寝顔が毎日見れるなら、子どものハインリヒと一緒にいるのも悪くないと、気楽に考えてみる。
考え込んだところで、事態は何も変わらなさそうだったし、ジェロニモが不安がれば、子どものハインリヒはもっと不安がるだろう。
仕方がない、受け入れようと、ジェロニモは、最後だと思いながら、もう一度大きくため息を吐いた。
ジェロニモの大きく上下した胸の動きに、ハインリヒがちょっと声を立てて、顔の向きを変える。
起こしたかと驚いて、ジェロニモは一瞬動きを止めて、ハインリヒがそのまま寝息を立てているのを確かめた。
大丈夫だ、ちゃんと寝ていると、そう思った時に、舌足らずな声が、胸の上で、かすかに響いた。
「・・・ずっといっしょだよ。いっしょに、いようね・・・」
寝ぼけた声が、けれどそう聞こえて、何か夢を見ているのだろうかと、それはどんな夢だろうかと、その夢の中では、自分ももしかして子どもなのだろうかと、ふっくらとした頬の線に目を当てて、ジェロニモはもう、それしか浮かばない微笑みを口元に刷いて、眠るために目を閉じた。
せめて夢の中に、大人のハインリヒが現れてくれることを、往生際悪く祈りながら、子どものハインリヒの立てる健やかな寝息を子守唄に、眠りに落ちるジェロニモを、マグのミッフィーが、コーヒーテーブルから見守っている。
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