うわさになりたい - 番外編

「What A Day」



B

 がたんと、コーヒーテーブルを蹴っ飛ばした音と、自分の上から、何か重いものがずり落ちた気配で目が覚めて、ジェロニモは、部屋の中がもう薄暗いのにまず驚いた。
 床から、大きな黒い影が動いて、いたたたと、声を上げている。
 「なんで俺が、あんたの上で昼寝なんかしてるんだ。」
 その声が聞こえたことが信じられなくて、ジェロニモは、時間が止まったように体の動きを止めてから、慌てて体を起こした。
 「アルベルト!」
 ジェロニモが、とても珍しく大きな声を出したのに驚いて、床に坐り込んでいるハインリヒが、ちょっと目を見開いて、ジェロニモをそこから見上げた。
 ソファから滑り降りて、ハインリヒの顔に触れて、髪に触れて、肩に触れて、そして右手に触れた。
 右腕を撫でて、何度も撫でて、そして、しっかりと抱きしめる。
 「・・・ジェロニモ?」
 怪訝そうな声で、ハインリヒがちょっとだけ、ジェロニモの腕の中でもがいた。
 「どうしたって言うんだ、一体。」
 ジェロニモは、説明をするよりも何よりも、ハインリヒがまたどこかへ行ってしまうのが怖ろしくて、しっかりと抱きしめた腕をゆるめずに、肩や背中にやたらと触れた。
 大きくて硬い背中、厚い肩、義手の右腕、きちんと、大人のハインリヒのそれだ。それを確かめるために、掌を移動させて、そして、床の上で抱き合ったまま、ふと、剥き出しの脚に触れる。
 そうして、ハインリヒも初めて自分の格好に気づいたらしく、自分の姿を眺め下ろして、困惑しきった表情で、ジェロニモを見上げた。
 「・・・シャツだけしか着てないのは、どうしてなんだ。」
 下着のシャツだけを着ていて、素足のまま、他には何も身に着けずに、確かに、少々おかしな格好だった。
 長い腕、長い脚、シャツはぴったりと体に張りついていて、どこにも余ったところはなく、首筋や二の腕や足に見える筋肉は、確実に大人のもので、そうして、戸惑いを含んだその声は、ジェロニモが知っている、大人のハインリヒのものだった。
 事情を知らなければ、妙だとしか思えない仕草で、ジェロニモは、ぺたぺたとハインリヒを触った。ハインリヒがきちんと大人で、そして実体を持っていて、このまま消えてしまったりしないように、それを確かめたくて、ジェロニモは、何度も何度も、同じところを触った。
 ハインリヒは、そんなジェロニモに抗いはしなくても、一体何が起こったのかと、一応問わずにはいられないらしく---当然のことだ---、ジェロニモが自分と目を合わせるわずかの時を狙っては、どうして、どうしてと何度も訊いてくる。
 その質問にどう答えていいかわからないジェロニモは、ハインリヒを抱きしめるのに夢中になっているふりをして、聞こえていないという素振りを強調する。
 とうとうハインリヒが焦れて、ジェロニモの腕をつかんだ。
 「おい、どうしたんだ、落ち着いてくれよ。」
 頼むからと、付け加えた声が、少しばかり上ずっていて、それが、子どものハインリヒのあの声と、ジェロニモの耳の中で重なった。
 少しばかり不安げな瞳が、見上げてくる。瞳の色は、やはり変わっていないような気がすると、あの何もかもが小さかった体を思い出して、ジェロニモは、ようやく保っていた理性を、投げ飛ばすことにした。
 床からハインリヒをすくい上げ、腕の中におさめると、黙って、足早にベッドルームへ向かう。
 行き先に気がついたハインリヒが、ちょっと待て、と少しばかりもがいたけれど、その頃には、今朝抜け出たまま、人型の名残りが見えるベッドに、たどり着いてしまっていた。
 乱れたままのベッドの端の方には、今朝子どものハインリヒから脱がせた---あるいは、勝手に脱げ落ちた---ブルーのパジャマが、くしゃくしゃに丸まって引っ掛かっている。
 そういえばジェロニモも、今朝からパジャマのまま、着替えてすらいなかった。
 確かに、とても奇妙だろうなと、まだ同じ問いを繰り返そうとしているハインリヒの唇を、自分の唇でふさいでしまう。
 これもまた、一体どうしたと、訊かれる原因になるなと、そう思いながら、下腹を覆うには少し丈の足りないシャツの裾から、きちんと腹筋の触れるハインリヒのみぞおちの辺りに、ジェロニモは無言で掌を滑り込ませた。


 ようやく、呼吸が平常に戻った時には、部屋はすっかり暗くなってしまっていて、ハインリヒはもう、しわだらけのシーツに埋もれて、声も出ないように、全身を伸ばしきっていた。
 上掛けは盛大にずれて、半ば床を覆っていたし、ベッドの上にかろうじてあったハインリヒのパジャマは、どこへ落ちてしまったのか、頭をめぐらせても見えない。ジェロニモが脱がせたハインリヒのシャツも、ジェロニモが脱いだブルーのパジャマも、何もかも、見当たらないのは部屋の暗さのせいばかりではない。
 全裸の体を伸ばして、うつぶせにあちらを向いているハインリヒの背中---きちんと広い、筋肉のついた、大人の背中---を、ジェロニモは、そこに間違いなくあるのだと確かめたくて、そっと掌を乗せる。
 ハインリヒが、くすぐったそうに、軽くその背を波打たせた。
 ようやく、ずっと張りつめていた気をわずかにゆるめて、ジェロニモは、ベッドを揺らさないように気をつけて、床に下りる。
 暗い部屋の中、探すのが面倒だったので、音を立てないようにチェストから新しい下着を出して、足を片方ずつ差し入れながら、ドアへ向かって歩いてゆく。その途中で踏みつけたのは、子どものハインリヒが履こうとして、転びかけたブルーのスリッパだった。
 それを取り上げて、しばらく眺めてから、ベッドにうつぶせたままのハインリヒを振り返り、そっと揃えて、ベッドの近くへ置いた。
 あまり時間を掛けたくなかったので、とりあえず湯を沸かして、紅茶の葉をポットに入れる。
 そこだけ明るいキッチンから、さっきまで眠っていた---子どものハインリヒと一緒に----リビングのソファが見えて、ジェロニモは、そこをじっと凝視した。
 どこにもいない。気配はない。どこへかはわからないけれど、来たところへ去ってしまったのだと、ジェロニモは、かすかに淋しさを感じて、その淋しさに戸惑いを覚えた。
 それから、コーヒーテーブルの上に置いたままの、ミッフィーのマグに気がついて、少し慌てたように、そこへ走った。
 子どものハインリヒがホットミルクを飲んだマグは、まだあの時のままで、小さなそのマグを両手で抱えていたのだと、鮮やかに思い出す。
 ジェロニモは、そのマグを持ってキッチンに戻ると、ちょうど沸いた湯をポットに注いで、そして、葉が開くのを待つ間に、ちょっと惜しいなと思いながら、ミッフィーのマグをきれいに洗った。
 水気を拭き取って、そのマグに、いれたばかりの紅茶を注いで、それから、冷蔵庫から取り出したミルク---それも、数秒、感慨深く眺めて---を、少し多めに入れた。
 そのマグだけを持って、ベッドルームに戻ると、驚かさないように、ベッドのそばの小さな明かりだけをつける。
 ハインリヒは、ぱちぱちと瞬きをしながら、ジェロニモの方へ向いて体を起こした。
 紅茶の香りに気づいたのか、色の淡い唇の線が動く。ジェロニモは、ハインリヒの隣りに乗り上げながら、中身がこぼれないように気をつけて、小さなミッフィーのマグをハインリヒに差し出す。
 「あんたの分は?」
 マグがひとつしかないのを、ハインリヒが訝しがる。
 鉛色の右手を差し出して、その中にすっぽりと収まってしまう小さなマグに、ハインリヒが軽くあごを引いた。
 「一緒に飲もう。」
 まだ怪訝そうな表情を消さずに、それでもハインリヒは、くしゃくしゃの上掛けを引き寄せて体を覆うと、ジェロニモの隣りに坐って、熱い紅茶を音も立てずに一口すすった。
 ハインリヒの肩に腕を回して、髪の中に鼻先を埋めて、ジェロニモは、かすかなコロンの香りを、胸いっぱいに吸い込む。いい匂いだと思って、ジェロニモは、いちごジャム味のキスや、ミルクの匂いのする柔らかな肌や、罪悪感を呼び起こすスイッチつきの幼い泣き声や、そんなものを、懐かしく思い出していた。懐かしく思えることを、心の底からありがたく思いながら。
 ミッフィーのマグに、ハインリヒと一緒に手を添えて、ジェロニモは、ハインリヒの額に、小さく口づけた。
 「あんたに、子どもの頃に、これとよく似たコップを持ってたこと、話したことがあったか?」
 ハインリヒが、薄く笑って、ジェロニモを見上げる。
 「いや、ない。」
 微笑みを返して、ジェロニモは短く言った。
 続きを促す前に、ミッフィーのマグを自分の方へ引き寄せて、静かに一口、まだ熱い紅茶を飲む。
 小さなマグの中身は、もう半分近くまで減っていて、ふたり一緒に添えた、色違いの手の指先が、わずかに触れ合っていた。
 ハインリヒが、くすくす笑いながら、昔話を始めるのを、ジェロニモもくつくつ笑いながら聞く。
 ふたりで分け合う紅茶が空になった頃、またしわだらけのシーツに、ふたりで一緒に潜り込みながら、小さく笑い続けるふたりの声に、どこかで交ざった子どもの笑い声は、ふたりの耳には届かずに、静かに部屋の薄闇に溶けて消えて行った。




 事の始まりは、Nさまにいただいた、やたらと幸せそうな54のイラストでした。あんまりふたりが幸せそうだったので、文章つけさせていただけませんかと、図々しくお願いしまして、許可いただけたこいつも、同じくらい幸せ者です。
 そんなわけで、ジェロたんの誕生日ということで、こんなものが出来上がりました。っていうか誕生日関係ないし(それ禁句)。Nさまのイラストは、娯楽室に上げさせていただきました〜☆
 Nさまのイラストくらい、幸せな54を常に夢見つつ(笑)。来年もまたよろしくです。

 Nさま、どうもどうもありがとうございました!


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