「あらし」 - 番外編
White Stain
躯を外して、弾む息がすぐにおさまるのは、いつだってジェットの方だ。
乱れたシーツの上に、うつ伏せになっているアルベルトを残して、全裸を隠しもせずにベッドを降りる。
キッチンに、水でも飲みにゆくのかと、思って、そちらに顔だけ向けると、断りもなくクローゼットのドアを開ける。無雑作に中に手を突っ込んで、かちゃかちゃとハンガーを動かし、何を基準に選んだのか、アルベルトのシャツを1枚取り出す。
何の変哲もない、白いシャツは、おろし立てのように染みひとつなく、襟も袖も、触れれば指先が切れそうだった。
ふんと、目の高さにハンガーを持ち上げて、片手で器用に、滑り落ちないようにとめてあったいくつかのボタンを外し、がちゃんとハンガーだけを中に戻すと、ジェットはそのシャツを肩に羽織った。
「サイズが合わない。」
袖に、片腕だけ通しかけて、上がった肩越しに、ジェットが、そう声をかけたアルベルトを見る。
いたずらを見つけられた子どものような表情だと、思ってそれが、一瞬の後に、また馬鹿にしきったような色を浮かべる。
「言われるまでもねえや。」
不貞腐れたような声で、かまわずに両腕を通して、シャツが揺れる背中を、アルベルトは、まだベッドにうつ伏せたままで見守った。
肘をついて、肩を上げて、短い袖と、中途半端に腰を覆う裾を眺めて、肩の広さと、腰の細さに、一瞬見惚れる。
ボタンをとめているのか、うつむいているジェットの背中に、アルベルトは、全裸のままそっとベッドから降りて、足音を忍ばせて近寄った。
「こっちを向いてみろ。」
まだ、もたもたとボタンをとめながら、ジェットが肩を回してきた。
下からボタンをとめているジェットの手に触れて、アルベルトは、シャツを下に引いてぴんと伸ばすと、残ったボタンをとめ始める。
ふたりで、同じところへうつむいて、ほんものと見間違うほどなめらかに動く、アルベルトの鉛色の右手の指先を、一緒に眺めている。
ボタンをひとつとめ終わるたびに、少しずつ顔の位置が上がる。そうして、シャツの下のジェットの筋肉の形を、そこに思い出しながら、アルベルトは同時に、昔はいつも、こうやってグレートが服を着せてくれたことを、思い出していた。
肩幅は、かろうじて同じくらいだけれど、厚みが少し違う。胸も背中もジェットの方が広く見えるのは、削いだような、細い腰の線のせいかもしれない。
グレートも、背の伸びたアルベルトの前に立って、同じように、そんなことを観察していたのだろうか。
知らずに、口元がほころんでいたのか、ジェットが唇を曲げて、
「なに笑ってんだよ。」
突っかかるように言う。
別にと、笑いを引っ込めて、何とか首元までボタンをとめ終わって、アルベルトは、その出来上がりを、ほんの少し肩を引いて眺めた。
「袖の長さも、裾も足りない。首回りも、ちゃんと測らないとな。」
ボタンをきちんととめても、まだたっぷりと余る首に、右手の指先を差し込んで、自分の方へ引き寄せながら、アルベルトはからかうように笑った。
その手を、ジェットが取り上げて、また片手で、素早く首のボタンだけを外す。
「こんな窮屈なカッコ、してられるか。」
わざと反抗的な口調で、首元を開いて、もっと下までボタンを外して、ジェットの指先は、そのままシャツを引き裂いてしまいそうに、乱暴に動く。
あらわになった鎖骨と、肩と、見上げるジェットの、あごや首の線の鋭い美しさに、アルベルトは悟られないように息を止めて、まるで操られたように、右手を、そこへ目指して持ち上げた。
首に触れ、ジェットのあごを包むように、左手もそこに添える。
ジェットがアルベルトを下目に見下ろして、不意ににやりと笑う。
ほら、とジェットの手が手首をつかんで、そこから少し下へずらし、アルベルトの手に、自分の掌を重ねた。
まるで、首を締めるようなその形に、アルベルトははっとなって手を引こうとしたけれど、ジェットがそれを許さない。
「・・・やれよ。」
そそのかすような声とともに、とがった喉仏に重なった4つの親指に、力が入る。
「オレを、殺したいか・・・? オレに、消えてほしいか?」
ジェットの喉に向かって伸びた腕は、硬直して、アルベルトはジェットの誘いの声に引き寄せられて、指先に次第に力を込めて行った。
「オレを、殺せるか?」
笑ったまま、けれど今は少し頬を上気させて、力が入るに従って、ジェットのあごが上がる。
軽く開いた唇の間から、食い縛った、少し乱れた歯並みが見えて、アルベルトは夢中で、掌に力を込めた。
ジェットの唇が、いきなり大きく開き、逆に、見下ろしていた目が、ぎゅっと閉じられる。それに驚いて、アルベルトは、催眠術がとけたように、ジェットの首から手を外した。
首を撫でながら、ジェットが体を折り、ぜいぜいと息をする。
人殺しは、いつもグレートの役目だった。アルベルトはまだ、自分の手を汚したことは、ない。
そして、ジェットを殺せるわけもなければ、殺したいとも思わないと、ジェットの首を締めていた自分の両手を眺めて、ぼんやりと思う。
「・・・アンタに、オレが殺せるわけねえ。」
まだ、血の上がった頬のまま、ジェットが細い声で、悲しげに聞こえる声で、そう言った。
眺めていた両手を下ろして、乾いた声で問い返した。
「どうして、そう思う。」
ジェットの長い腕が、体を起こしながら伸びてくる。首を締められるのかと、少し驚いて後ずさるより早く、ジェットの大きな手が、アルベルトの後ろ髪を強く引いた。
痛みに、うめいてあごを突き上げる。ジェットの手をゆるめさせようと、肩から後ろに左手を伸ばし、不快を、隠しもせずにねじれた口元に刷くと、アルベルトは、薄ら笑いを浮かべているジェットをにらんだ。
アルベルトの視線に、ひるみもせずに、ジェットがもっと強く、胸が反るほど強く髪を引く。
「アンタの、大好物だからな。」
ジェットの胸を押し返していた右手を取られ、ボタンをとめたシャツのすそに、かろうじて隠れていたそこへ、導かれる。掌ごと握り込まれると、躯を繋げている時と同じ力強さが、そこに勃ち上がり始めていた。
触れた途端に、視線が弱くなる。ジェットをにらみ続けることができず、目の前に、紗の幕がかかる。
思わず噛んだ唇を、ジェットが、濡れた舌でべっとりと舐めた。
「・・・ほしいか、淫売?」
髪をつかんでいる指が、ほんの少しゆるむ。触れるほど近く顔を寄せて、自分を見下ろすジェットの視線をとらえたまま、アルベルトはかすかにうなずいた。
髪から指が外れ、ほっと息を吐くと同時に、ジェットがつかんでいた右手を引いて、それから、アルベルトをベッドの上に突き飛ばした。
「どこにほしいか、言ってみろよ。」
言葉を投げつけられるたび、羞恥に、血の流れが速くなる。体の前を、かろうじて隠しながら、けれどジェットは、容赦なくアルベルトを剥き出しにしてゆく。
「四つん這いになって、見せてみろよ、淫売。」
辱められれば辱められるほど、どうしようもなく、とろりとあふれ出す、蜜色の熱がある。
アルベルトは、唇を結んで、ジェットに背を向けて、言われた通りに、頭を下げて、腰を持ち上げた。
言われる前に、脚を開いて、ジェットが歓ぶように、胸の前から右手を添えた。
「どんなふうにほしいか、自分でやって見せろ。」
シーツに額をこすりつけて、拒むように首を振る。
ゲームが始まる。
命令されて、拒んで、強要されて、羞恥を昂ぶらせて、行うことに、もっと別の意味づけをする。その意味づけに、もっと欲情を昂ぶらせる。
こんなことを、したいわけではないのだと、言い訳をしながら、ジェットが求める通りに、鉛色の指を進めた。
拒む狭さなどなく、ただ、冷たさに肩がすくむ。息を止めて、ゆっくりと吐き出しながら、わざと呼吸の音をジェットに聞かせて、もっと指を深く沈める。
波打ったシーツを、舌で絡め取って、ぎりっと歯を立てる。唾液が染みをつくって、吐息に湿る。指を動かす、同じリズムで、短く声がこぼれる。
指の届く深さだけではなく、押し入る形も欲しくて、ジェットの輪郭を真似るつもりで、増やした指を揃えた。
粘膜をこする、卑猥な音に、全身を揺すりながら、アルベルトはシーツの上で、ひとりでのたうっていた。
指先は、ジェットのそれとは似ても似つかず、柔らかな粘膜に触れる動きにだけ、精一杯満足しようとしながら、もっともっと奥へ誘う動きで、勝手に腰が揺れる。
額を、シーツの上でずらして、肩越しにジェットを盗み見た。
アルベルトを眺めながら、ジェットはシャツのボタンを全部外して、白い裾にくるんで、自分自身をこすり上げている。仁王立ちになりながら、少しばかり喉を伸ばして、熱の浮かんだ淡い緑の瞳で、アルベルトの指の動きを凝視していた。
おそらく、シャツを汚している、すでに濡れているだろうジェットの熱さと形を、アルベルトは自分の内側に想像した。
あれは、自分の身代わりだ。こうやって、直には触れずに、アルベルトを玩びながら、けれど触れないことに、ジェット自身が耐えられない。
アルベルトを貶めて、けれどそこでアルベルトが、ジェットを置き去りにしてしまう---と、ジェットは思い込んでいる---ことに、ジェットは我慢がならない。
踏みつけても踏みつけても、どんなに汚濁の中を這い回らせても、白い貌のまま起き上がるアルベルトを、倒れたままの、薄汚れた負け犬にしたくて、ジェットは、無駄な努力をする。
それは、底辺へ叩き落されて、そこで生き延びた者だけが身に着けられる、ある種の強靭さ---正確には、それは感覚の無さでしかないのだけれど---であることを、ジェットは決して理解しない。
受け入れることを強要され、受け入れることに無感動になってゆき、そうしてある日いきなり、自分はそれを好きなのだと、進んで誤解する。そうしなくて、どうして正気を保てるのだろう。狂気から逃れるために、自分の一片を、狂気に向かって手放す。
悦びに狂うことによって、正気を保つ。
その狂気が、いつの間にか、自分の一部となって還ってくることには、その時は、気づきもしないにせよ。
アルベルトは、自分を侵していた。やわらかな粘膜を、金属の指でこすり上げ、ジェットに貶められるために、それによって、もっと欲情してゆくために、自分を侵していた。
快楽だけを求める、欲情の化け物。その化け物を眺めて、ジェットが、こすり上げる手の中に熱を育てる。
熱い内側で、こすり上げる動きだけでは足りずに、指を開く。まるで、自分がどれほど淫猥な化け物か、ジェットに見せつけるために、いつもジェットが、その敏感な皮膚で感じている粘膜の内側を、わざとさらけ出す。
不意に、ジェットが動いた。
ちくしょうと、吐き捨てた声が聞こえ、何だと、起こしかけた頭を、ジェットの手が押さえつけた。
指を引き抜かれ、ジェットが、その後に入り込んでくる。
自分の指とは、比べ物にならない、内側を押し開く感覚に、アルベルトは思わず叫んだ。
決して、苦痛の声ではなく。
背中にジェットの胸が乗ってくる。全身の重みで突き上げられて、間断なく声を上げながら、
「オレがいなくなったら、アンタが困るんだろ? そうだろ?」
まるで、哀願するようなジェットの声を、自分で喘ぐ間に聞いていた。
その通りだと、シーツに額をすりつけながらうなずいて、背中を浮かせて、動きを早めたジェットに向かって、首をねじ曲げる。
真っ赤に火照った頬や首筋や胸元や、けれど首の一部だけ、一際赤が濃い。
ジェットの首を締めた、あれは自分の指の跡だと、思って、親指に甦ったジェットの喉仏の押し潰される感触に、奇妙な欲情がわいた。
全身をたわめて、躯のいちばん奥に、ジェットが入り込んできたような気がして、まるで、扉が開いたように、意識がどこかへ飛んだ。
急に躯を引いたジェットが、アルベルトの腰を引き寄せたままで、アルベルトのシャツの中に、白く吐き出したのを、視界のすみに見る。
汗に湿って、よれたシャツは、今はジェットに穢され、肩で息をしながら、ジェットがアルベルトに向かって、満足げな笑みを浮かべた。
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