「あらし」 - 番外編
Whose What
空気が、不意に濃くなったような気がして、目の前にゆらりと立ち上がったアルベルトの、足の運びを目で追う。
坐っていたソファの向こう側に、広々としたベッドが見えた。そちら側に歩いてゆきながら、目で、誘う。
軽く振るあごに、そうかと思いながら、つられて立ち上がる。
歩きながら、ネクタイを外し、シャツの裾をスラックスから引き出し、乱れた服も、誘いのひとつだと、しっかり心得ている。
誘う相手は、もう、長い間、グレートしかいなかったと言うのに。
長い間、と思って、グレートは、かすかに痛んだ胸を、持て余しながら、どこかで楽しんでいた。
アルベルトが、シャツのボタンを片手で外しながら、ベッドのふちに浅く腰掛け、そこで、軽く脚を広げる。
来てくれと、グレートに向かって、右腕が伸びた。
その腕が、届く近さに寄って、指先と、指の根元に優しく接吻してから、その手を、グレートは、そっと、開いた脚の間に置かせた。
アルベルトが、手と、グレートを交互に見る。
優しく微笑んで見せてから、そこに置いた手の甲を、少し強く押す。
ほら、と小さく促した。
アルベルトが唇を突き出して、ほんの少し、頬を染めた。
それでも、2歩後ろへまた下がって、自分を見つめるグレートの視界に、そこがよく映るように姿勢をずらして、そっと手を、滑り込ませる。
後ろに左手をついて、体を少し反らせ、滑り込ませた手を、そこで、動かす。
時折見え隠れする、鉛色の手首が、なぜか、ぞっとするほど淫らだった。
その下で、右手と指が、どんな動きをしているのか、アルベルトは、少しずつ息を早め、次第に、腰を前に滑らせて、もっと脚を広げてゆく。
グレートはそれを、静かに、呼吸の音すらひそめて、見ていた。
動きが、もどかしげになり、視線が下を向いては、じれったそうに、小さく舌を打つ。そうしながら、上目に、グレートをまた、誘うように見る。
動く気がないことを示すために、グレートは、胸の前で、しっかりと両腕を組んで見せた。
「やりにくいなら、脱いでしまえばいい。」
誘われていると知っていて、隠しようもなく、アルベルトが求めているのをわかっていて、グレートは、もっと先へ追い詰めるために、穏やかに促した。
アルベルトが、潤んだ、色の薄い瞳を軽く見開いて、まだ、腕を差し伸べてもらえないのだと悟って、ほんの少し、傷ついた表情を浮かべる。
それでも、グレートが、動き出す気がないのを見て取って、もっと誘うような仕草で、下だけを、体をねじって隠しながら、脱いだ。
シャツの前が、乱れて開いて、右肩がずり落ち、金属の右半身が、あらわになる。
滑らかに光る、その冷たい手触りを、一体何度、掌に味わっただろう。
自分だけが知っていた、その感触と、熱くなる、生身の皮膚の温度との、対比。
夢中になれば、我を忘れて、爪のない、その機械の指先を、背中に突き立ててくる。
すべてを、知っていたのは、自分だけだった。
その過去さえ忘れるなら、今と未来と、自分だけが、すべてを知っているはずだった。
アルベルトはまた、同じ姿勢に戻り、あらわになった下肢に右手を添えて、同じ動きをまた始めた。
こんなふうに、自分でするのは、あまり好きでないのだと、知っている。
右手は、硬く冷たくて、薄いその部分の皮膚を、こすり上げれば、切り裂いてしまいそうで、触れることさえ怖く、長い間、そのことに思い当たらずに、つらい思いをさせたことを、思い出す。
利き腕でない左手で、不器用に、こすり上げるけれど、それはうまく行かず、昇りつめることを許されずに、こもった熱が、澱のように積み上がる。
少しずつ慣れ、うまくなって、それでも、手軽に満足することができず、苦しんでいたのだと知ったのは、ずいぶん後のことだった。
幼い頃から、男たちに慣らされてしまった躯は、意思に関わりなく、快楽を求めることに貪欲で、勝手に熱くなる躯を静めるのには、そんな方法しかなく、そのくせ、その手際は、驚くほど悪かった。
侵されることは、知っているくせに、自分を慰める方法を知らない。むりやりに、大人にされてしまった子どもの、病的なアンバランスが、大人の男の、欲情を誘う。
今もまだ、その子どもの顔が、時折見え隠れする。
右手が、もっと下の、奥へ滑り込み、指を使い始めたのが、見えた。
喉を反らして、幾度も喘ぎ、濡れた声が、切れ目なくこぼれる。苦痛に耐えているようなその声が、ひとりではたどり着けない場所へ、それでもあがきながら、到着しようとしている、苦しみのせいなのだと、わかっていて、それでもグレートは、目の前のアルベルトを、ただ黙って見つめていた。
指が、次第に深く埋まり始め、動きが、早くなる。
腰を前に突き出し、右足をベッドに上げ、立てた膝が、がくがくと揺れる。
欲情の部分をあらわにして、全身を朱に染めて、それでも、まだ先へは進めない。
誰の指だ、とグレートは思った。
誰の掌だと、思った。
誰の息遣いで、誰の体温で、誰の皮膚なのだと、思った。
誰のことを、考えている。その頭の中に、巣食っているのは、一体誰だ。
グレートの目の前で、グレートを誘うために、乱れて見せながら、乱れさせているのは、誰なのだろう。
「グレート・・・・・・ぐ・・・グレート。」
切れ切れに呼んで、求めている躯を、見せる。
指が触れている生暖かさを、グレートは、自分の、柔らかな皮膚の回りに感じた。
どくりと、血が跳ねる。それでも、またしっかりと腕を組んで、聞こえないように、奥歯を食い縛った。
欲しがっているのは、誰なのだろう。自分の名を呼びながら、アルベルトが、ほんとに求めているのは、誰なのだろう。
決して、もう、手に入ることのない、誰か。
失わせることによって、その存在を、刻みつけてしまったのは、自分の愚かさだった。
アルベルトの中だけではない。グレートの中にも、おそらく居座ったまま、一生消えることはないのだろう。
鉛色の指が、柔らかな粘膜をこすり上げている様を見ながら、そこに触れたのは、どんな指だったのだろうかと、思う。
指は、よく見なかった。形が良かったような、そんな気がする。大きな手、長い指、繊細に動くとは思えなかったけれど、それでも、アルベルトが欲しがる動きと激しさで、熱を包み込む。
包み込み、それから、入り込むために、指で侵す。もぐり込ませ、動かし、開いて、広げる。指に絡みつく、濡れた体温。そこに、もっと親密に沈み込むことを期待して、指を使う。
長い指。生身の指。グレートのではない、指。
アルベルトが、頬を染め、泣き出しそうに潤んだ、水色の瞳で、半開きの唇から、舌先をのぞかせた。
限界だと、その、唇が動きだけで、伝えてくる。
罰を与えるために、踏みつけにしてやりたいと思ったのは、アルベルトだったのか、自分自身だったのか。
腕をへし折るだけではなくて、両手の指も、切り取ってやれば良かったのかもしれない。一本一本、根元から、思い知らせるように、ゆっくりと、苦しませるために、切り取ってやれば良かったのかもしれない。
そうしながら、それを眺めながら、自分の愚かさと醜悪さを、凶暴な衝動とともに、思い知る。
そこに欲しいのは、指などではないのだ。もっと熱い、もっと傷つきやすい、もっと繊細な、器官。濡れた粘膜で包み込みたくて、あがいている。
けれど、それはもう、ない。
切り落とされてしまったそれは、血塗れの、肉塊でしかなかった。硬さと熱さを、二度と取り戻すことはなく、体から切り離され、放っておけば、死臭を放って、腐ってゆく。
元は、人間の一部であったその肉塊は、あの日見た、アルベルトの、切り落とされた右腕と、よく似ていた。
体の一部を失うというのは、一体どういうことなのだろう。
グレートには、わからない。
アルベルトがまた、グレートの名を呼んだ。
早く、と濡れた唇が言った。
まだだ、と声もなく答えた。
はしばみ色の瞳に、銀の光が走る。それを見て、アルベルトが、かすかに怯えた色を、口元に刷いた。
視線を避けるためなのか、ベッドに上がり、四つん這いになると、グレートに向かって、腰を高く上げた。
下げた頭から、銀色の髪が散って、ベッドが、ぎしりと音を立てる。
広げた両足の間に、また右手が伸びて、二本揃えた冷たい指が、濡れて光りながら、赤い粘膜の入り口を侵す。
見えているのは、その指だけれど、感じているのは、その指ではない。欲しがって見せるのは、グレートだけれど、感じているのは、グレートではない。
それが、わかる。
もう、二度と、アルベルトに触れることはないだろう。けれど、ふたりの間に、常にいる。幻のように、その気配を忍ばせて、空気のように、入り込む。
現実よりも、もっと確かに、そこにいる。
失われたことで、その存在を、失われる前よりも、もっと主張する。
グレートは、誘うために、淫らな姿を晒しているアルベルトに、そっと近づいた。
腰に触れると、指の動きが、ふっと止まる。
肩越しに、瞳だけを動かして、アルベルトが、グレートを見やった。
「どうして欲しいか、言ってごらん、My
Dear。」
濡れた指を外して、そう、優しくささやいた。
ひくりと、いきなり広がっていた形を失った入り口が、息づいた。
そこに、ゆっくりと、グレートは指先を沈めた。
熱い中が、それだけで、誘うように、絡みついてくる。
アルベルトが、両手でシーツを握りしめ、目を、ぎゅっと閉じた。
指だけで、足りるわけがない。そう知っていて、指だけを一本、埋める。
もっと、と、腰が揺れた。
「どうして欲しい?」
全身が伝えてくる欲情を、言葉にさせたことは、あまりない。見るだけで、何が欲しいか一目瞭然で、そんなことを、わざわざ口にするまでもなかった。
けれど今は、求めているのが、グレートではないのだと、それがわかるから、何が欲しいのか、はっきりと自覚させてしまいたかった。
アルベルトを辱めて、自分を、罰するために。
「・・・指・・・もっと・・・・・・もっと、指が・・・」
湿った声が、息とともに、シーツに吸い込まれる。
奥まで入り込んだ指を引いて、また、指を増やす。
ここにあるのが、グレートの指でも、感じているのは、グレートの指ではない。
指を、切り取ってやればよかったと、また思った。
静かに、憎悪が、こみ上げてくる。それとともに、落ち込むような、哀しみが、背骨を這い上がってくる。
アルベルトに、親密に絡み合ったあの器官が、今、アルベルトが欲しがっているように、アルベルトに触れることは、もうない。
だからこそ、記憶が、それを補う。補って、グレートを、排除する。
こんなにも深く、アルベルトの中に、入り込み、刻み込み、実体を失くしても、まだ、ここにいる。
「もっと・・・もっと・・・・・・奥・・・グレート・・・・・・」
名前を呼ばれ、求めるように、指を使ってやりながら、グレートは、その柔らかな入り口に、舌を這わせた。
濡れた舌を滑らせながら、指に絡む熱さを、今はもう、自分だけが知っているわけではないことに、ひどく傷ついていることを、初めて自覚する。
傷ついたから、傷つけた。むごく、ひどく。
傷跡は、どうなっただろうかと、思った。切り落とされ、奪い去られた跡は、どんなふうなのだろうかと、思った。
それをさえ、アルベルトは、求めることを、やめられないのだろうか。
記憶に欲情して、全身をしならせている、情人の、うっすらと火照った膚を眺めながら、グレートは、焦らすように指を動かし、自分と、情人の間にある、その記憶の手触りを、確かめようとする。
生暖かい、血塗れの、柔らかな肉塊。器官の、なれの果て。
冷たい床の上で、まるで煙草を踏み消すように、革靴の先で、それを踏みにじる。
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