「あらし」-番外編/Without You

 季節の変わり目にはよくあることだ。義手の方の右半身が痛む。生身の残る肩の部分が痛み、接なぎ目のきしみの音が普段よりも耳につき、そして痛むはずもその感覚もあるはずもない右手が、ひどくうずく。
 この春の初めは、特にそれがひどくて、数日頭痛を耐えた後で、ろくに右手が使えなくなった。
 このことをひどく心配していたジェロニモの気遣いが鬱陶しくて、痛みがひどくなった数日前から、夜を一緒には過ごさなくなっていた。
 痛みはもちろんだけれど、ジェロニモが心配しているのは、アルベルトの深酒の習慣の方だ。こんな時にひとりにしたら、鎮痛剤を飲みながら酒も一緒に飲むのではないかと、至極真っ当な心配をしている。それを態度には出しても口にはしないのが、痛みでささくれ立っている神経によけいに障って、よけいに酒に逃げたくなってしまいそうだったから、仕事の後に自宅へ送らせると、もういいからそのまま自分の家──それほど遠くではない、見た目だけはりっぱなアパートメント──へ帰れと、うるさそうに右手を振って見せる。
 ほとんど片時もアルベルトの傍を離れないジェロニモが、車を降りてアルベルトを家の中に入れ、その後もしばらく大丈夫かと、心配そうな表情を消さず、そんなジェロニモに傍にいられると、今はいっそう苛立って、右手で殴れば気も晴れるかと、物騒な考えも浮かんだ。
 幸いに、アルベルトに逆らってまで、例えば家の外に車を駐めてその中で夜明かしするというほど強硬な態度ではなかったので、アルベルトもジェロニモの言う通り素直に酒は控えて、夜は鎮痛剤を飲んでおとなしく寝るだけだった。
 その日の朝、痛みで目が覚めて、痛みでまた寝入ることができず、1時間ほどベッドの中で耐えたけれど我慢できなくなり、すでに鎮痛剤で荒れかけている胃に、まずは何か入れようとキッチンへ下りて行こうとした。
 歩く振動すら肩甲骨──右側の、半分はほんものではない方──に響き、毛足の短い絨毯の階段をそろりと下りても、首の後ろに釘でも打ち込まれているような痛みが走る。
 痛みに凝り固まった全身が上げる悲鳴が、一斉に耳元に押し寄せて来ていた。
 残念ながら、そろそろ医者へ行って、この様子を伝えるべき時期が来たと忌々しく悟って、冷蔵庫の扉に掛けた右手の指先が、上手く曲がらない。力が入らず、右手では扉を開けることさえできなかった。
 痛みが始まって数日、できないことは左手でやって来たけれど、補助にすら右手が使えないとなると、少々困ったことになる。
 やっと左手で開けた冷蔵庫を、乱暴に閉めて、鎮痛剤の量を増やすか、それともとりあえず同じ量を飲んで様子を見るかと、きりきりと痛む胃を左手で撫でながら考えた。
 酒を飲んで、酔っ払って眠ってしまえればいいのにと、思うその上に、心配そうなジェロニモの顔が浮かぶ。
 くそったれ、と、普段滅多と使わない下品な罵りの言葉を口にして、アルベルトは唇を噛んだ。


 すぐに来いとアルベルトが電話で言ったその通りに、ジェロニモはすっ飛んで来たらしい。
 アルベルトは、その時シャワーを浴びていた。
 常になく大きな足音、キッチンと居間でアルベルトを探している気配、階段を駆け上がって、寝室のドアが音を立てて開いて、それから、開き気味になっているバスルームのドアから湯気が漏れているのを見つけて、ようやく安堵したらしい様子が伝わって来た。
 ドアが控え目に叩かれ、
 「すぐ出る、待ってろ。」
 水音の間に言葉を投げると、やっと落ち着いたジェロニモの足音が、ベッドの方へ歩いてゆく。
 体がぬくまり、多少はましになった右腕の動きに、アルベルトはやっと少し救われたような気分になり、それでもまだ痛むままの胃の辺りからは意識をそらして、シャワーを止めてバスタブの外へ出た。
 湯気に曇った鏡に顔を近づけると、左手で剃刀を使ったせいでできた切り傷が、いくつかはっきりと血をにじませている。昨日までは、少なくともその程度のことは普通に右手が使えたのにと、思うように動かない右手の指先がいっそう忌々しい。
 血で汚れるのも構わずに、タオルで顔を押さえ、使った何もかもそこへそのまま残して、アルベルトはバスルームを出た。
 ブラインドの間から窓の外を眺めていたジェロニモが、そこからアルベルトへ振り返った。
 「着替えに手がいる。」
 不機嫌を、声にも表情にも隠さずそう言うと、ジェロニモがいつもの、空気をほとんど揺らさない動き方で、滑るようにアルベルトの脇をすり抜けて、クローゼットの両開きの扉を開けて、またアルベルトを振り返る。
 「どれでもいい。どうせ今日は、午後から張大人に会うだけだ。」
 下着姿のままのアルベルトが言うと、普段全裸を見慣れているくせに、それを礼儀と思うのか、ジェロニモはごく自然に視線をアルベルトから外して、それでも濃い茶色の瞳が動く端に、アルベルトの右腕を観察するような熱がこもるのが窺えた。
 少なくとも、見た目に変化があるとは思えない。それでも、今ではアルベルト自身と同じくらいこの腕に触れて来たジェロニモには、何か見えるものがあるのだろうか。また深くなる痛みを感じて、アルベルトは右肩を左手で撫でた。
 ほとんど白に見える、薄い水色のシャツに、織りで模様の入った、これも無地にしか見えない、艶の深い黒のネクタイ、ジェロニモが手に取ると、それが自分の一部のように見える。同意と言う意味で、アルベルトはそれに向かって左腕を上げた。
 ネクタイの黒に、紫がかった青をひと色重ねたような色のスーツも一緒に取り出して、ジェロニモは揃ったそれらを静かにベッド──アルベルトが抜け出した時のまま、ひとり分だけ乱れている──の上に並べ、シャツを取り上げてアルベルトのために襟を広げる。
 向けた背中にシャツが添い、右腕がうまく上がらないことを肩の動きでアルベルトが示すと、ジェロニモは慌てた様子もなく、シャツの右肩を肘の近くまで下げた。
 鉛色の、もうジェロニモの目にはすっかり馴染みきったアルベルトの右腕が、シャツの下に静かに隠れる。そこがほんものではないと、もうわからなくなったアルベルトの首筋と肩の線に向かって目を細めてから、ジェロニモはシャツのボタンを留めるためにアルベルトの前へ回る。
 ふたりで一緒に、シャツの前へうつむいた。
 小さな華奢なボタンを、ジェロニモの大きな指先が、案外となめらかに扱い、胸元から次々下へ向かって閉じられてゆくシャツの前の線を、アルベルトは下目に追っていた。
 ボタンをつまむその指先の動きに、ここ数日、触れられていない皮膚が、裏側で波を立てる。そのボタンと同じように自分が扱われるのだと思って、けれどもしかすると、ボタンに対する扱いの方が丁寧なのではないかとも思って、アルベルトはかすかな嫉妬を感じた。
 いちばん上の、喉元のボタンを留めるために、ジェロニモの大きな手がふたつとも、あごの下へ差し込まれる。それに従って上向くと、ちょうど、口づけをねだる時のような角度になった。
 気づくだろうかと期待したけれど、ジェロニモは、そこで少してこずったボタンに必死で、アルベルトの心の動きを追う余裕はなかったらしい。
 ほんとうに子どものように、アルベルトはただジェロニモが促すまま、腕を曲げ、足を上げ、服を脱がせさせることはあっても、こんな風に着る手伝いをさせたことはなかったと、改めてまだ長くはないジェロニモとの、こんな付き合いの内容を、アルベルトは考えている。
 腕は相変わらず痛んでいたけれど、今せっかく着た服を脱いでジェロニモをベッドに引きずり込もうかと、考えられる程度には気が散っていた。
 ネクタイが襟の下を通る。ジェロニモは相変わらず自分の手元に視線を当てたまま、けれどそこでやっと、迷うように瞳が揺れた。
 胸の前に垂れたネクタイを、引き寄せて重ねて、片端を取り上げてできた輪の中へ通してと、そうする手つきが、少しずつ戸惑いを濃くしてゆく。巻いた端を元へ戻し、重なりを逆にしてまた同じことをする。けれど上手くは行かない。
 「自分で結ぶのとは違うからな。」
 ジェロニモの心を読んで、アルベルトは笑いながら言った。
 目の前でやるのと、自分の胸元でやるのとでは、勝手が違う。ジェロニモの浅黒い皮膚の目元に、わずかに血の色が上がったように見えて、アルベルトは少し小気味良くなった。
 ネクタイなんかしなくてもいい。もういい、痛みを言い訳にしてベッドに戻ってもいいじゃないか。右腕が動かなくても、何もかもジェロニモにさせればいい。抱き合って、疲れ果てれば、薬も酒もなくても眠ることができる。痛みのせいで見る悪夢は、後でジェロニモに吐き出せばいい。
 甘え切った気分で、そんな考えをもてあそんでいると、ジェロニモが一度手を止めて、アルベルトの背中の方へ回って来た。
 肩から、ジェロニモの腕が伸びて来る。そこからネクタイを取り上げて、今度は打って変わって迷いなく指先が動き始める。
 人並みに長身のアルベルトよりも、頭ひとつ分高いジェロニモが、そこからアルベルトと自分の手元を見下ろして、シルクの生地に、いつもそうしてアルベルトを抱くように、ひどく穏やかに触れる。
 アルベルトは息を詰めた。
 背中に近づいたぬくもり。シャツ越しに感じる、ジェロニモの体温。数日、手に入れ損ねている、大きなジェロニモの体。それに重なる、自分の躯。
 きちんとネクタイを結び終わりそうになったジェロニモの手を、アルベルトは左手で押さえて止めた。
 あごを斜めに持ち上げると、ほとんど間髪入れずにジェロニモの呼吸が近づいて来る。
 アルベルトの右腕を気遣うように、抱く腕に力は入れないジェロニモの両腕に巻かれて、アルベルトは喉を伸ばしながら、飢えていたのは自分だけではなかったことに気づいている。
 明日にでも医者に会いに行くと言えば、ジェロニモは安心するだろうか。
 自分を安心させるのは、鎮痛剤でも酒でもなく、この大きなあたたかな体だと思いながら、口づけだけを深くするために、アルベルトはジェロニモの腕の中で体の向きを変える。
 左腕を精一杯伸ばして、ジェロニモの首に巻きつけながら、痛みを遠ざけるその分だけ、さらに近くジェロニモの胸に、自分の肩を寄せて行った。

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