「あらし」 - 番外編

You Do




 絡みついてくる腕は、片方が白く、片方が鉛色だった。
 片方は生暖かく、片方は冷たい。
 その鉛色の腕は、人目に晒されることはほとんどなく、革の手袋をはめて、指先まで隠されているのが、常だった。
 自分よりも、いくつか年上の、自分を拾い上げてくれた男の、情人だった、白い男。
 青冷めた頬にも唇にも、いつも血の気はなく、そこに朱が散るさまを見た時、ジェロニモは、思わず息を止めた。
 見るべきではなかったのだろうと、思う。
 そして、そんな彼を、ずっと見つめていた、4つの瞳を思った。
 グレートが、掌の中で、ずっと慈しんでいた。My Dearと、信じられないほどの愛しさを込めて、呼んだ。
 あの赤い髪の若い男は、ふてぶてしく笑いながら、けれど気弱そうな色を頬に浮かべて、精一杯挑むように、白い男を見つめていた。
 その身代わりに過ぎないのだと、何の感慨もなく、思う。
 生まれたばかりの子猫が、体温を求めて、兄弟猫に重なるように、暖めてくれる誰かが欲しかっただけなのだと、知っている。
 抱きしめて、求められるままに、動きながら、固く閉じたそのまぶたの裏で、誰の面影を追っているのか、時折、気になることも、ないではなかったけれど。
 男なしではいられないと、自嘲を込めて吐き捨てながら、震える肩が、それは嘘だと告げる。欲しいのは、男なのではなく、失ってしまった、大事な人間たちなのだと、淋しさを浮かべた背中が言う。
 頭を高く上げ、表情ひとつ変えず、冷たい声で、群がる人間たちを動かしながら、自分にも他人にも、冷酷にあろうとするその姿の痛々しさを、ジェロニモは知ってしまっている。
 ひとりきりで、頭を垂れ、まるで、痛む肩をかばうように、首のつけ根に、革手袋の手を添え、後姿は、いっそう晧い。
 今はもう、その背に手を伸ばすのに、ためらいもない。
 抱きしめれば、胸に、背中が添う。もたれかかるように、全身を預けてきて、ふと泣くこともあった。
 グレートと、名前を呼びながら、あるいは、あの赤毛の男の名前---ジェットと言うらしい---を呼びながら。
 背筋を伸ばして、様々な人間と対峙する彼は、もう、まごうこともない大人の男でありながら、ごくまれに、数瞬、華奢な少年の姿を晒す。
 怯えた、上目遣いの瞳、両手を---片腕は、もちろん鉛色だ---胸の前に引き寄せ、まるで、何かから自分を守るように、背中を丸め、今にも叫びだしそうに、真っ青な唇を震わせている。
 自分とは違う、けれど、同じように踏みつけにされてしまったことのある子どもだと、一瞬で、悟る。
 過去に何があったのかは、よくは知らない。どういう経緯で、グレートに引き取られたのか、腕を失った理由も、訊いたことはない。
 自分の事情と、そう大した違いはないのだろうと、ジェロニモは思った。
 あれは、親の瞳だ。
 グレートの、はしばみ色の瞳。慈愛と、自嘲と、後悔と、破滅を求める者の、視線。
 だからこそ、苦しむ者の気持ちのわかる、親の視線。
 あの、暖かな眼差しを失ったのは、白い男だけではない。
 護るために、ずっと傍にいた。控えめなねぎらいの言葉に、いつもひっそりと有頂天になりながら、見た目よりもずっと強かな、あの男のために、とうの昔に無駄にしていただろう人生を繋いで、護るために、自分は在った。
 コンクリートの上で、血を流す、グレートの死体。その死を考えたことなど、実は一度もなかったのだと、その時気づいた。
 失うと、思ったことなどなかったそれが、掌からこぼれ落ち、無残に砕けた。
 だから、護る誰かが欲しかった。自分自身を、護るために。
 抱きしめてくれと、無言の腕を伸ばしてきた白い男を、だから拒まなかった。拒めなかったふりをして、ほんとうは、拒まなかっただけだ。
 そうして、ふたりで、そうとは口に出さないまま、失ってしまった、あのはしばみ色の瞳を、互いに交わす視線の中に、思い出す。
 別々の形で、守られていたふたりだったから。
 これは偽善なのだろうかと思いながら、絡みついてくる腕の中に、グレートの姿を見る。抱いて、抱きしめられていただろう、白い男の記憶を、その白い膚の上から、盗み見る。
 ふたり躯を重ねながら、グレートの記憶を、重ねてゆく。
 いつか、グレートの目を通さずに、世界を見ることができるのだろうかと、ふと思う。
 グレートは、あまりにも深く自分の中に入り込んでしまっていて、自我の底にまで、あの視線を感じるから。悲しく微笑みながら、人殺しを命じた、あの、鋭い銀の光が、時折心の底を刺す。
 だからもしかすると、こんなふうに、白い男と抱き合うのは、ごく当たり前のことなのかも知れないとさえ、思った。
 コロンと、煙草の匂いの入り混じったグレートの体臭が、白い男の膚から、ふと立ったような気がした。


 シャツだけを着けた背中をこちらに向けて、白い男は、身じろぎもしない。
 汗が引いた、冷えた首筋には、もう血の色はなく、いつもの青白さが、皮膚の底に沈んでいる。
 男を抱く加減が、まだよくわからず、また、痛めてしまったのだろうかと、ジェロニモは思った。
 シーツの上や、白い男の足元に、血の染みのないことを確かめて、そのことには安堵しながら、上に向いた、硬い右肩に手を伸ばす。
 「シャワー浴びる。手伝う。」
 シャツ越しに伝わる、鉛色の肩の冷たさは、いつ触れても、銃身の冷ややかさに似ている。
 白い男は、振り向かずに、ジェロニモの大きな掌の下の肩を、軽く振った。
 振り払われたのだと、悟った瞬間に、声が言った。
 「出て行け。」
 機嫌を損ねたのではないことだけは、確かだった。
 誰かの思い出を、ひとりで手繰り寄せたいのだろうと、そう思った。
 ふたりで分かち合うには、ふたりはまだ、互いを知らなさ過ぎる。
 知ることは、これからもないのだろうと、思えたけれど。
 骨の形の見える、シャツに覆われた背中を見つけて、ジェロニモは、ベッドを揺らさないように、そっと腰を持ち上げた。
 「イエス、ボス。」
 背中から、視線を引き剥がし、何事もなかったような表情で、床に落ちた服を拾い上げる。
 ほんの少しだけ傷ついている自分に、気づかないふりをして、なぜ傷ついているのか、わからないふりをして。


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