2月14日
チョコレートはきらいではない。けれど、バレンタインという俗なものは大嫌いだった。
そんなことに浮かれていられるのも、つまりは平和な証拠だとは思ってみても、チョコレート如きに託さなければ伝えられない想いというなら、それはその程度のものに過ぎないと、斜めの視線を送りながらも口は開かない。
浮かれるやつらは勝手に浮かれろ。俺には関係ない。
どこかそわそわとした空気に神経が尖るのが、つまりは自分に無関係だとは言い切れないからだと、ハインリヒはそこへは言及しないように、注意深く思考を遠回りさせて、必要以上に肩をいからせている。
ほんとうに関心がないのなら、笑って無視できるはずなのに、それができずに、ひとりでこんなに腹を立てている原因は、俗世間のことには一切興味もないような表情で、いつものように森にパトロールへ出掛けて行った。
彼は---ジェロニモは、こんなことに、こんなふうにこだわったりすることはないのだろう。
好きだと、必死で---けれど、あくまでさり気なく---言ったハインリヒに、ああおれもだと、あっさりと即答してしまえた彼なら。
決死の告白は、それ以上にもそれ以下にもならず、返答もまた、それ以上、言葉を費やされることはなかった。
いつもなら、口数少ないジェロニモの、言葉の間を読むことにそれなりに長けているはずのハインリヒにも、その短い答えの意味を正確に推し量るには、少しばかり材料が足りなさすぎた。
色恋どころか、人が煩わされるだろうありとあらゆることから、すっかり解脱しているふうに見えるジェロニモに、まさかそのまま自分と同じ思いでいてくれているのだという判断はあまりにも素直すぎて、そんなばかなと、いつものひねくれ加減が意見する。
ハインリヒの混乱ぶりこそ、ナイーブの一言に尽きたけれど、自分の振舞いが、まるで幼い少年のそれのようだと思えるほど可愛らしくもなれず、ハインリヒは、ひとりで頭を抱える羽目になった。
ほんとうなら、言ってしまった後で、この混乱した気分を、ジェロニモも一緒に味わうはずだったのにと、妙な方向に逆恨みしながら、重くなる一方の悩みは、けれど、苦しいなりにどこか愉快な色を帯びていたのも事実だ。
結局のところは、自分でも扱いかねた重い荷を、ジェロニモの肩に背負わせたかっただけなのかもしれなかった。ひとりでは重すぎたから、分け合った方が良いように思えて、けれど分け合うはずの荷は、いまだハインリヒの肩に残されたまま、今はいっそう重みを増している。
けれどその重荷は、ないよりはあった方が、なぜか自分の中が満たされているような不思議な気分だった。
人は、人を恋わずにはいわれないのかもしれない。すでに人の姿をして、ひとではない自分と、そしてジェロニモのことを、並べて一緒に考えながら、必要がないなら、恋をするということもないはずだと、ささやくように自分に言い聞かせて、いくつか、眠れない夜を過ごす。
深く考えても仕方ない。答えが見つかるはずもなかったし、おそらく、答えなど存在しないことを、ハインリヒは知っている。
何年経っても、一向に変わったところの見えない---サイボーグが、外見上年を取らない、ということだけではなく---ジェロニモの、山や森を思わせるその空気に、そこから対極にいる、人よりは機械により近いハインリヒが魅かれるのも、納得できる話ではあった。
好きだからどうしたいと、具体的な展望があるはずもなく、ただ、自分の感情を相手に放り投げて、楽になってしまいたかっただけだった。
もちろん、ふたを開けてみれば、楽になるどころか悩みは増す一方で、放り投げた気持ちが、受け止められたのかどうか、それすらわからない状態に取り残されている。
自分の不器用さに、つくづく嫌気が刺しながら、それでも、まだ恋のできる自分に、安堵の気持ちが混ざる。
好きだという言葉を、一体、ジェロニモがどんな意味に取ったのか、そうして、おれもだと返したそれが、一体どんな意味だったのか、しかとはわからないまま、けれど少なくとも、嫌悪の表情で切り捨てられなかったことだけには、ハインリヒはまだ希望を繋いでいた。
もっとも、何があろうと、切るに切れない間柄にある、9人の仲間のうちの、ふたりではあったけれど。
考える時間だけは、永遠に近くたっぷりとあった。
このまま、不器用で幼稚な恋を抱いて、持て余しながら過ごせるのも、それはそれで幸せなことなのだろうと、自分の過去を振り返って、ハインリヒはひとりで笑った。
チョコレートを渡すということを、嬉々として行うほど俗にはなれないにせよ、好きだという自分の気持ちに変わりはなく、惚れていると言えるほどは深みはまだなくても、いずれそうなればいいなと、案外素直に思うことができた。
ジェロニモがまだ戻らないまま、午後は、ゆっくりと過ぎて行った。
何の変哲もない1日だった。夕食の後に、フランソワーズがみなに、手製のチョコレートケーキを振る舞い、普段よりも少し大胆に、ジョーの手がフランソワーズに触れていたこと以外には、他のどの日とも違いのない1日だった。
夕食の片付けをするジェロニモを手伝いながら、ハインリヒは、この寒空に、暖かな食後のコーヒーを手に、裏庭へ出てゆくフランソワーズとジョーの背中を、横目に見送って、目の前の汚れた食器以外には、わき目も振らないジェロニモの横顔をちらりと見てから、皿をすすぐ自分の手元に目を落とす。
ふたりの邪魔をしないためにみんながリビングから去ってしまった後に、まだキッチンへ残っていたジェロニモに、何か話し掛けようかと、その言い訳のための皿洗いだったのだけれど、横に立ったハインリヒに、ありがとうと短く言ったきり、ジェロニモは他には特に何も言わなかった。
皿を受け取る指が、時々、かすかに触れる。互いに濡れた手も、本人たち以上に無言のまま、沈黙は苦痛ではないふたりだったけれど、こんな時に何か気の利いたことのひとつも言えない自分に、ハインリヒはひとりで焦れている。
口を開くきっかけもつかめないまま、皿は全部きれいになり、コンロの上まで磨いて、ジェロニモが濡れた手を拭いたところで、夕食の片付けは完了だった。
さて、いよいよ何もなくなったと、ハインリヒは胸の中でため息をこぼして、まだ裏庭から入って来ないふたりを気遣うふりで、そちら側の窓へ数秒振り返ってから、そこから立ち去るしおを探る。
「アルベルト。」
珍しい呼ばれ方で、名前を呼ばれて、ハインリヒは少し驚いて、窓からジェロニモの方へ向き直った。
シンクの傍で、真正面から見つめ合う形に、見上げたジェロニモの口元がわずかに笑みを浮かべていて、驚いてハインリヒは、うっかりうろたえた表情を目元に刷いた。
ベストのポケットから、ジェロニモが指先でつまみ出したそれは、きちんと青いリボンのかかった、小さなフィルムの袋だった。
目の前に差し出され、慌てて鉛色の右の掌を上に向けると、その上に、まるで壊れもののように、小さなそれが乗ってくる。重ささえないその透明なフィルムに包まれているのは、どう見てもチョコレートにしか見えない、濃いココア色をした粒だった。
目元に血の色が上がったのには気づかないまま、ハインリヒはジェロニモを見上げて、自分の掌には不似合いなそれをもう一度眺めて、視線だけで、確かめるように訊いていた。
「・・・チョコレートがけのブルーベリーだ。好きでないなら気にしないでいい。」
ブルーベリーと言われただけで、口の中で弾ける酸味が、チョコレートの苦味と一緒に、舌の上に広がった気がした。
ハインリヒの返事を待って、取り返すためにまだ手をこちらに伸ばしたままでいるジェロニモをまた見上げてから、ハインリヒは、その小さな袋を、右手の中にそっと握り込む。
「いや、ブルーベリーは好物だ。ありがとう。」
チョコレートの溶ける体温はない掌の中で、フィルムがくしゃりと音を立てる。
「そうか、それならよかった。」
まるで安心したように、わずかに顔を傾けて微笑んだジェロニモに、今はもう躊躇もなく見惚れてから、ハインリヒは、もう一度ありがとうと繰り返した。
笑い声がふたつ、裏庭へ通じるドアを開けて、こちら側へ入って来る。
戻って来たフランソワーズとジョーを、そうとは知らないままひどくなごんだ微笑みで、ハインリヒは肩から振り返って迎えていた。
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