Becoming
煙草を吸うつもりで外に出て、けれど、ふとした気まぐれで、みながそこで煙草を吸う、海の見える崖ではなくて、裏庭の右手から続く、森の方へ爪先の向きを変える。
唇にはさんで、もうライターの火を近づけていた煙草を、ハインリヒはパッケージに戻した。
生身なら、じりじりと皮膚を焦がすだろう陽射しが、森の中へ入った途端に、重なり合った木々の葉に遮られ、濃い緑の影に変わる。見上げれば、きらきらと輝く木漏れ日に、ハインリヒは意味もなく笑みをこぼす。
さまざまないきものの気配がありながら、森の中は、緑に音を吸い取られてしまったように静かだった。
地面を踏む自分の足音を聞いて、いつの間にか、遠慮するように息をひそめている。
頭上の葉のひとつびとつが、自分を見下ろして、じっと見つめているような気がした。
よそ者だと、体温のないその視線が言っている。何しに来たと、声もないまま問われている。答える術もなく、ハインリヒは、ただ気配を消して、静かに歩き続けた。
草を踏む音、落ちている木の葉を踏む音、まるで、誰かの胃の中に、うっかり飲み込まれてしまった異物だと、自分のことを思う。
森の中で、自分がそこに住まないいきものであるということだけではなく、いきものですらないということを、外に比べれば、幾分ひんやりとした空気に思い知って、ハインリヒは小さく肩をすくめた。
煙草を吸う気はすっかり失せていて、煙草を吸うために外へ出たことすら忘れていて、ハインリヒは、時折立ち止まって周りをぐるりを見渡しながら、少しずつ森の奥へ入って行く。
歩く草の上に、うっすらと踏みしめられた道ができているのは、1日に1度、必ず森の中へ入るジェロニモの足跡だろう。
仲間たちは、少しばかりの揶揄と、そして彼の、特殊な力への尊敬を込めて、ジェロニモの森のパトロールと、それを呼んでいる。
森に入る。森に語りかける。森の言葉に耳を傾ける。風が何か、ささやきをどこかから運んで来て、鳥や、その他の小さないきものたちが、世界は相変わらず何事もなく動いていることを、ひとにはわからない言葉や仕草で、ジェロニモに伝える。
特別な力ではないと、そのことについて、訊かれるたびにジェロニモが静かに言い返す。
誰もが持っている力だ。ただ、使い方を知らないだけだ。
あの静かな瞳のまま、静かな口調で、反論ではなく、熱弁でもなく、森たちのささやきと同じように、淡々と言葉を紡ぐ。
そうなのだろうかと、自分の中を覗き込むように、ハインリヒは思う。
膚の色、髪の形、顔を覆う、縦横の白い刺青、その奇異な外見と不釣合いに、どこへいても目立たずに、空気に溶け込んでしまえる男だった。彼は、森に似ている。あるいは、大地にしっかりと根を張った、空を覆うほどの、大樹。
あの、しんと静かな瞳は、森の奥深く、ひとの訪れることのない湖面のようだ。
ひとの姿をしていて、けれどひとよりは、ひとでないものに近い、今はひとではない仲間たちの、ひとり。
それでも彼は、仲間の中では誰よりも、ひとに近しいもののように、ハインリヒには思える。
自分とは、対極の存在として、常にジェロニモのことをとらえていながら、同時に、だからこそ、魅かれてもいる。
異質なもの、違うもの、決して交わることもないだろう、存在する次元すら異なるもの。下らないと、自分で自分を笑いながら、それは憧憬ですらある。
ジェロニモ自身になり代わりたいと、そんなふうに思うわけではなくて、ただ、彼のほんの一部ほどでも、自分がひとらしく在れたらと、ひとよりは機械に近い、むしろ武器と呼ぶ方がよさそうな、自分の体のことを思う。
この森の中で、明らかに異物な、その自分の異質さに、わずかに吐き気を感じた。
体は、所詮心の入れものに過ぎないのだと、心の底から信じてはみても、それで慰められない自分の一部が、常に血を噴き出している。生身の心を覆ったかさぶたは、永遠に乾くこともなく、その下に、新しい皮膚の生まれる暇もない。
ジェロニモが、改造されてもなお、ああも静かに佇めるのは、機械になってすら失われることのなかった、あの力のゆえなのだろうか。
すべてを奪われ、よけいなものばかり背負わされた自分に比べれば、この世の誰だって幸せだろうと、まるで投げ捨てるように自分を嗤う。
声に出して笑って、ハインリヒは、ようやく足を止めた。
ジェロニモの真似をして、目を止めた木の幹に、掌を伸ばす。わざと左手ではなくて、今は剥き出しのままの右の掌をそこに重ねて、ざらりとして冷たいとも生温かいともつかない、木肌の体温を読み取ろうとした。
気配か声か、それとももっとわかりやすく、自分にも伝わる言葉か、何かそんなものを期待して、ハインリヒはしばらくそのまま、指を広げて木に触れている自分の右手を凝視していた。
期待した通り、掌には何の気配もなく、触れている木を見上げて、ハインリヒはふっと笑う。諦めを瞳に刷いて、ゆっくりと掌を外し、その木の根元に坐り込んだ。
片足を伸ばし、片膝を胸の近くに寄せて、その上にだらりと伸ばした腕を乗せ、木に背中を預けた。でこぼことした木の根が、坐った腰の下に少し痛かったけれど、かまわずに上を見上げる。
鳥が、葉の間を飛ぶのが見えた。見えないけれど、小さな虫もいるに違いなかった。そう言えば、近頃蝶を見ていないなと思って、辺りを見回すと、地面に生えた背の低い雑草が、小さな花をつけているのを見つける。
こつんと、頭の後ろを木に軽くぶつけて、ハインリヒは目を閉じた。
このまま、ここで眠りに落ちて、永遠に目覚めないという想像。
強化プラスチックと金属の体は、腐ることはないけれど、おそらく泥に汚れ、草に覆われ、土に還ることは許されず、それでもこの地面や木と、一続きに在ることは許されるかもしれない。
動きを止めた機械の体。役立たずの武器。部品の合間を縫って走る草の根や、腕や足の支柱を伝って伸びる草の茎や、絡み絡まり、どちらがどれともう分けることもできない。死んだ機械と生き続ける草木と土は、複雑にその身を絡み合わせて、生と死の、奇妙な姿を交じり合せて、それは何か、この世界全体の、ぼんやりとした未来のある姿を暗示しているようにも思えた。
そうやって、森の一部になるというやり方もあるのかと、閉じたまぶたの薄闇の中で思う。
それでそれは悪くないと、ハインリヒは目を閉じたままで微笑んだ。
どれほど、そうやって木の根元に坐り込んでいたのか、不意に目の前を覆う影が濃くなり、空気をわずかに揺らす気配が、前髪に届きそうになって、ハインリヒはわずかに首を傾けたままで、やっと目を開く。
目の前に、ジェロニモがいた。
少しだけ様子を伺うような、心配そうな色を、その瞳に見て取って、ハインリヒは慌てて顔を真っ直ぐに戻すと、急いで地面から立ち上がろうとする。
「起こしたなら、悪かった。」
「いや、寝てたわけじゃない。」
自分に合わせて体を起こしたジェロニモに言葉を返しながら、ハインリヒは腰の辺りの土を払って、改めて目の前の大きな体を、斜めに盗み見る。
ほんとうに、大きな樹のようなやつだと、思って、ひとりこっそりと笑った。
「フランソワーズ、待ってる。」
背後の、ギルモア邸の、裏庭の方を指差しながらジェロニモが言った。
午後のお茶に、みなの顔が揃わないと機嫌の悪くなる、ギルモア邸の女主人の顔を思い浮かべて、ハインリヒは今度ははっきりと微笑んだ。
先に、そちらに向かって肩を回しながら、ジェロニモが、ごく当たり前のことだと言うように、ハインリヒに向かって左手を伸ばす。
その手の意味に、ほんのわずかためらった後で、ハインリヒは黙って右手を差し出した。
半歩分、ジェロニモの後ろから歩き出すと、頭上で、鳥が葉を叩いた音が響いた。
見上げて、またジェロニモの背中に視線を戻してから、握られた自分の手を見て、その手で触れていた木肌の感触を思い出してみる。
今自分は、確かに森の一部だと、ハインリヒはそう感じていた。
歩きながら、繋いでいる手に少し力を入れて、大きなジェロニモの背中に向かって、ハインリヒは大きく破顔した。
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