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青く、優しく

 青いけものは、いつもふらりと現れ、ふらりと立ち去ってゆく。
 ジェロニモに対して、もう長いこと説教めいたことも人類に対する警告もなく、まるで、腹を空かせた野良猫が食事を与えてくれる場所をうろつくように、ほんとうにただそうしたいと言う理由だけでジェロニモの元へやって来て、ジェロニモを見上げて、そうして去ってゆく。
 その日もそうだった。青いけものは、そのままするりとすり抜けられる裏口のドアを、わざと前足で引っかいて自分の訪れを知らせ、自分の姿を認めたジェロニモが、知らず唇の端をゆるめたのを見て、自らも合わせた唇の端から牙をわずかに覗かせた。
 普通の動物のようには、いわゆる食べると言うことをしないらしい青いけものに、ジェロニモは水を入れたスープ皿を出して、それがジェロニモ──人間──にできるけものへの歓待のすべてだった。
 一度、ミルクのカートンを出して見せたことがあったけれど、けものは首を振って、ちょっと意地の悪い表情を浮かべてその申し出に応えた。
 けものがいる時は、床に坐り、そうするジェロニモの足に寄り添うけもののなめらかな背をジェロニモは飽きずに撫でて、くるりと腰回りに巻きつけられた長い尾は、けれど触れる時には機嫌をきちんと読まないと低いうなり声が返って来る。
 今日は機嫌が良いようだ。寄り添うどころか、ジェロニモの、床に投げ出した長い足の上へのし掛かるようにして、腿の上へ伸びたその白い喉へ、ジェロニモは思わず手を伸ばす。 
 急所であるはずのそこへ、青いけものはジェロニモが触れるのを許し、挙句、ほんとうに猫のようにごろごろと喉を鳴らし始める始末だった。
 白い喉から胸、腹へ掛けての毛は驚くほど柔らかくなめらかで、外で暮らしているにしては、他の手が掛かっているように毛並みもきれいだ。野生の動物の、いわゆる獣めいた匂い──馬の世話をしているジェロニモにはお馴染みだ──もなく、そのあまりにも清潔な様子が、逆にけものの、尋常ではない、ありうるべからずの身上を示していて、自分が気軽に触れてよいものかと、ジェロニモは喉から胸へ掛けて置いていた自分の掌の動きを、一瞬止めた。
 そうすると、青いけものはますますジェロニモの手に自分の頭を近く寄せて、ごつごつと顎をこすりつけて来る。ジェロニモは、また青いけものを撫で始めた。
 この姿になるのは、外を歩き回る──ここにやって来る──時だけなのか、それとも人間向けの、分かりやすい脅威の姿と言うことなのか。
 そう考えて、それを気安く問える自分の立場ではなく、自分はいわば人間側からの人質のようなものかもと、ふと思ったりもした。
 なるほど、このけものの機嫌を損ねたら、人間たちは即日滅ぼされると言うわけだ。それはまだ困る。むやみにちやほやする気はないけれど、無駄に怒らせる気もない。必要がないなら、青いけものと争う気などかけらもない。
 青いけものに、ほんとうにただの動物と人間──互いに、それは完全なる事実ではない──のように接して、その振りを一緒に楽しんで、ある意味刹那的ではある関係が、けれどひどく穏やかにジェロニモの心の端をなごめてゆく。
 その日はひどく寒く、互いに延々と寄り添って過ごした後、もう物の形も定かではない暗闇の裏庭へ向かってゆく青いけものへ、ジェロニモは思わず声を掛けた。
 「泊まって行ったらどうだ。」
 けものは足を止め、うっそりジェロニモを振り返り、それから裏口のドアを眺め、もう一度ジェロニモを見やった。
 「今夜は冷える。風も強い。明日の朝にしたらどうだ。」
 ごうごうと風が鳴り、木と窓を揺すっている。風も寒さも、青いけものが気にするはずもないと分かっていて、ジェロニモはなぜかそう言わずにはいられなかった。
 青いけものは再びドアへ視線を投げて、風の音に耳を澄ますように背を伸ばした後、そこからくるりと向きを変えて、ジェロニモの足下へやって来て、膝の辺りへ鼻先をこすりつけて来た。
 ではそうしようと言う、それがけものの返事だった。


 ベッドはあるけれど、ジェロニモがそこに寝ることは滅多にない。床に何枚か毛布を敷き、そこで眠るのが長い習慣になっている。
 家具の強度が心配だと言うのが主で、それなら処分してしまっても構わないのだけれどそうもせず、ジェロニモはベッドを横目に見ながら、床に作った寝床に横たわる。
 青いけものはジェロニモの足下へ体を丸め、そこに落ち着くかと思っていたら、立ち上がり、いたとは逆の方の、腰の辺りへやって来て体を伸ばし、重ねた前足の上へ顎を乗せて数分、また起き上がって、今度はジェロニモの肩口へ鼻先を突っ込む仕草をして、体に掛かる毛布を持ち上げようとする。
 ジェロニモは体の位置をずらして、そうしながら毛布を持ち上げて、そこにするりと青いけものがもぐり込んでゆくのを見守った。
 首を伸ばせばすぐにジェロニモの喉元へ噛みつける、そんな近さにけものを寄せて、ジェロニモは枕の上の頭の位置を定めて、毛布の下から引き出した腕の先で、軽くけものに触れる。うなったりはしないと確かめてから、体の向きをけものの方へ変えて、ジェロニモは自分の重い腕を、その毛並みに触れるか触れないかで、けものの体へ回した。
 腹と腹が触れそうな近さに、けものとジェロニモは向き合い、互いの体温は知っているのに、無防備に眠りに落ちる時の筋肉の弛緩具合を知るのは初めてで、けものはジェロニモの上腕の内側に濡れた鼻先をくっつけて、まるでほんものの犬のようにジェロニモの傍らで目を閉じる。
 動物と一緒に寝るのは初めてではないし、傍らに自分ではない何かがいるのも初めてではない。青いけものはどうだろうかと、ジェロニモは闇の中でも見える目で下目に、まだ毛布の中でぱたぱたとふさふさの尾を軽く振っているけものの方を見やった。
 見た目通りにけものの体はあたたかく柔らかく、機械のような手触りは感じられず、今は触れている腕の内側に、鼓動らしいかすかな振動が伝わって来る。体内の構造までジェロニモの想像通りかどうか、心臓があるらしいと思って、ジェロニモは思わず薄く微笑んでいた。
 ──おまえの、あの男はどうしている。
 突然、頭の中で声がした。
 けものの声だと悟るのに一瞬掛かり、ジェロニモは閉じていた目を見開き、声の位置をつい習慣で探ってから、けものが、わたしだとつぶやき足して初めて、まだ目を閉じたままのけものへじっと視線を当てた。
 ──あの、白い男だ、ここで、同じようにおまえと一緒に眠った──
 毛布や枕に、洗った後でも残る匂いをけものが拾ったのかもしれない。ジェロニモはわずかに眉を持ち上げて、けものが、おまえのあの男、と言う言い方をしたのに意識を引かれていた。
 ──おまえと同じ匂いのする、あの男は、今どこにいる。
 ジェロニモにわざわざ訊くこともなく、けものなら知っているはずだった。この世のすべてのことを見通すことにできる、この地球と言う星自身である青いけものに、分からないことなどあるはずもないのに、眠ったような体(てい)のまま、けものはまた同じことを訊いた。
 ──あの男は、元気か。
 「──多分な。どこかを、ヨーロッパのどこかを、トラックで走り回っているだろう。」
 もう雪の時期だ。事故の心配はないだろうかと、急に不安になる。そう言えば、2週間ほど前に電話にメッセージを残して、それきり返事はないままだ。
 忙しいのだろうと、努めて考えまいとしていたことが、けもののせいで胸を塞いで来る。
 元気だろうか、今どうしているだろうと、けものに問われたことをそのまま、ジェロニモは、自分の胸の中であの男に向かって──ハインリヒに向かって訊いていた。
 ──心配か。
 訊かれて、ジェロニモは答えなかった。けれど下目にちらりとけものを見て、それから、闇の虚空に向かって瞳を押し上げた。
 ──一応は死なぬ身で、それでも心配か。
 今はわずかに、腹と腹の間が空いている。毛並みは触れず、ぬくもりだけが伝わってくるけものの体が、声の聞こえるたびにかすかに揺れた。それを、ジェロニモは、黙ってそっと撫でた。
 死ぬ死なないを不安がっているわけではない。死ぬ心配がないからこそ、そのせいであれこれ腹の底に溜まる澱のようなもの、互いに心配するのはそちらの方だ。
 そしてもちろん、ただ会えない、一緒にはいられないと言う、それだけのことがひどく淋しくもある。
 毛の下にごつごつと触れる背骨の凹凸に、ジェロニモは指の腹を合わせて、なめらかではあっても素肌とは違うその感触に、突然胸を締めつけられるような痛みを味わった。
 青いけものは、ジェロニモの腕の下でいっそう体を伸ばし、しなやかに背を反らして、今度こそぴたりと腹を合わせて来る。剥き出しの皮膚に触れる毛並みは確かにあたたかく、ひとよりも高いその体温に、毛布の中は今は息苦しいほどぬくまっていた。
 ──会いたいと、素直に言えばよい、おまえも、あの男も。
 何でもないことのように、威厳あるいつもの姿には似ない放り出すような口調で、青いけものが言った。ジェロニモは何も返事をしなかった。それきり、鼻先を白い胸元埋めるようにして、けものは静かになる。
 ジェロニモはけものの背を撫でる手を止め、その青い頭頂に額を合わせて、自分も眠ろうと目を閉じた。
 口に出すのは簡単でも、事はそれほど簡単ではない。それでも、想うことを言葉にするのはやはり大事なのだろうと、ジェロニモは半ば眠りながら考えている。
 返事を待たずにまた電話をしようと、最後に考えたジェロニモがその夜見た夢の中で、ハインリヒが元気そうに微笑んでいた。


 翌朝、寒さは変わらないけれど風はおさまり、先に起きたジェロニモがきちんと掛けておいた毛布の中で、青いけものは30分ほど余計に眠りを貪った後、再びきれいな水を飲んで、いつものように無言で立ち去ろうとする。
 ジェロニモはその後をついて行き、裏口のドアをけもののために開けてやった。
 「今度は、いつ来る?」
 ドアを抜けて、茶色い地面へ降りたけものに訊くと、けものは振り返り、尾を大きく何度か振る。
 ──あの男が、ここにはいない時に。
 けものの、不思議な赤みを帯びた金色の瞳とジェロニモの瞳が合い、互いに問いと答えの真意を探ろうとして、ジェロニモの方がそこへ先に踏み込んだ。
 「春か、夏の頃か。」
 一瞬、ジェロニモを睨むように視線の力を強くして、けれどけものはそのまま首を回して色の薄い空を仰いだ後、一方の前足で地面を軽く掻く。うなだれるように地面に向かって頭を低くして、そこから斜めに、ジェロニモを見上げて来た。
 ──夏の頃にしよう。
 声の後にはただ空白があり、それ以上ジェロニモに問うことを許さず、けものは体を丸め、一瞬のうちに駆け出して、ひと呼吸後にはもう姿もない。
 青い姿は空の色にどこからか溶け込んだように、目の前の空気が、青みがかった影のような、かすかな揺らめきに似た眩暈を、ジェロニモに残してゆく。
 ジェロニモはそれに向かって目を細め、呼び掛ける名もない青いけものの、まだそこに残る気配を、まどろみめいた間遠な瞬きの間に探っていた。

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