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The Colour of Day

 月に1、2度町へ出る。気分転換だ。今日も買い物の袋を片手に、駐めた自分のトラックへ戻ろうとして、ジェロニモはふと足を止めた。
 申し訳程度の金網で二方を囲ってある、小さな中古車の販売店だった。車の前部分には、小さな文字であれこれと売り文句の書かれた白い紙が置かれ、ローンで買うなら利子がいくらと、そんな数字も見える。
 普通のサイズの車は乗り降りに苦労するので、ジェロニモは普段そんなところには目もくれないのに、今はなぜかそこから目が離せず、前に進まない爪先をもういっそ店の方へ向けさえする。
 視線の先に、青みをひと色刷いた、銀色の車があった。
 海の表面に反射する光の色とでも言えばいいのか、ただの銀色よりは白みが強く、そしてそのせいで青みがかって見える。思わず色の良さに視線を引きつけられたまま、ジェロニモは濃い茶色の瞳を、太陽を見上げる時のように細めた。
 トラックやジープの類いの、実用本位の大型の車には絶対にない色だ。威圧や威嚇の目的もあるせいなのかと、ジェロニモは今から自分が運転するトラックの、あちこち傷だらけの野太い黒のことを思い浮かべる。
 ドアを開けただけで、ジェロニモなら壊してしまいそうなごくごく普通の乗用車で、もちろん買うことなどちらとも考えはしないにせよ、その色だけに引き寄せられて、ジェロニモはまだその車に目を凝らしていた。
 水色を銀色で薄めたようなその色に魅かれる理由に、ジェロニモはもちろん思い至っていて、けれどまだ車にだけ気を引かれている振りで、足を止めたまま、いっそ敷地へ入って目の前に車を眺めようかと考えた。
 興味があるのは車自体ではなく、その色そのものだ。その色が思い出させる何かに、ジェロニモはようやく自分が、そっとドアでも叩くように気づくことを許して、口元に淡く微笑みを浮かべた。
 彼の普段乗っている車のことはよく知らない。けれど大型の、輸送用トラックを運転する彼も、きっとこんな色の車には魅かれたりはしないだろう。ジェロニモと同じに機能や使い勝手を最優先する彼は、それでも今ジェロニモがそうであるように、色や形だけに魅かれて、何かを熱っぽく見つめると言うことがあるのだろうか。
 彼の、普段乗っている車はどんなのだろうかと、ジェロニモは考えた。
 色は多分、目立たない黒や濃い青。二人乗りは面倒がるだろうか、あるいはその方が気楽と考えるだろうか、あまり大きな荷物を持ち歩くタイプにも思えないから、後部座席のドアの有無にはこだわらないかもしれない。ステーションワゴンは、便利だけれど燃費が悪いと敬遠しそうだ。フランソワーズとは、絶対に車の好みは合わないだろうと、根拠もなく思いつく。
 車をぴかぴかに保つことにそれほど情熱は注がないけれど、ひどく汚れたままにしておくとは思えない。洗う時には徹底的に、外も中も、タイヤの裏側も、きっとトランクの中も、警察が調べても埃ひとつ見つけられないくらいにきれいにするのだろう。
 翌日に降る雨に、ひとり舌を打つ彼の表情まで想像してから、ジェロニモはやっと爪先を、自分のトラックのある駐車場の方へ再び向けた。
 歩いていれば、周囲が勝手によけてくれる歩道の、できるだけ端を邪魔にはならないように歩きながら、ジェロニモはまだ目の前に、あの水色のような銀色を見ている。彼の──ハインリヒの、瞳の色とよく似ているあの色が、目の前から消えない。覗き込めば小さく映る自分の姿が見える、ハインリヒのあの色の淡い瞳だ。
 あんな車に乗ったら、四六時中ハインリヒのことを考える羽目になる。今だって、何かあれば彼のことばかり考えていると言うのに、あんな色の車を身近に置いてしまったら、言い訳を考えることさえせずに車の中に1日中いそうだ。
 それから、ジェロニモは突然悟った。
 あの車の色はただの口実だ。自分は、いつだってハインリヒのことを思い出して考えたがっている。考えることが表面化することを自分に許すために、世界のあちこちに理由を探しているだけだ。空の色でも海の音でも路地にたむろう猫でも通りすがりの犬でもどこかの髪の長い──しかもブルネットの──女の後姿でも背の高い男が優雅に足を運ぶ様でも、あるいはガソリンの匂いでも、何でもいい、ハインリヒのことを思い出しているのだと、はっきり自分が自覚できる理由になるなら、何でも良いのだ。
 ジェロニモにとってはもう、世界そのものがハインリヒであるように、たとえ一緒にはいなくても、海と大陸を隔てていても、空気の中にもうハインリヒの気配が在る。彼が、この世界のどこかで息をして、歩いて、多分誰かと笑い合ってもいるだろう。そうだと思い込めるだけで充分だった。
 そうして、それだけで足りなくなれば、一体今はどうしているだろうかと考え始める。今はどこにいて何をしているだろう。誰といるだろう。自分には見せない表情(かお)で笑っているだろうか。あるいは、自分だけにしか見せない顔は隠して、何気ない日々を過ごしているのか。
 会えなくてもいい、大丈夫だと思うのは強がりだ。その強がりがなければ、こんな風に過ごしてなどいられない。それでも、一緒に過ごせる時間が限られていると分かっているから、強がりを必死で手元に引きつけて、こっそりと次に会えるまでの時間をA、あてもなく数え続けている。
 この次会えるのは、一体いつだろうか。その時は、一体どれほど一緒に過ごせるのだろう。何年かの間の、数日、数週間、数ヶ月。一緒にする食事の回数と、同じベッドで過ごす夜の数と、そして、あの鉛色の右手に触れる回数。目の高さに持ち上げれば、自分の顔が映るようにも思える、あの手。
 こうやってとめどもなく、ハインリヒのことだけを考えて1日が過ぎてゆく。それは困る。だからジェロニモは、無理矢理にハインリヒの面影を遠ざけて、歩きながらゆっくりと瞬きをした。
 週末にもし天気が良ければ、トラックをきれいにしよう。荷台も何もかも、泡だらけにして洗ってしまおうと思う。タイヤの溝までぴかぴかにして、洗い流す水でもついでのように浴びれば、きっと頭も冷えるだろう。
 そうしてまた、思い浮かべる水の冷たさが、ハインリヒの右腕の冷たさに繋がってゆく。
 もういい、とジェロニモは思った。今日はどうせ休みだ。1日中ハインリヒのことを考えていたところで、何か不都合があるわけでもない。せめてこんな日くらい、気兼ねなくいとしい人のことを、思う存分考えていたかった。
 自分のトラックを視界の中に入れて、家に着いたら淹れるのは紅茶だと心に決める。青みがかった銀色で、視界を塗り潰しながら、ジェロニモはもう一度ゆっくりと瞬きをした。
 遠いところで、彼の笑う声が聞こえたような気がした。

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