Different World
別に、急かすつもりはなかった。
ただ、汚れたマグカップを洗うなら、皆が寝静まってしまう前に、水を使い終わってしまった方がいいだろうと、そう思っただけだった。
ひとり掛けのソファに体を沈めて、他には視線を向けもせずに、ぶ厚い本を膝に置いて、ひとりの世界に閉じこもってしまっているハインリヒの傍らから、空になったマグを取り上げて、もう1杯どうだと、声を掛けようかどうか、迷った一瞬のことだった。
「・・・そろそろ、部屋に戻った方がいいか。」
やっと本から顔を上げ、どこか、照れたような笑みを浮かべて、ハインリヒが、問いともひとり言ともつかない声音で、ぼそりとつぶやく。
ジェロニモは、その笑みに視線を奪われて、それをごまかすために、取り上げたマグに目を移した。
「まだ、大丈夫だろう。」
そんなつもりではなかったのだと、声に含ませて、穏やかに返す。
「いや、もう遅い。」
まるで、誰かが、部屋へ追いやるために背中を押してくれるのを待っていたように、ハインリヒは読んでいた本に、手早くしおりをはさんで、ぱたんと表紙を閉じる。
それから、ジェロニモを見上げて、字を読む時にだけかける、銀の、縁の細い眼鏡に、右手を伸ばす。
すっと眉を上げて、ジェロニモは、その手の動きに目を奪われた。
眼鏡の縁よりも、色の濃い、無骨な鉛色の指先は、ほんものの指よりもなめらかに動いて、耳にかかったつるが、滑るように髪の奥で浮く。
思わず、それに向かって、手を伸ばしていた。
眼鏡に掛かった手を止められて、ハインリヒが、怪訝そうに水色の瞳を押し上げる。
ジェロニモは、取り上げて、抱えていたマグを、また元の位置に戻すと、まだソファに腰かけたままのハインリヒの足元に、ゆっくりと膝を折った。
ハインリヒが、ひとりの世界に閉じこもるための、小さな道具。本を開き、その透き通った丸い仕切りで、世界と己れとを分ける。
孤独だからこそ、肩を寄せ合い、そうできる仲間がいるからこそ、つくられた孤独の中に、自分を封じ込める。
そのための、小さな儀式。
ジェロニモは、ハインリヒの髪と同じほど細い銀の縁に、そっと自分の指を乗せた。
大きな指先で触れれば、ぽっきりと折れるか、ぐにゃりと曲がってしまいそうに思えて、まるで生まれたての、獣の子に触れるように、ハインリヒの眼鏡を、そっと手前に引いた。
腕の長さの分の距離を置いて、レンズ越しに、見つめ合っていた。
ハインリヒの瞳は、いっそう色を淡くしているように見えて、目元だけを覆う2枚の、その透き通った仕切りは、その小ささと存在感の薄さにも関わらず、今は確実に、ジェロニモとハインリヒを隔てていた。
ジェロニモの意図を悟って、眼鏡の縁から指を外し、本の上に両手を置いたハインリヒは、顔を動かさずに、ジェロニモが先へ進むのを、黙って待っている。
触れ合う時、互いの膚の色の違いは、いっそう際立って、今も、ハインリヒにかすかに触れながら、ジェロニモの掌は、いっそう赤みを増す。溶け交じることのないそのふたつの色は、けれど重なり合えば、同じ色の熱を生む。
今、指先が、熱いような気がした。
ようやく、その熱い指先を動かして、わずかに頭を下げたハインリヒの耳の上から、眼鏡のつるを持ち上げる。
髪が揺れ、軽く顔を振って、目を閉じたハインリヒの目元から、まるで引き剥がすように、眼鏡を滑り取ると、ハインリヒの瞳や、目元や、眉や、こめかみの辺りの輪郭が、レンズの動きにつれて、歪んで、ねじれて、曲がる。
まるで、見知らぬ人のように、一瞬の後には形を変えるハインリヒの、レンズ越しの顔を眺めて、ジェロニモは、指先に取った眼鏡を手元に下ろして、ようやく、いつものハインリヒをそこに見つけて、聞こえないように、安堵の息をこぼす。
かちりと、小さな音を立ててつるを折り、ジェロニモが、たたんだ眼鏡をハインリヒに差し出そうとするよりも早く、ハインリヒはもう、椅子から立ち上がっていた。
銀縁の眼鏡を掌に乗せて、ジェロニモは、今は何の隔てもないハインリヒの目元に、じっと目を凝らした。
熱さを分け合う時には、隔てはない方がいい。
服を脱いで、明かりのない部屋の中で、一緒にシーツにくるまって、手足を絡め合いながら、同じ色の熱を、色の違う皮膚の上に重ね合う。
できるなら、人工の皮膚を剥ぎ、その下のぶ厚い装甲を取り去って、自分では滅多と見ることのない、ぜんまい仕掛けの内側の、歯車や色とりどりのコードや、そんなものもすべて、繋ぎ合わせてしまえばいいのだと、思うことがある。
熱に溶ける鋼鉄の部品は、そうなってしまえば、接ぎ目もわからず、どこからが何だったのか、原型もとどめず、ただの鉛色の塊になり果ててしまう。
それくらい、熱くなって、溶け合ってしまえればと、口にはせずに、ひとりで思う。
ハインリヒの熱の中に、深く深く押し入って行きながら、そこで、人の形を失うことを厭いもせず、溶けて、文字通りハインリヒと、ひとつになってしまえたらと、心の奥底深くで、ジェロニモはひとり思う。
人として在ることを、生まれながらに否定され、その血を絶やすことを、暴力の元に求められ、滅びることのない体を与えられたジェロニモは、けれどその血を残すことも、未来に繋ぐこともできない皮肉に、時折深くうなだれる。
誇りを失うと同時に、その数さえも、今は定かではなくなってしまったジェロニモの兄弟たちは、絶えてゆく血を自分たちの後ろに眺めて、背中を丸め、足元ばかりを見つめて、雑踏の中にまぎれてしまうことを、余儀なくされた。
生まれながらにして与えられた、膚の色と、精霊たちと語り合える心のために、誇り高く命を断つのか、卑屈に生き延びるのか。どちらを選んだ兄弟たちの誰をも、ジェロニモは責めることもできず、今はひとですらない体で、ひとり在ることだけが、これからもずっと続いてゆく。
ハインリヒの、白い体を抱きしめて、何もかもをさらけ出していながら、皮膚に隔てられて、溶け合えないことと、その皮膚の色が違うということは、ジェロニモの中で、どこか深く結びついていた。
同じ部屋で、同じように裸になって、同じ熱を分け合っても、互いの在る世界には、決して手が届かない。
ジェロニモは、白い人間ではなく、ハインリヒは、ジェロニモの兄弟ではなかったから。
だからこそ、魅かれ合ったのだと、わかっている。
ハインリヒの、開いた唇が、ジェロニモの名を呼んだ。
求めるように、そこで動く舌に、誘われたように、ジェロニモは、そこに唇を重ねて行った。
触れ合えるすべてで触れ合って、隔てもなく、躯の奥底をこすり合わせて、けれどふたりは、別々のふたりでしかなく、ジェロニモは、ハインリヒが求める孤独が、決して孤独などではない人間が許される、ひどく贅沢なものなのだと理解しながら、彼のその傲慢さが、ちりちりと胸を刺すよりもなお、彼を愛しいと思う。
愛しさと、自分を呼ぶ声に誘われて、たとえひとときのまぼろしではあっても、躯と繋げることで得られる、ひとりではないのだという、皮膚の上の感覚を、ジェロニモは手元に手繰り寄せた。
その腕の中にあるのは、白い膚の、鋼鉄の男。
真には孤独ではないからこそ、孤独を求める彼のために、孤独すらその胸の中には存在しないジェロニモは、空っぽの腕を、彼を抱きしめるために捧げた。
ハインリヒが眠ってしまったことを確かめて、ジェロニモは、ベッドの傍の小さな明かりをつけた。
ここまで自分が持って来て、ベッドの傍に置いた、ハインリヒの銀縁の眼鏡を、音をさせずに取り上げて、両手の中で眺め下ろす。
折れていたつるを元に戻し、ゆっくりと、眼鏡を自分の目に近づける。奇妙な形の楕円に、世界が切り取られて、目の前で少し歪む。水の膜を通したように、すべてがぼやけてしまう視界に、目を細めて見入って、自分には縁のない世界だと、思う。
レンズのこちら側は、ハインリヒの世界だ。ハインリヒが、孤独になるために必要な、その丸く小さく切り取られた、矯正された視界。
ジェロニモには、決して必要のないものだ。
自分と彼とを隔てる、その小さな弱々しい道具を、掌の中に握りつぶしてしまうことはたやすい。そのたやすさは、けれど、ふたりの間に横たわる、深い溝のその暗さを示してもいる。
ひとつ、小さくため息をこぼして、心の底から、彼を愛しいと思いながら、ジェロニモは、たわむれに覗き込んだ銀縁のそれを、ゆっくりと目の前から下ろした。それから、眠る彼を肩越しに振り返って、今は何の隔てもなく、その寝顔に向かって、うっすらと微笑んだ。
* 2004年6月、イベントにて無料配布 *
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