Don't Leave Me Now
どんなにそっと動いても、大きな体を起こして、足を床に下ろせば、ベッドが揺れる。きしんで、音を立てて、坐っている側のベッドの端が、どんなに気を使っても、ひどく沈み込む。
眠りが浅く、隣りで、寝返りを打たれるだけで、目を覚ましてしまうハインリヒを気遣って、こんな時間だと言うのに、あのまま、寝入ってしまいたかったに違いないのに、身支度を整えて、自分の部屋に戻ろうとしている、巨岩のような背中を、闇の中に見ている。
濃い闇より、幾重か薄い赤銅色の、傷だらけの背中が、きしむベッドよりもそっと動いて、床からシャツを取り上げる。空気を揺らさないように、広げたシャツを肩から背中に滑らせて、宙に伸ばした腕が、シャツの袖に音もなく通ってゆく。それにつれ、覆われ、隠れてゆく背中の傷痕に、じっと目を凝らす。
もう一方の腕に、袖が通ってしまいそうになる、一瞬前、ハインリヒは、ベッドから飛び起きて、かぶさってくるシャツの下に、伸ばした腕を滑り込ませ、大きな背中を、後ろから抱いた。
まるで、引き止めるような仕草になって、そうしてそれは、確かに、身支度を整える動きを、その場で止めた。
裸の胸---半分は、鉛色の装甲が剥き出しのままだ---を、まるで傷痕にこすりつけるようにその背に重ねて、やっと届く肩の辺りに、額をすりつける。
片袖だけ通った、肩からシャツの半分を垂らした格好で、大きな背中は、まだ動かない。
そんな必要もなさそうに思えたけれど、思うよりも先に、胸の前に両腕を回して、しっかりと抱きしめた。
まだ、行くな。言葉には、まだ出せなかった。
現実的に、ベッドは、ふたりには狭すぎたし、下手な小型ミサイル程度なら、傷もつかない装甲のふたりの体は、並んで眠るには重すぎる。そしてハインリヒは、ひとりで寝てさえ、眠りが浅い。
だから、ここで夜を越すことはしない。終われば、交じり合わせた汗が引いた頃を見計らって、黙ったまま、静かに部屋を出てゆく。
極めて現実的な、態度と対処だった。
そうして、それが相応しい、ふたりの関係だった。
今夜はここにいて
魔法をかけて
今夜は行ってしまわないで
ただ、わたしを憶えていて
聞いた時に、女の匂いがしなかったのは、体全体を直撃するような、力強い声のせいだったのかもしれない。
男くさいと、あえて言うほどのこともない、けれど太い、艶のある声が、ささやきを、けれど叫んでいた。
歌詞を聞き取って、思わず、音のする方へ、大きな仕草で振り向いてしまった。
とらわれて、虜になっている
こんなことは前にもあった
ためらわないで
自制を失って
もうとっくに午前3時を過ぎている
手立てをこうじなければ
手遅れになってしまう前に
あなたが始めてしまったのだから
わたしたちは、崖っぷち
今は行ってしまわないで
それらしいことを、口にしたことはない。しがみついた腕を、振り払われなかった。今もまだ、振り払わない。だから、続いている。それだけのことだと、何度も胸の中でひとりごちた。
拒まれないと、どこかで確信があった。小さな花に微笑みかけずにはいられず、薄汚れた捨て猫に手を伸ばさずにはいられない、あの優しさにつけ込んだのだと、正直に言ってしまえば、それだけのことだった。
必死さだけを、あからさまにすれば、後はあちらが読み取ってくれるだろうと、そうずるく考えた。
誰でも良かったのだと、そう態度に表しているつもりでいて、けれどそれは、決して本音ではない。
受け止めてくれる腕だと、そう確信するまでの時間の長さを、知っているのは、ハインリヒだけだったから。
そうしたかったから。そうなりたかったから。それを求めていたのは、明確にハインリヒだった。そうして、それを黙ってかなえてくれた、大きな背中だった。
今夜も、他の夜と変わらないはずだった
あなたのささやきは、まるで恋人のそれ
始めてしまったのはあなた
もう後はない
今は、行ってしまわないで
求めることと、与えること。
まるで、己れの役割をきちんと果たしているだけだとでも言うように、はっきりとした言葉はなく、ただ、互いに対する気遣いだけは、常にさり気なく在って、抱き合いながら、そこに欲望の匂いは、決してなかった。
当たり前ではないことだったけれど、誰かが欲しいという欲求は、ごく当たり前のことのように思えた。
そしてそれは、おそらく、当たり前のことだったに、違いなかった。
抱き合って、満たして、満たし合って、行き着けるところは奪われていても、そこへ至る過程は残されている。ひとりの時とは違うその道筋を、手足を絡めて、胸を重ね合って、黙ったまま、辿ってゆく。
辿り着けないのだと、わかりきっていて、それでも、そうせずにはいられない。そうしたいと、そうしてみたいと、そう思う気持ちだけは、残されている。中途半端に機能する、機械の体をこすり合わせて、その反応に、人の名残りを見つけて、醜悪さに吐き気を覚えながら、それでも、そうせずにはいられない。
自分を見下ろす、静かな瞳に、吸い込まれそうになりながら、その弱さを否定するために、そして同時に、その弱さゆえに、顔を背けて、視線を外す。
辿り着けない体を置き去りにして、心だけ、そこへ至ってしまうのが、おそろしかった。
機械を抱えた躯を重ねながら、決して重ならない---と、思われる---心を、持て余すのがこわかった。
だから、抱き合うのは、欲望ですらない、ただの欲求だと、無言の中に、示したつもりでいた。
新たな始まりが見える
どこへ行くのかはわからない
わたしを離さないで
わたしを置いていかないで
今は行ってしまわないで
自分のことだと思ったのは、どうしてだっただろう。
声の力強さとは裏腹の、まるで床に身を投げ出すような、弱さを剥き出しにした言葉の連なりが、胸に突き刺さってきた。
去ってゆく背中が見えて、思わず、幻の中で、それに向かって腕を伸ばした。
行かないでくれ。
初めて、胸の内で、そう叫んでいた。
胸の前に回った腕に、大きな掌が重なった。
どこも、いつも暖かな体から、ぬくもりが伝わってくる。
同じように汗を吹き出した後で、冷えた体は、けれどハインリヒの方が冷たい。
肩越しに、首を小さく回した気配に、背中の筋肉がうねった。
どうした。
そう訊いているのだと、わかっていたけれど、答えないまま、またゆるく額をすりつけた。
勇気が必要だったけれど、それは、今はまだ、どこにも見当たらなかった。
頭の中にずっと流れている音を、また繰り返しながら、自分の気持ちにはっきりと気づいてしまうことが、まだできずにいる。
今夜はここにいて
魔法をかけて
今夜は行ってしまわないで
ただ、わたしのことを、憶えていて
お願いだから、今夜はいて
今は、わたしを置いていってしまわないで
聞こえないように、口ずさんでいた。
自分の言葉では、まだなかった。
間近にある、背中の傷跡に、唇をこすりつけた。
掌が腕を撫で、それから、そっと肩に力が入って、腕をほどきにかかった。
素直に、寄りかかっていた背中から胸を浮かせると、大きな背中が目の前で揺れて、肩に乗っていたシャツが、腕を滑り落ちて、床へ向かって、視界から消えた。
体をねじって振り向くと、ハインリヒの左手を取って、頬へ引き寄せる。乾いた唇が指の腹をこすって、すっと目が細められた。
「冷たい・・・。」
言葉の足りなさは、お互いさまだと、思えた。
たとえ、あちらのそれが、言葉ではなく伝える術を知っているゆえで、ハインリヒのそれが、単なる臆病者の卑怯さ加減ゆえだとしても。
見た目だけは、少なくとも、同じように見える。
冷えてしまった体を、また引き寄せられ、手足が絡む。
大きな胸の下に敷き込まれながら、ふと思いついて、下から、真っ直ぐ見上げた。
視線をそらすなと、自分に言い聞かせながら、茶色の瞳がゆっくりと瞬くのを眺めて、ハインリヒはうっすらと微笑んだ。
ここにいてくれ。
首に両腕を巻きつけて、耳の傍で、息をもらした。
行かないでくれ。
今は、躯に、存分に語らせながら、しっかりと引き結んだ唇を、柔らかく重ねてゆく。
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