All Dressed Up For San Francisco



 ハインリヒの掌より、少し大きいくらいのそのカードは、抽象画のような、厚くぽってりと色の塗られた絵が表にあり、開いた中には、小さな字が、きれいに並んでいた。
 あの大きな、指の太い手には、おそらくそんな筆記用具でなければそぐわないだろうと思われる、濃い青の、万年筆のインクだった。
 それでも、字の小ささが意外で、几帳面な、丁寧な字は、字を書き慣れた人間---と思って、笑う---のものではないけれど、ジェロニモらしい字だった。
 接け替えた腕が痛むので、暖かいところで少し休養したい、そちらへ行ってもかまわないかと、そう尋いた手紙への返事だった。
 来るなら、いつでも来ればいい。今、馬の世話で忙しい。街からはかなり遠いので、車の免許は忘れずに。何もないところだから、本は持参のこと。
 そんなことが、素っ気ないほど簡潔に、けれど、彼の、人柄の暖かさのにじむ字で、記してあった。
 住所がひとつ、それから電話番号が、ふたつ。自宅と、牧場と、付け加えてある。
 また会えるのかと、そう思った。
 今度は、彼のいるところで、おそらく、ふたりきりで。
 他の仲間は、誰のいないのだと、そう思って、そのことに、ほんの少しだけ、心がざわめいた。
 自分のことを、隠す必要のない相手と一緒にいられることを、心底ありがたいと思う。
 腕も、足も、この体も、生身の人間は異なる姿を、必死に隠す必要のない相手なのだと、そう思うだけで、いきなり、心のどこかが軽くなる。
 細々としたことを決めるための、返事を書くために、ハインリヒは、後ろを振り返って、ペンを探した。


 遠去かっていた時間が、甦る。
 逆光の中で見た、大きな、厚い体。浅黒い膚の、その体は、そこでさらに黒々と、視界を覆った。
 ハインリヒとは違う、守るための、からだ。
 いつも腕の中に、イワンを抱き、フランソワーズを護り、ギルモア博士を抱え、常に誰か、守る力の足りない誰かを、その胸の中に抱き込んでいる。
 傷ついた仲間を抱えて、運ぶ。自分にも、手を貸してくれた。
 自ら攻撃することは、滅多となくても、常に、誰かの盾になるために、身構えている。
 守るための、からだ。
 最初から、そうつくられたのか、それとも、それを、彼自身が選んだのか。
 後者なのだろう、おそらく、とハインリヒは思った。
 戦うために、つくられたからだ。けれど、彼は、常に闘いそのものからは、1歩引いて、戦いそのものを、少しだけ悲しげに、見つめる。
 戦いながら、ハインリヒは、いつもその視線を、背中に感じていた。
 憐れみでは、ない。
 最前線で、闘うことを強いられ、けれど実のところ、心の底で、それを楽しんでいるハインリヒを、憐れんだ視線ではなく、戦いそのものの哀しさと虚しさへの、それを理解しながら、その中へ身を置くことを強制---そして、されたからこそ、楽しまずには、自己を正当化できない---されたハインリヒへの、わかっているから、という、視線。
 そして、違う形に、けれど闘うためにつくられたからだを持ちながら、一方は、自らを武器にして、一方は、自らを盾にして、それぞれの立場を、戦いの中に築いている。
 ハインリヒは、武器を積み込んだからだを、選んだわけではない。そのからだを使って、攻撃と破壊を担うことを強いられた。そして今は、その役割を、自己嫌悪なく、こなすことができる。
 そうでなければ、どうやって、正気を保てたろう。
 破壊を楽しんでいるのだとは、口が裂けても言わない。言えない。けれど、楽しみながら、楽しむことを強制している自分自身が、どこかにいることを、ハインリヒは、知っている。
 自分が、虫一匹殺せなかった人間---生身の---だったと、他の誰も信じないなら、それでいい。
 今は、戦う機械として、破壊のための機械として、自分の役目を楽しんでいるのだと、周りに信じ込ませることができるほど、そして、自分自身が、それを信じそうになるほど、振りがうまくなっている。
 そのハインリヒの背中を、ジェロニモはいつも、あの、深い優しさと悲しみに満ちた瞳で、見つめている。
 盾になることで、剣になることを避け、正面で、闘わずにいられるのは、誰かが、その剣を取り、その手を血に染めているからなのだと、わかっている。
 ハインリヒの手は、血に汚れている。その後ろで、ハインリヒの背中を守るジェロニモの手も、血にまみれている。
 それを、ジェロニモは、理解している。
 ハインリヒを見つめるその瞳に、少なくとも、その血を、直接浴びることがないことを感謝する色が、常に浮かんでいるのを、ハインリヒは知っている。
 ジェロニモを、卑怯だと、思う気持ちはなかった。
 ジェロニモが、後ろを守っているからこそ、思う存分闘える。壊れることさえ厭わずに、戦うことができる。
 武器を詰め込んだ、この重い体を、その重さも、危険さもかまわずに抱き上げられるのは、あの、太い腕だけだったから。
 破壊のためのからだ、防御のためのからだ。
 互いの存在と、その役割に、言葉にはせず、敬意を払う。どちらも、互いを支え合うために、必要な存在なのだと、言わずに、わかり合っている。
 血を浴びたその手を、互いに伸ばし合い、握りしめる。
 血を流すことは本意ではなく、けれど、そうつくられて、出逢ってしまったふたりだったから。


 彼のいるところは、どんなところだろうかと、思った。
 あの静かな男が、静かに住むところは、どんな場所だろうかと、思った。
 騒がしい街中でないことだけは確かだろうと、そう思って、笑いをもらした。
 アメリカの南なら、雪はないのだろう。どのくらい、暖かいのだろうかと、そんなことを考えながら、もう、荷物のことを考え始めている。
 ペンを取り、便箋を見下ろして、ふと、時計を見た。
 素早く時差の計算をして、数瞬、悩んだふりをした後、心を決めた。
 ジェロニモからのカードを、また開き、最後に記された電話番号に、視線を走らせる。
 ギルモア邸を去って以来、あの声を聞いていないのだと、気づく。そんなことは、今まで気にしたことすらないのに、どうしてか、心の深くに、ちくりと刺さる。
 また、呼吸を数えながら、カードの字に、目を凝らした。
 とくんと鳴る、人工心臓の音を数えて、受話器を取り上げる。ゆっくりと番号を、確かめながら押して、それから、耳に伝わる沈黙に、目を閉じた。
 受話器の向うの闇に、まぶたの裏の薄闇が、重なる。
 ぷつんと、音がして、海と大陸を越えて、繋がる音が始まる。
 耳の奥で、あの、深い低い声が、響いていた。


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