森の中で
2) 山犬さんのジェロニモ
ブルーベリーの繁みを空にして、ハインリヒは、なにごともなかったような顔で村へ帰り、いつもと同じに、自分の穴へ戻って、その夜も、ひとりで眠りました。
けれど、その夜、眠りに落ちながら、ハインリヒは、ずっと、森でであった、山犬のジェロニモのことを考えていました。
山犬さんのジェロニモも、いまごろ、ひとりでねてるのかな。
鼻をぴすぴす鳴らして、草をしいたベッドの上で、ハインリヒは体を丸めます。
ひゅうっと、少し冷たい風が、穴の入り口から入り込んできました。
秋の夜は、少しずつ寒くなってゆきます。
ハインリヒは、もう一度、鼻をぴすぴす鳴らして、肩をぶるぶるっと震わせました。
左耳を、しっかりと胸の前にかけて、右耳を、きちんと肩にかけて、それから、その水色の目を、眠るためにつぶります。
山犬さんのジェロニモは、寒くないのかな。
大きな体と、ふさふさとした、茶色い毛を思い出しました。
あの毛なら、どんな夜もあたたかそうです。
くしゅんと、小さくくしゃみをしてから、ハインリヒは、あの茶色い毛に、顔を埋めたくなりました。
きっと、あたたかいんだろうな。
もっと、小さく体を丸めて、ハインリヒはその夜、ジェロニモの茶色い毛に包まれて眠った夢を見ました。
翌日、ハインリヒは、村の、森とは反対のはしへ行って、薬草をたくさん摘みました。
それをかごに入れ、また、森の中へ入ってゆきます。
今日もまた、もちろんブルーベリーを摘まなければなりませんが、山犬のジェロニモに会うためでした。
きっと、昨日つけた薬草は、すっかりかわいてしまっているだろうから、今日はもっとたくさん、腕につけてあげよう。
きっと、おなかがすいているだろうから、もっとたくさん、たべものを持っていってあげよう。
そんなことを考えながら、てくてくと、ひとりて森の中を歩いてゆきます。
村の誰も、ここまではやってきませんが、コズミさんが、少し怖い顔で言うように、この森を抜けて、もっとどんどん先へ行ったところに、おそろしいいきものがいるなんて、とても信じられないなと、ハインリヒは、ちょっとだけ思います。
歩きながら、森の入り口で拾われた、自分のことを考えました。
自分は、一体どこから来たのだろう。
山犬さんのジェロニモがやってきたのと、同じ方向からだろうか。
山犬さんのジェロニモに聞いたら、自分と同じような姿のうさぎのことを、知っているだろうか。
この森を抜けて、どんどん行ったら、もしかすると、家族が、どこかにいるのだろうか。
家族を見つけたら、もしかしてもう、ひとりの穴で、ひとりで眠らなくてすむのかなと、ハインリヒは思いました。
そんなことを考えたのは、生まれて初めてだったので、歩きながら少し驚いて、思わず空をふり仰ぎます。
空は高くて、青くて、透き通るような、その淡い色が、ハインリヒの瞳の色に、そっくりでした。
太陽が、真っ白く、高く上がっています。
まぶしいなと、目の上に手をかざした時、ぱたぱたと、羽の音が聞こえました。
「ジェット!」
友だちの、羽ばたきの音を、聞き違えるはずがありません。
ハインリヒは、大きく笑って、音のする方へ、ぴくんと大きな耳を立てました。
ぱたぱたと、ジェットは、ハインリヒの後ろからやってきました。
「よう、また、ブルーベリー摘みか?」
言いながら、いつものように、ハインリヒの、頭の上に止まります。
「うん、それから、山犬さんのジェロニモに、薬草を持ってゆくんだ。」
ジェットがまた、頭の上で、黙り込んでしまいました。
「おまえ・・・山犬がなんだか、知ってて会いに行くのか?」
ハインリヒは、ジェットの言っていることがよくわからず、思わず足を止めて、上目に、頭上のジェットを見上げました。
ジェットは、ハインリヒの頭上から離れ、やれやれとでも言うように、首を振りながら、ハインリヒの足元に降りてきます。
自分を見上げるジェットのために、ハインリヒは、そこにゆっくりと腰を下ろしました。
「山犬って、茶色で、大きくて、なんだか淋しそうで、ジェロニモっていう名前じゃないの?」
ジェットが、赤い羽を伸ばして、羽の先を、小さな額に当て、まるで、頭痛がするとでもいうように、軽く頭を振ります。
ちちちと、小さな舌打ちが聞こえました。
「茶色で、大きくて、おまえみたいなうさぎを食っちまうのが、山犬なんだぜ。」
ハインリヒを見上げて、見たことのないほど、真剣な表情で、ジェットが、重々しく言いました。
ハインリヒは、目を細め、あごを引いて、まだ、よくわからなくて、ジェットを見返しました。
「くうって?」
「おまえ、ブルーベリーを食うだろ? オレは青虫を食うだろ? 同じことだよ、あいつは、おまえを、食うんだ。」
ハインリヒは、きょとんとしてしまいました。
昨日、ブルーベリーを、一粒一粒食べていた、ジェロニモの口の動きを思い出しながら、その口の中に、自分がいるところを想像しようとしても、どうしても、うまく行きません。
くうって、かんで、のみこむの?
自分が、ブルーベリーを噛んでいる時のことを思い出して、自分がそうなったところを、想像してみました。それでもまだ、よくわかりません。
「山犬さんのジェロニモは、ボクをくうの?」
「オレだって、食われちまう!」
ジェットが、叫ぶように言ってから、丸い肩をぶるりと震わせました。
「・・・もっとも、オレみたいなちびよりは、うさぎのおまえの方が、いいんだろうけど。」
上目にハインリヒを見て、ジェットが、ぼそりと言いました。
「だから、おまえは、山犬のところに、わざわざエサになりに、でかけてゆくところってわけだ。」
ジェットが、震える声で、それでも重々しく、でもほんの少し茶化した口調で、ゆっくりと言いました。
空を飛んで、森の外へゆけるジェットは、ハインリヒよりも、もっとたくさんのことを知っています。だからきっと、ジェットの言っていることは、ほんとうのことなのだろうと、ハインリヒは思いました。
それがほんとうのことだと思っても、くうというのが、ハインリヒには、まだよくわかりません。
ぼんやりとしたままのハインリヒの前で、ジェットが、焦れたように、長いくちばしで、地面をつつき始めました。
「山犬さんのジェロニモは、でも、ブルーベリーが大好きだったみたいだけど。」
自分をくうと、どんな味がするんだろうかと、思いながら、そう言ってみました。
ジェットは顔を上げ、また、やれやれと言うように首を振ると、ぴょんと飛び上がって、ぱたぱたとハインリヒの頭の上に止まります。
「ブルーベリー摘みなら、つきあってやるよ。だけど山犬のとこに行くのなんか、ごめんだからな。」
苦々しげにそう行って、ジェットは、目の前に伸びた森の中の道を、赤い羽根の先で、指し示しました。
また別の、今度はもっと大きなブルーベリーの繁みを見つけ、ハインリヒは、一生懸命青紫の実を摘みました。
摘み終わると、ジェットは、あばよと、どこへともなく飛び立ってしまい、ハインリヒはまた、てくてくと、昨日ジェロニモのいた木の根元に向かって、ひとりで歩いてゆきました。
ジェロニモは、昨日とまったく変わらない姿で、木によりかかって、昨日よりもっと、淋しそうに見えました。
「こんにちわ。」
ジェロニモは、ハインリヒの姿を認めると、濃い茶色の目を少し見開いて、びっくりしたような顔を見せました。
その瞳を見て、村のうさぎのとも、ジェットのとも、色も大きさも違うそれを、きれいだなと、ハインリヒは思いました。
何も言わないジェロニモに、ハインリヒは、遠慮もなく近づくと、昨日薬草を乗せた腕を取り上げます。大きな腕は、ハインリヒが両手で抱えて、やっと持ち上げられるほど重くて、ハインリヒは、少しだけ息を止めました。
そこに乗ったままの薬草は、今はみどり色のぺらぺらと薄い、大きな一枚の葉っぱのようにかわいて、前歯を使ってはがすと、ぺりりと音を立てて、ジェロニモの茶色い毛から、浮き上がります。
そこに現れた傷は、もう血も止まっていて、けれど、大きな線でえぐれた腕は、とても痛そうに見えました。
ジェロニモは、まだ何も言わず、じっと、ハインリヒを見下ろしています。
ハインリヒは、摘んだブルーベリーの下から、薬草を山のように取り出すと、もしゃもしゃと前歯で小さくちぎり、前足を使って、柔らかくなるまでもみました。
それを、ぺたぺたと傷の上に乗せ、傷が全部隠れてしまうまで、同じことを繰り返しました。
終わると、みどり色に染まった口のまわりをきれいにして、にっこりと、ジェロニモを見上げます。ジェロニモも、にっこりと、ハインリヒを見下ろしました。
「ありがとう。」
今日、初めて聞いたジェロニモの声に、ハインリヒはうれしくなって、思わず右の耳を、ぴんと立ててしまいました。
ジェロニモと向かい合って、地面に腰を下ろし、ハインリヒは、昨日と同じように、かごを引っ繰り返して、摘んできたばかりのブルーベリーを、地面にざらりとこぼしました。
昨日よりも、もっとたくさんの、きらきらした青紫の実が山をつくり、ハインリヒは、おなかがすいていたので、すぐに右の前足を伸ばしました。
ジェロニモも、昨日のようには待たずに、すぐに、ブルーベリーの小山に、けがをしていない方の手を伸ばしました。
ハインリヒよりもゆっくりと、一粒一粒口に運んで、ジェロニモは、時間をかけて、ブルーベリーを食べます。その口元を、こっそりと見つめながら、ハインリヒは、ジェットが言ったことを考えていました。
おまえみたいなうさぎを食っちまうのが、山犬なんだぜ。
ふうん、とハインリヒは思いました。
でも。
ジェロニモは、ハインリヒに、指一本触れようとはしません。ジェロニモは、うさぎがきらいな山犬なのかなと、そんなことも思いました。
もぐもぐと、青紫の実を噛みつぶして、こくりと飲み込んで、ハインリヒは、尋いてみました。
「山犬さんのジェロニモは、うさぎのボクをくうの?」
ジェロニモが、ぴたりと、口元に運びかけた茶色い大きな手を止め、ハインリヒを、じっと見下ろしました。
その茶色の瞳が、ゆっくりと揺れて、ジェロニモは、まるでそれを隠すように、大きくまばたきをしました。
「誰が、そんなこと、言った?」
「ジェットが、山犬って、うさぎをくうって。」
問われたままを答えると、ジェロニモが、太い眉を、軽く寄せます。
「ジェット?」
「赤い鳥の、ボクの友だち。」
まるで、そこにジェットがいるかのように、頭の上を指で差すと、ジェロニモが、ああ、と軽くうなずいて見せました。
それから、少しおかしそうに、ふふふと笑って、ひどく優しくハインリヒを見つめます。
ゆっくりと、太い首を、ハインリヒに向かって、横に振って見せました。
「おれ、山犬、でも、うさぎ、食べない。」
「ジェロニモは、うさぎがきらいなの? 小鳥のジェットの方がいいの?」
ふたりとも、ブルーベリーを食べる手を、止めてしまっていました。
またジェロニモが、首を横に振ります。
「うさぎも、小鳥も、食べない。おれ、いきもの、殺さない。」
ジェロニモの言っている言葉は、ハインリヒには、よくわかりませんでした。それでも、ジェットが思っているのとは、少し違うのだと、それだけはわかりました。
ジェットが知っている山犬と、ジェロニモは、違う山犬なのかもしれないと、ハインリヒは思いました。
ジェロニモがまた、ブルーベリーを、口の中に放り込みました。
ハインリヒも、負けずに、ブルーベリーをつまみました。
ふたりとも、もきゅもきゅと、小さな青紫の実を食べながら、互いに、にっこりと笑い合いました。
ジェットに会ったら、ジェロニモの言った通りを伝えてみようと思いながら、なんだかうれしくて、ハインリヒはまた、右の耳をぴんと立ててしまいました。
あしたは、きゃべつを持ってこよう。
そう思って、また、舌の上で、甘酸っぱいブルーベリーを、ぷしゅりと噛みつぶします。
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