From The Inside
冬も半ばを過ぎたとは言え、まだ寒い日だった。
積もった雪が、少しずつ溶け始め、もう、これ以上積もることはないかもしれないと思わせながら、不意に風が冷たくなって、またぶ厚いマフラーを取り出す、そんな日だった。
仕事以外で、外を出歩くことは滅多とない。
アパートメントを出るのは、何かきちんと理由があるのが常だった。買い物だったり、何かの展覧会だったり、まれに、音楽会だったりもする。
たいていはひとりで、真っ直ぐに目的地へ向かい、真っ直ぐに戻ってくる。足を止めるのは、天気のいい日なら、街路樹の重なった枝や葉からこぼれる、日差しのきらめきに、目を奪われた時くらいのものだった。
ミルクが切れ、パンもなかった。
長い仕事を終えて、何もせずにベッドに直行し、目覚めて最初にするのは、冷蔵庫の中身を調べることだ。仕事が続けば、空のままであることも珍しくはなく、まずは何か、まともに食べられるものをと、戸棚の中身も調べてから、頭の隅にメモをする。
歩いて15分も行けば、大通りのすぐ裏に、移民の人たちが開いた、小さな食料品店が並んでいる辺りにたどり着く。
その日の気分で、ポーランド系だったり、ロシア系だったり、あるいは中近東系や、アフリカ系や、最近は、東洋人の顔も見かけるようになっている。
パンはここで、ハムとチーズはここで、甘くないクッキーはあそこで、見た目のひどく怪しげな---料理される前が何だったのか、見当をつけるには、地元の人間が必要だと思う---、アジア系のテイクアウトに手を出すこともある。
ひとり暮らしの、2、3日分の食料は、どんなに買い込んだところで、せいぜい一抱えの紙袋の収まる程度にしかならない。
大して重さもない、こまごまとした買い物を、ひとつにまとめて、胸の前に抱えて、またアパートメントへ戻る。
風は冷たかったけれど、日差しが優しかったせいかもしれない。歩き出してから、足の向きを変え、大通りを、遠回りして帰ることにした。
平日の昼間だと言うのに、人の肩の間をすり抜けるようにして歩きながら、通り過ぎる店のショーウインドウからあふれる色の鮮やかさに、もう、春が近いのだと知る。
首筋を吹き抜けた風に、思わず肩をすくめてから、それでも、すっかり柔らかさを増した日差しを、ちらりと振り仰ぐ。
少なくとも、仕事に行った先で、雪に埋もれる心配をすることは減るなと、ひとりで、くすりと笑った。
道の端に、小さな椅子を置いて、坐りこんでいる若い男がいた。目の前の地面に派手な色の布を広げ、その上に、さまざまなアクセサリーを並べている。
あまり深くも考えずに、ちらりと視線を送るだけでその前を通り過ぎようとして、ふと、足が止まる。
並んだどれも、わざわざ手を伸ばすほどのものでもないのに、流そうとした視線が、流れずに止まる。
青い石を削ったらしいペンダントが、真ん中辺りに、ひっそりと並んでいた。
どうしようかと、数瞬悩んでから、足を止め、若い男の方へ向き直り、よく見るために地面にしゃがみ込む。
さり気なく左手を伸ばして、並んだ青い石のひとつに触れた。
小さな円、あるいは角、ハートの形、粗く削ったものを繋いだもの、どれもつくりはちゃちで、子どものおもちゃにもなりそうになかったけれど、その鮮やかな青に魅かれ、ひとつ、星の形をしたペンダントを、そろりと取り上げる。
少し強く握れば、そのまま歪んでしまいそうな金具がついて、そこに、ざらりとした革紐が伸びている。革紐の部分は短く、端は、細い鎖と金具に続いていて、首に着ければ、鎖骨の辺りに、青い星が下がるほどの長さのように思えた。
黒い、小さな点が散り、白い亀裂のような線が走っていて、一見ターコイズのように見えるけれど、ただそれに似た類いの石なのだろうと思いながら、どうしてか、そのまま布の上に戻せずにいた。
こんなものを身に着ける趣味はない。けれど、ナイフで切り裂いただけのような、毛羽立った細い革紐と、その鮮やかな青が、目を引きつけて離さない。
立ち上がりながら、こちらに興味もなさそうな顔つきの若い男に、いくらかと訊くと、ぼそぼそと答えが返って来て、ポケットの中を探って紙幣を取り出すと、釣りはいいと、そのまま手渡した。
驚いたような、酔狂なと、少しばかり馬鹿にしたような、男の視線を受け流して、青い星のペンダントをポケットに入れて、アパートメントへ向かって歩き出す。
買って来たものを、冷蔵庫や戸棚にしまって、紅茶をいれながら、サンドイッチを作った。
キッチンの小さなテーブルに、路上で買ったペンダントを置いて、それを眺めながら、朝食兼昼食を、ひとりですませる。
掌に乗せれば、ほとんど重さのない、安っぽいペンダントに、右手の人差し指---今は剥き出しのままだ---を伸ばし、つついてみたり、弾いてみたり、そうしながら、ひとりで笑う。
わざわざ身に着ける気もなかったし、誰かに見せようとも思わない。何の意味もない、小さな、愚かな買い物だった。
それでも、その青を見ながら、ここから遠く離れた大陸の、南の空の色を想像する。
どこまでも高く、どこまでも広く、おそろしいほど青い、その空を仰いでいる、大きな肩と背中を思い浮かべる。
これを見せれば、彼はきっと、苦笑いをもらすのだろう。けれど、これを見て、思い出したのだと言っても、気を悪くすることはないと思えた。
体の大きさのせいだけではなく、岩のような男だった。
何よりも穏やかすを愛して、争わずにすむなら、それがいちばんいいのだと、血気にはやる仲間を静めるのは、いつも彼の役目だ。
またペンダントを指先でつついて、小さくつぶやいてみた。
「・・・ジェロニモ。」
平和が続くことを、誰もが望みながら、けれどそうすれば、一緒に時間を過ごす口実さえない、ひとりひとりの立場の違いを思い知る。
会いたいと、素直に口に出来る親(ちか)しささえないのだと思って、そう言えば、あの男は、俺の名前を知っているのだろうかと、そんなことまで思う。
004とも、ハインリヒとも、アルベルトとも、呼ばれることは滅多とない。口を開くことさえまれなあの男が、一体いつ自分のことを、何と呼んだろうかと、頼りない記憶をひっくり返す。
革紐の、ざらりとした感触を、指の腹に滑らせながら、その茶色が、彼の膚の色のようだと思って、そうしてまた、その記憶も正しいだろうかと、ふと不安になる。
世界のどこにいても、振り仰ぐ星も空も、同じだと、低く言った声を思い出す。
空は繋がっている。同じ空を見ている。星は、等しく、誰の上にも輝いている。
小さなリビングの奥にある窓を見やって、そこからかすかに見える、空の切れ端に、視線を当てた。
空の青。星の輝き。
今夜は、少し寒いかもしれないけれど、かまわずに窓を開けて、直に星を眺めようと思った。
ペンダントを取り上げて、名残り惜しげに眺めてから、ポケットにしまうと、テーブルを片付けるために立ち上がる。
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