葬送
冷たい風の吹く霧の中で、フライアは眠るように死んでいた。彼女のなきがらを抱きかかえ---ここ数日、ずっとそうしていたように---たまま、滅多と感情を面に表さないジェロニモは、ひとり静かに泣き続けていた。
フライアの死に顔は、うっすらと微笑みを浮かべていて、この混沌とした世界からやっと脱け出せたことに感謝しているように見えたけれど、死をもってしか、彼女には安らぎがなかったのだということが、よけいに皆の悲しみを誘った。
風のあまり吹かない辺りへ着いたら、フライアを埋めようと、低い声で提案したのはジョーとフランソワーズだった。それに、これも珍しく異を唱えたのは、ジェロニモだった。
フライアを弔いたいと、ジェロニモは言った。あまりにも怯えたままだったフライアの、悲しい命を送るために、その魂を、安らぎで鎮めるために、必要な儀式をしたいと、ジェロニモは、低い声で、けれどきっぱりと、仲間たちに告げた。
フライアの体を焼くのだ。骨が、白い灰になるまで、眠らずに見守り続けるのだ。火が収まって、白く乾いた熱い灰が現れたら、それを両手にすくい、祈りの言葉を捧げて、太陽の沈む方向へ向かって撒き散らす。灰は、風に乗って、どこまでも飛んでゆくかもしれない。あるいは、そのまま土の上へ広がってゆくかもしれない。フライアは、空と土と交じり合い、世界とひとつになる。フライアは世界に一部になって、そうして、フライアを覚えている誰もが、いつもフライアがそこにいるのだと、感じることができるのだ。
ジェロニモは、わざわざそれを説明することはしなかった。仲間たちも、あまり馴染みのないジェロニモの、その種の慣わしについて、根掘り葉掘り訊くようなことはしなかったし、ジェロニモが、自分のしたいことの我を通すなど、過去にあったためしはなかったから、それがつまり、ジェロニモの、言葉にしようもないほど深い悲しみを表しているのだと悟って、皆ただ浅くうなずいて、異論はないと示しただけだった。
けれど、ジェロニモが、その弔いの儀式をひとりきりでやりたいと言った時には、少々反論の声が上がった。
ジョーとジェットは、まだ誰かが生き残っているかもしれないから、ひとりでは危険だと言った。ピュンマとグレートは、口には出さなかったけれど、ひとりで抱え込むことはないじゃないかと、そう思っていた。張大人は、自分に何か手伝えることがあるのではないかと、上目にジェロニモをうかがっていた。フランソワーズは、ジェロニモの意見を尊重したいと思っていたけれど、仲間として、悲しみを分かち合えないかと、成り行きを見守っていた。
「俺が残ろう。おまえさんがいやなら、離れたところで見張り番でもするさ。」
自分の右手を軽く上げて、ハインリヒがそう言った。
いつもの調子で、冷笑気味にやや唇の端を曲げているハインリヒを、ジェロニモは何か言いたげに見返したけれど、結局何も言わなかった。
フライアの体を焼くための火は、張大人が残して行ってくれた。火を燃やし続けるための燃料は、ジェットが自分の足から分けてくれた。それをさすがに拒むことはせず、これもハインリヒが右手のナイフで切ってくれた自分のマフラーを、褥代わりに敷き、ジェロニモは、とても丁寧にフライアの、もう動かない冷たい体を、地面に横たえる。
土は、フライアと同じほど冷たかった。どれほど火を焚こうと、生身の人間が、そのまま生き続けられるようなところではないのだ。
ハインリヒは、ひとりにしてくれとも、向こうへ行ってくれとも言われないので、弔いの準備をしているジェロニモを、後ろから黙って見守っている。
すでに硬くなり始めているフライアの体を、できるだけ整えて、髪を撫でつけ、死に装束になってしまった白い服の長い裾や袖が、乱れていないことをきちんと確かめてから、ジェロニモは、フライアの両手を取って、みぞおちの辺りで重ねさせた。
寒さのせいではなく、膚が紙のように白い。爪から赤みはとっくに消えて、元々青かった唇は、今は冷え固まった鉛の色をしている。眠っているのだと、誤解したくてもできない、フライアは確かに、死人の貌をしていた。
死に顔に浮かんだ薄い微笑みは、もう消えることはない。フライアは、このまま焼かれて、灰になるのだ。
ジェロニモは、改めてフライアのまぶたに掌をかざし、その必要はなかったけれど、目を閉じる仕草をした。死者への敬意を払うための言葉を、自分の言葉でつぶやいて、それから、そっと後ろのハインリヒを振り返った。
「火、つける。」
ジェロニモの声が、あまりに深く沈んでいるのに、ハインリヒはさすがに厳粛な顔つきで、わざわざ声を掛けられたということを、近くにいても良いということだと解釈すると、足音を消してジェロニモの隣りへ行った。
「俺がつけてもいいんだぜ。」
こんなことは、別に初めてじゃないからなと、言葉の外に言わせて、フライアの傍にしゃがみ込んだままのジェロニモを見下ろして、静かに申し出てみる。考える間も置かず、ジェロニモはそっと首を振った。
そのまま、数瞬動かなくなったジェロニモの背中を見つめて、何もかもをジェロニモひとりがやることに、何かとても深い意味があるのだろうと、ハインリヒは、いつもの皮肉も冷笑も隠して、ただ静かに、そこから後ろへ1歩下がった。
フライアが敷いている、ジェロニモの防護服のマフラーには、もうジェットが残して行ったジェット燃料が染み込んでいる。ジェロニモの手が動き、そこに、張大人の火が、滑るように走り始めた。
残ったマフラーを外すと、ジェロニモはその端に、燃え上がり始めた火を取り分け、音もなく立ち上がって、ぐるりとフライアの足元へ回り、まだ火の走らないそちら側を、燃えるマフラーの切れ端で撫でる。フライアの体の回りに、じきにすべて火が回った。
煙と炎のすき間から、フライアの青白い微笑みが見えて、けれどそれは、すぐに、赤い炎に舐められ、覆い隠されてしまう。
布の焦げる匂いと、肉の焼けるにおい。熱せられる周囲の空気にもかまわず、ジェロニモはフライアがすっかり炎に覆われてしまうのを、その場に立って見守っていた。
ハインリヒは、ジェロニモの大きな背中越しに、ささやかな---けれど悲痛な---弔いの様子を、じっと凝視している。誰か、意味深い存在であった人の死体が焼かれるのを眺めるのは、別に初めてではない。人が死ぬと言えば、棺桶に収めて土深く埋めるのが普通だったハインリヒにとっては、火で焼く弔いというのは、そこに何か禍々しい存在を感じずにはいられないはずだったけれど、火葬で人を送ったどの時も、炎が苦しみも悲しみも浄化してくれているのだと、素直に信じることができたのが不思議だった。
それは、サイボーグになってしまったことと、何か関わりがあるのだろうかと考えたこともあったけれど、あえて答えはいまだ出さずにいる。
ジェロニモにとっては、この火が、フライア---とジェロニモ自身---の悲しみを鎮め、そして苦痛を消すのだろう。そのための、ジェロニモただひとりの儀式だ。
ハインリヒは、やや投げ出し気味にしていた左足を右足と代えて、胸の前で腕を組んだ。
フライアの体は、もうすべて黒く焦げ、ひとの形がかろうじて見えるだけになっている。それも、手足の先から崩れ始めていた。
ジェロニモは、その場にある、自分とフライア---だった存在---以外のすべてを視野から消して、数度ゆっくりと瞬きをした。それから、弔いのための祈りの言葉をつぶやきながら、地面の上にあぐらをかく。組んだ膝の上に両手の指を組み、背中を丸め、頭を垂れた。じきに、膝の上に、涙がしたたり始めた。
小さな嗚咽を噛み殺して、ただひたすらに、祈る。死んでしまったフライアのために。自分の腕の中で、眠るようにこと切れていたフライアのために。淋しさと悲しみばかりをあふれさせていた、あの瞳はもう二度と開かない。炎に溶かされて、ひとの形を失って、魂だけになった存在が、煙とともに空へ昇るのだ。
自分が守れなかった者のために、守る力のなかった自分の無力さを、心から悔やむために、ジェロニモは、炎に焼かれ続けるフライアのために、祈り続けた。
火がようやく消えた後に、黒く焦げた地面と灰が残り、骨のかけらもなくなるまで、それを見守ったジェロニモの傍に、ハインリヒもいつの間にか、静かにたたずんでいる。
消え残った煙が、穏やかにまだ立ち昇り続け、まだ熱いだろう灰をひと山にかき集めると、その中へ、厳かにひざまづいたジェロニモが、さらにかまわずに両手を差し入れた。
今は優しく吹く風が、ジェロニモの手からこぼれた灰を散らし、それに見守って、ジェロニモは両手いっぱいの灰を胸の前に捧げ持つと、空へ向かって首を伸ばして、今までとは違い、大きくはっきりした声で、送るための言葉を口にする。
その傍に立って、ハインリヒも、わずかに散ってゆく灰の行く先を眺めていた。
長い鎮魂の、詠うようなジェロニモの声が途切れ、それから、何もかもを振り払うように、吹く風の中へ、掌いっぱいの灰が飛び散って行った。
後ろへ向かって吹く風を、ふたり振り返って見送り、一瞬白く染まった頭上が、すぐに薄青く晴れると、ハインリヒは、まだそちらを見ているジェロニモを見上げて、静かに訊く。
「フライアのことが、好きだったのか。」
斜め上を見上げたままのジェロニモの瞳が、ゆらりと動き、顔の位置はまったく変えないまま、濃い茶色の視線が、下目にハインリヒを射た。
そうだとも違うとも、読み取れない瞳の色だった。どちらでもないのかもしれないと、以前にも同じ質問をしたことのあるハインリヒは、答えを聞き出すこともせずに、すいと視線を外して、地面に薄く残った灰を見下ろす。
「何よりも恐ろしいのは、忘れ去られてしまうことだ。この世界も、フライアも、忘れ去られてしまうことだ。」
珍しく流暢に、ジェロニモが言う。それが、まるでハインリヒへの問いの答えであるかのように、ハインリヒと一緒に残った灰を見つめて、それから、白くなった自分の両手を見下ろした。
風の中で、ハインリヒとジェロニモは、確かにあの唄をまた聞いた。やどり木の村の唄を、その耳の奥に聞いていた。
明日の旅立ちに道がないのは、昨日通った道がないのは、ここから出て行く道もないのは、フライアとあの村人たちだけではない。自分たちこそそうだと、サイボーグである体を、ふと互いに眺めて、フライアとあの村のことを忘れてはならないと思うのは、自分たちこそが、この世界から忘れ去られることを恐怖しているからなのだと、無言で悟っていたけれど、ふたりは何も言わなかった。
ジェロニモの、フライアの灰にまみれた手を取ると、ハインリヒは、自分のマフラーでそれを拭い始めた。一瞬だけ、驚いて手を引きかけたジェロニモは、けれどハインリヒの硬い表情に何かを読み取って、そのままおとなしく手を任せた。
指の間と爪の辺りまで丁寧に、両手とも拭うと、ハインリヒのマフラーが真っ白になる。こうやって、フライアは永遠に、世界のどこかを漂い続けるのだ。誰もが、フライアを憶えているように。決して、誰---サイボーグたち---も、ここにあった小さな異世界のことを忘れないように。ハインリヒは、ジェロニモの手を離した後で、ついた灰を払わないまま、マフラーを背中の方へ放った。
フライアだった白い灰を、風がさらい続けている。風の中に、歌声は、まだやむことがない。ふたりは風の中で、その唄に、じっと耳を澄まし続けている。
* 2007年10月、イベントにて無料配布 *
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