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Glad You Came

 星が見たいとイワンが言った。夜の外出などもっての他だと、フランソワーズは反対した。
 「おれが一緒に行こう。」
 フランソワーズをなだめながらジェロニモが穏やかに言い、それなら荷物持ちになろうと、ハインリヒが言った。
 ジョーとギルモア博士が一緒に使っている望遠鏡を、決して傷つけたりしないと約束して持ち出すことにして、夜風に当たるイワンに風邪を引かせないように毛布を何枚も、それから魔法瓶にコーヒーを用意して、サンドイッチ作りもフランソワーズの手を煩わせたりはしない。
 できるだけ空が広く見えるところと言えば、ギルモア邸から少し歩く海岸がいちばんだった。夏はとっくに終わり、秋も最中のこの頃、夜の海は想像しなくても冷えると分かる。夜の始めよりも深夜近くの方がいいとイワンが言う通りに、ふたりは毛布にしっかりくるんだイワンと作った荷物を抱えて、酔狂だと笑うグレートとピュンマに見送られてギルモア邸を出た。
 意外とかさばる荷物はジェロニモが持ち、イワンはハインリヒが抱いて、歩きながらすでに空を振り仰ぎ、
 「おまえさん、外に出なくったって星くらい見えるんだろう。」
 毛布の中から短い腕を伸ばして、似合わない無邪気さで星に触れようとするイワンを、ハインリヒがそう言ってからかう。
 ──タマニハ直ニ見タイジャナイカ。
 「直も何も、望遠鏡越しじゃないか。俺たちなら、行こうと思えばどこの星にだって行けるんだぜ。」
 ──ろまんガナイナア君ハ、はいんりひ。
 そうイワンにやり込められて、ちょっとハインリヒが唇の端を下げたのを、ジェロニモが笑って眺めていた。
 砂の上をしばらく歩いた後で、少し先に波打ち際の見える辺りで、ココガイイ、とイワンが言った。
 荷物を下ろしたジェロニモがハインリヒからイワンを受け取り、空手になったハインリヒが、望遠鏡を組み立てて位置を決める。その間にジェロニモは、石や岩や穴や凹みのないことを確かめてから毛布を敷いて、出した夜食と並べてイワンを寝かせた。
 ──モウ少シ、先ヲ上ニ向ケテ。
 しっかりと脚を立てた望遠鏡を覗くハインリヒへ、イワンが声を掛ける。その声に従って、何度か角度を調節してから、
 「自分でやれイワン。星を見るのはおまえさんだ。」
 ──気ガ短イナア君ハ。
 ひどく大人びた調子で言うのに、思わずジェロニモが吹き出す。そのジェロニモに抱き上げられて、イワンは望遠鏡を覗きながら、テレキネシスで望遠鏡の角度を自分の好きに変えた。
 「おまえさんが見たいってのは、一体どの星だ。」
 魔法瓶から、早速自分の分のコーヒーをアルミのカップに注いで、ハインリヒが敷いた毛布の上から訊く。
 イワンはレンズから目を離し、ジェロニモの大きな掌の輪の中でちょっと体をねじるようにハインリヒを振り返って、生意気に首を傾げる仕草を見せた。
 ──名前ナンカナイ星ダヨ。ソコニハ誰モイナイ。デモトテモ綺麗ナ銀色ノ星ダ。
 「誰もいないって、なぜ分かる?」
 ハインリヒに振り向いたそのまま、イワンはジェロニモの首へ向かって両手を伸ばした。ジェロニモはイワンを胸に抱いて、ハインリヒの正面へ腰を下ろした。
 ──タダ分カルト、ソウトシカ言エナイ。
 ジェロニモの腕の中で、小さく肩をすくめるイワンの声は、どこか淋しげに響く。ハインリヒはむっつりと黙り込んで、カップを自分の前に置いてから、ジェロニモのために、新しいカップにコーヒーを注いで差し出した。
 片手にイワンを抱いたまま、ジェロニモはもう一方の手に受け取ったコーヒーを、音をさせずにひと口飲む。夜気の中で、まだ息は白くはないけれど、コーヒーの湯気はすでに儚くなりつつある。
 「望遠鏡なんか必要ないくせに。星ならここからでも見えるんだろうイワン。」
 予備の毛布を引っ張り出しながら、ハインリヒはちょっと唇をとがらせている。波音と潮風が、余計に寒さを誘うのに、ハインリヒは肩を毛布で覆いながら、わざと不機嫌な声を出した。
 ──望遠鏡ハ君ラノ為ダヨ。ボクダケ見エテモツマラナイ。
 外へ出たかっただけだ。夜遅くに、好きに出掛けられる皆がうらやましくて、だから星を口実に、こうして外に連れ出してもらっただけだ。いや、星も見たかった。直に空を見上げて、そのまま剥き出しの星を見上げてみたかった。寄せる波の音を聞き、背中に当たる砂の感触を楽しみ、そうして夜空を見上げて、星のひとつびとつを数えてみたかった。自分の目と耳で指先で。
 ぶ厚い装甲のせいで、フランソワーズのそれに比べればずっと遠いジェロニモの鼓動へそっと耳を近寄せて、イワンは口の中のおしゃぶりをもぐもぐとゆるく噛んで目を閉じる。暗いまぶたの裏の方が、星はずっと近く見える。それでも、遠くかすかな光の、そのままの星を見てみたかったのだ。
 それを果たして満足して、それでもせっかく持って来たコーヒーとサンドイッチに手を着けるまでは、ふたりはギルモア邸に戻ったりはしないと当たりをつけて、イワンはジェロニモの腕の中でそのまま眠ってしまう素振りを見せた。
 夜の砂浜で、星空の下で、あたたかな腕の中で微睡む心地好さ。まだここから動きたくはない。
 小さな手を毛布の下へたくし込んで、ジェロニモはイワンの体をしっかりと毛布に包み直した。その合間に、またゆっくりとコーヒーを飲む。
 とんだ夜中のピクニックだ。
 今ではすっかりイワンの策中にはまったと悟ったふたりは、それもまたイワンの読み通り、コーヒーとサンドイッチに手を伸ばして、時々望遠鏡のレンズに片目を当てて、満天の星空をそうしてイワンの代わりに楽しむことにした。
 今ではジェロニモも、ハインリヒが出して掛けてくれた毛布に体を包んで、イワンを夜風に当てないように腐心しながら、空を見上げる合間に、望遠鏡のレンズを覗き込んでいる。
 「確かに、星はよく見えるな。」
 両手の中に、2杯目のコーヒーをほとんど空にしながら、ハインリヒがぼそりと言う。
 人通りも車通りも遠いこの辺りには人工の明かりは少なく、だからイワンがそう求めた通り、瞬く星たちはとてもきれいに見えた。目を凝らせば、月明かりにですら己れの光の失せる小さな星が、今夜ははっきりと見える。その数を数えるように、ハインリヒは星々を順々に視線の先に追った。
 「・・・星の数ほど、と言うのは、正確な表現ではないそうだ。」
 イワンの頬が冷えてはいないことを指先に確かめながら、ジェロニモがうつむいたままつぶやいた。
 「何だって?」
 できるだけ静かに言ったジェロニモの心遣い──眠っているはずの、イワンのためと、夜の砂浜の静けさのために──を、ハインリヒのぶっきらぼうな声があっさり無駄にする。ジェロニモは苦笑を刷いて、自分のカップに2杯目のコーヒーを注いだ。そこから、勢い良く湯気が立つ。
 「星の数と言うのは、地球上の人間の数よりもずっと多いそうだ。生き物すべてを数えても、それでも星の方がずっと多い。我々は星の数ほども存在せず、そして我々のような生き物が住む星は、その中のほんのわずかだ。」
 「イワンがそう言ったのか。」
 イワンの襟元へ毛布を寄せ直して、ジェロニモは2杯目のコーヒーに用心しながら口をつけ、そのカップの陰で浅くうなずいて見せる。
 ハインリヒをちらりと見て、ジェロニモは先を続けた。
 「我々は、宇宙の中ではごく稀な存在で、その稀少な我々がこうして出会うのは、ほとんど奇跡と言うべきものだと、イワンが言っていた。」
 最初の我々は人間を指していた。ふたつ目の我々は、自分たち9人──ギルモア博士を入れれば10人──を指している。ジェロニモの言葉をそうやって吟味して、ハインリヒはちょっと肩をそびやかし、行儀悪く片膝を立てて、居心地の悪さを誤魔化そうとする。
 奇跡だとか運命だとか、そういう言葉を聞くたびに、ハインリヒはかすかに湧き上がる不愉快を隠せない。ああそうだろう、そうだろうとも、俺たちは出会うべくして出会ったが、それは確かに奇跡で運命だった。だがその代わりに、俺たちは何を失った? 俺たちはそもそも、その稀少な我々とやらの"人間"なのか?
 コーヒーを左手に持ち替えて、マシンガンの右手を閉じたり開いたりする。星明かりに鈍く輝いて、銃口の縁がきらっと光って見えた。
 その輝きを見て、またジェロニモが言葉を継ぐ。
 「星の瞬きは、ここへ届く頃にはもう、その星が消えてしまっているのかもしれない。おれたちのような生き物が、もしかしたらいたかもしれない星だ。そこでも多分、生き物たちは出会い、関わり合い、繋がって、そこに存在していたのだと言う何かのあかしを残してゆく。おれたちが見ている星の瞬きは、そういうものだとおれは思う。」
 今夜は、この男にしては珍しく雄弁だ。口数の少ない男の言葉は、だから他の誰の言葉よりも、重くハインリヒの中に響いていた。
 「星の命と比べれば、おれたちの命は、ほんとうにあの瞬きほどのものでしかない。その瞬きの間に、おれたちは、出会って、互いを知り合って、深く深く関わってゆく。誰かを知ることは、自分を知ってもらうことだ。自分を知ってもらうことで、おれたちは自分たちの足跡を残してゆく。おれたちが確かにここにいたと言うしるしは、瞬きの間にも刻まれてゆく。星が消えても、おれたちは瞬いた光を憶えているし、向こうの星もまた、おれたちの瞬きを見て、そしておれたちのことを憶えていてくれる。」
 ジェロニモは空を仰いだ。上を向いたまま、星の光に合わせてゆっくりと瞬きを3度し、それからまた、ほのかな微笑みでハインリヒを見つめた。
 ハインリヒは唇を結んだまま、何か言う代わりにサンドイッチの容れ物をジェロニモの方へ押し出し、ジェロニモとは違う方向にある星を右肩の方へ眺める。
 「星の数よりずっと少ない俺たちがこうして出会って、夜のピクニックに駆り出されて、今ここで夜空を眺めてるのも、あの星が見てるってわけか。」
 茶化すつもりで言ったのに、口調を冗談めかすのを忘れて、まるでジェロニモの言ったことすべてに同意したような口振りになってしまった。
 ハインリヒは急いでサンドイッチに手を伸ばし、掌ほどの大きさのそれをふた口で全部口の中へ押し込んで、だからもう喋れないと言う振りをすることにした。ハムとチーズの塩辛さが、何か別のものを思い出させて、そう言えば海の水も塩辛く、涙もそうなのだと思いつく。
 自分──たち──が人間であるのかないのか、宇宙の広さと果てのなさを思えば、それは些細な問題なのだろう。星の生き死にを考えれば、たとえ数十億の人間の死ですら取るに足らないことになる。それでも、そこに生きるハインリヒたちは、その人間たちと他の生き物の命を守って、この地球が健やかに永らうためにあらゆるものを賭けるのだ。自分たちの、小さな微々たる命すら。
 ジェロニモもサンドイッチをつまみ、ふたりは少しの間無言になった。
 ハインリヒは3杯目のコーヒーを注ぎ、すぐには手を着けず、今はゆっくりとサンドイッチを咀嚼しながら、ジェロニモの腕の中ですやすや眠るイワンを眺める。もしかしたら眠っている振りで、ふたりの会話をすべて聞いているのかもしれない。
 子守唄の代わりにもならないのに、とハインリヒは思った。思って、そのまま、ふと浮かんだメロディーが口をついて出る。どこで聞いた歌だったろう。名前も知らない、誰が歌っているのかも知らない、それなのに、今突然思い出した歌詞もメロディーもやけに鮮明で、憶えていない部分は口先で適当に流しながら、繰り返しの部分をそっと歌い続けた。
 ここにいてくれてありがとう。この世界に存在してくれてありがとう。ここへやって来てくれて、ほんとうにありがとう。ありがとう。ありがとう。
 ジェロニモへ応えるためではなかったし、頭上の星たちへと言うわけでもなかった。けれど歌う言葉はそのように聞こえて、ハインリヒは自分で戸惑いながら歌うのを止めず、それが、意外に今の自分の心情にぴったりなのだと認めるのはもちろん業腹だった。
 眠るイワンへ視線を据えたまま、ハインリヒは小さく歌い続ける。目の前で、コーヒーが夜風に冷めてゆく。ジェロニモは、波の音にかハインリヒの歌にか、聞き入る表情で目を閉じた。
 イワンはきっと、この夜のことを忘れないだろう。星たちが見ているこの夜を、長い長い間、決して忘れはしないだろう。
 星が変わらず、空に瞬き続けている。

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