Great Blue

 長距離運転の合間の暇つぶしにと、いつものように題名も特には確かめずに本棚から取り出して来た数冊の本の中に、一体いつ手に入れたものかもう確かな記憶もない、古いフランスの翻訳ものの本があった。
 手に取って最初の数ページを読んでから、昔何度か読んだ記憶が甦り、けれどどんな内容だったかしかとは思い出せず、ハインリヒはひとりきりの食事が終わって空になった皿を、テーブルの中央へ片手──生身に見える左手──で寄せて、人気のない小さな食堂の片隅の席で、うつむいて読書の姿勢に入る。
 高めに組んだ膝の上に背表紙を乗せて、両手を添えてそっと本を開いている。古い本だったから、乱暴に扱えば、今にもどこかからページが取れてしまいそうで、紙の黄ばみが何だかいとおしくて、文章から一瞬視線を外し、ハインリヒはうつむいたまま微笑んでいた。
 文章は丁寧だけれど、それはきっとフランス語からドイツ語へ訳されたものだからなのだろうと、表紙の訳者の名前を確かめて、この作品以外では聞いたことのないその名に向かって、ちょっと目を眇めた。
 心だけは込めて書いたと思われる文章が連なる、内容がそれに伴っているかどうかはやや怪しげな、けれどそれに腹を立てるより、今ではまず微笑ましさに苦笑が浮かぶ。他愛もない稚ない恋愛を、登場人物たちが、作者以上に情熱を込めて盛り上げ、あっさりとは結ばれないらしい話の流れに、手を取り合って一緒にそれを嘆けないことを大袈裟にそれぞれが嘆いて、その嘆き様が数ページ延々と続くという、いっそ清々しい作者の心の込め方だ。
 念の入った描写が、けれどそれでも時々、頬に当たる真夏日の涼しいそよ風のように、すっとハインリヒの気持ちを爽やかにしてくれる場面もあった。
 話の内容ではなく、これを書いた作者の心情を慮るのが面白く、初めて読んだ時には、それでもそれなりに確か感動を覚えたはずだがと、その頃の自分の幼さを思い出して、行の間に自分の思い出を重ねながら、思ったよりも楽しく先を読み進んでいる。
 登場人物には、それぞれ家族がいて、その家族にまたそれぞれ友人知人家族がいて、話の内容はちっとも深まらないけれど、次から次へと新しい名前が出て来る。その誰も、主人公ふたりの恋に反対しているから、最後にはきっと皆で集まってふたりの結婚式を祝うという幸せな締めくくりか、あるいは駆け落ちでもしてそこで不幸になってしまうという、本を閉じた後でため息の出そうな終わり方だったか、これも思い出せないまま、ハインリヒは14個目の新しい名前を口の中で発音しながら、次のページをめくった。
 いかにも生活に疲れているという風の、50近いと思われるウェイトレスが、足を引きずるようにしてハインリヒのテーブルへやって来て、空になった皿を下げるついでに、無言でコーヒーを新しく注いでくれた。
 ハインリヒの手元に軽く目を当て、本を読みに居坐る客を迷惑に思っている風もでなく、ハインリヒは彼女に目顔でありがとうと示す。本の中の人物のひとりと彼女を重ね合わせた瞬間、彼女が、やっとそれが笑みとわかる程度に、唇の端を上げて見せた。
 本の中の彼女は、若くして結婚してしまい、今では数人の子育てにてんてこ舞いで、結婚なんてするんじゃなかったというのが口癖だと描写されていたから、目の前の実際の彼女が見せてくれた小さな笑みが意外で、ハインリヒはうっかり彼女に微笑みを返してから、また本へ向かってうつむいた。
 ページをめくってから、コーヒーへ左手を伸ばす。
 どうやら駆け落ちの気配が濃厚になって来たところで、本を持ち上げて足を組み替えた。
 小さな町の描写の中に、そこにある店や働く人たちの描写も入る。この人たちには、幸いに名はない。壁や床や地面に映る影のように、物語に陰影を与えるためだけに、そこらを歩き回るだけだ。
 主人公の片割れが、髪を切ってもらっている場面で、ふとハインリヒの視線が止まる。
 青、という文字が目についた。その青は、空の色や布の色を表したものではなく、人の肌の色合いのことを言ったものだった。
 青い肌。明らかに白人ではない、今で言う北アフリカか中近東辺りからやって来た──連れて来られた──人物のことを話している。
 黒と描写されることが普通のその色合いを、青と書いてあるのが物珍しく、ハインリヒは先へは進まずに、青という文字の周りばかりを何度も繰り返し読む。
 残念ながら、青という文字の回りに、期待したような心優しい描写はなく、墓場をうろつく野良犬か何か、ようするに邪悪なものだという陳腐な表現が続き、それが、この話の中の白人たちの邪悪さを際立たせるための演出と言うわけでもなく、そんな文章の書き方が、本の状態よりももっとあらわに、その時代をくっきりと浮き彫りにして見せていた。
 知らずに、ハインリヒは唇の端を下げ、それでもなぜかその青という言葉から心を外せず、不愉快になるとわかっているのに、また何度も何度も同じ文章を読み返した。
 そうして、不意に、登場人物たちの俗っぽい会話の間に、嫌悪感と恐怖、そしてそのずっと後ろへかすかに漂う、憧憬のようなものを読み取る。
 見たことのない土地、恐らく一生訪れることなどないだろう場所からやって来た、青みがかった肌を持つ人。違う言葉を話し、こちらのやり方とは違うやり方をし、ありとあらゆる不思議に包まれた、異邦人。
 その人のことを話す彼らの口調の中に、単純にその人のまとう空気への憧れがあるように、ハインリヒには思えた。
 青という言葉が思い起こす、ひたすらに広く高い空や、澄んだ空気や、どこまでも延々と果てのない海や、何か途方もなく広大な、爽やかな、うっとりと目を閉じて感じずにはいられない、そんなものを、ハインリヒは頭の中に想像する。
 そうして、青はそう言えば、フランス語では自由を示すのだったと、あの鮮やかな三色の国旗を思い浮かべた。
 青。自由。自由という色の肌をした人。自分たちの規範には縛られない、別の土地で暮らす、自由な人々。
 だから、青い肌なのかと、突然ひらめいて、そう思いついた瞬間、この物語がたまらなくいとおしくなる。
 いとおしいと思った時に、浮かんだ顔はひとつきりだった。
 その人の肌もまた、同じように青い。あれは、広い広い空の色だ。
 別の場所にいる、青い肌の大男。他人を愛するという意味の、赤い防護服に身を包み、そして顔に刻まれる線は白い。その白は、平等を表す白だ。その白を、自由という意味の青い肌の上に刻む。その彼が立つのは、戦場だ。
 自分も一緒にそこにいるのだと、ハインリヒは思う。
 青と赤と白。色の表す意味を思い、もう1度彼を思い浮かべ、彼を恋しいと思うと同時に、彼のことを悲しいとも思う。
 赤い衣をまとう、青い男が顔に刻む、白い線。ああ、そういうことかと、ページに相変わらず目を落としたまま、もう文字を追ってはいない。
 蔑みだけではない。多分きっと、あれは蔑みだけではなかったのだ。ひそかな憧憬。自分とは違う、自分が縛られているものに決して縛られない、自由な心を持つ存在を、まるで崇めるように眺めることを許されなかったから、彼らにはもう崇めるべきものが在ったから、だから、崇める代わりに、貶めたのだ。そうするしかない、ただ無知で無力な人々だったのだ。
 彼は、青い人だ。その自由を妬まれた、青い肌を持つ人だ。
 テーブルにきれいなまま置いてあったナプキンを取り上げ、しおり代わりにそこへ挟み、ハインリヒは音を立てて本を閉じた。
 その音に、ウェイトレスの彼女が振り向く。コーヒーかと目配せして来るのに、ハインリヒは首を振って見せた。
 財布から紙幣を取り出しながら、横に置いた本の表紙に、また視線が吸い寄せられる。
 古びて今にもどこかから破れそうなその表紙を、革手袋の右手で撫でながら、彼に頼めば、革の表紙でも着けてくれるだろうかと、ふと思いつく。
 そうしようと咄嗟に思い決めて、電話の口実はそれにすることにした。
 色の話を、いつかゆっくりとしよう。あの男は何と言うだろうかと、思いながら、近づいて来る足音へ顔を上げる。
 微笑を浮かべているウェイトレスの耳に、さっきは気づかなかった青い小さな光を見る。揺れるイヤリングが、彼女の笑みに青い影を与えている。
 ごちそうさま、と普段に似合わない声が、ハインリヒの口をついて出た。

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