Leave That Man



 体は動かなくても、気配を感じて、目が覚めた。
 元々眠りは深くはないけれど、常に尖りきっている神経は、眠っている時でさえ、目覚めているも同然だった。
 戦闘が日常化すると、体が、こんなふうに変わる。それは、改造された機械の部分による変化なのか、それとも単に、闘うことに慣れ切ってしまったせいなのか。
 闇でも見える目に、赤い影が、見えた。
 「そんな、おっかない顔、すんなよ。」
 細い声が、音をひそめて、そう言った。
 肩に手が伸び、それから、額に触れる。
 「おまえか。」
 「他に誰がいるんだよ。」
 違いない。他に誰も、こんな時間にこんなふうに、ハインリヒの部屋に入っては来ない。
 声の主は、そっとベッドの端に腰を下ろし、ひどく優しい手つきで、ハインリヒに触れ続けた。
 久しぶりの、ジェットの手だった。
 「眠れないのか?」
 ジェットがここへ来た、思い当たる理由を、そうではないと言ってほしくて、ハインリヒは、声をひそめて訊いた。
 「・・・アンタのこと考え始めたら、目が冴えちまった。」
 乱れた髪の様子で、寝返りを繰り返していたとわかる。
 額に触れていた手が、頬に下りて、あごを滑って、首筋に落ちた。
 避けようかどうしようか、迷っているうちに、シャツ---これも、ジェットのシャツだ---の襟から、指先が忍び込む。反射的に肩をすくめて、その手をシャツの中から追い出そうとした。
 「・・・・・・なんだよ、いやなのか。」
 傷ついたように、ジェットが声を細くする。
 ずるい奴だなと、思わず思った。
 「・・・・・・こんな体で、そんな気になると、思うか?」
 わかり切ったことを言わせるなと、ジェットを、いつもの迫力はなく、にらんでみる。
 ジェットが、唇をとがらせた。
 「関係ないだろ、アンタが腕がないとか、足がないとか。」
 言いにくいことを、あっさりと口にするのは、確かに気にしていない証拠なのだろう。それでも、特にこんな時に、手足のない体を晒すのには、ひどく抵抗がある。
 「・・・・・・だめか?」
 捨てられた、子犬のような目つきで、体の上で、すくい上げるような目つきをする。
 ずるい奴だと、また思った。
 顔を背けて、唇を少しだけ曲げた。
 「あんまり、無茶するなよ。」
 言った途端に、頬に唇が触れた。
 口づけの前に、言い含めるように、もう一言付け加える。
 「それから、あんまり、じろじろ眺めるな。」
 動きを止めて、睫毛さえ触れそうな近さで、ジェットが、花がほころぶように、微笑んだ。
 「オレが、アンタの体が好きだって、知ってるだろ?」
 確かに、ほんとうのことだった。
 抱いても冷たい、触れるのは金属の表面でしかないこんな体に、ジェットが喜んで手を伸ばすのには、おそらくハインリヒニは永遠に理解できない---あるいは、したくない---理由があるのだろう。
 ジェットの気持ちを、心のどこかでは、ありがたく思う。表面では、迷惑に感じていると振る舞いながら、こんな体でも、求めてくれる誰かがいるのは、サイボーグになってしまった今、それだけが救いだった。
 破壊する機械にされてしまった自分を嫌悪しながら、同時に、その性能の高さに、秘かにプライドを満足させられる。矛盾した心を抱えて、そこに発生するのは、いっそ自分を消してしまいたいという気持ちだった。
 だから、こうしてジェットが自分を、こんな形であれ、求めてくれるのは、こんな自分でも、まだ生き続けてもかまわないのだという自己肯定に繋がる。そして、まだかすかに残っていると信じたい、人間らしさの証拠でもあった。
 言葉通り、ハインリヒがたとえどんな姿になろうと、ジェットはいつも、同じ微笑みを浮かべる。
 自分が一体、その微笑みに値する人間---人間なのだろうか、まだ---なのかどうか、いつも疑問に思っているのは、ジェットには決して言わない部分だけれど。
 ベッドにもぐり込んで来たジェットが、自分ではあまり体を動かせないハインリヒを、何とかあちらへこちらへ移動させて、ようやくシャツを脱がせた。
 ふと目を細めてハインリヒを見下ろしてから、最初に、ちぎれてしまった右肩に、そっと口づけに来る。
 応急に人工皮膚に覆われ、機械の中身が剥き出しになっているわけではないけれど、それでも、腕のない上半身を見られるのには、こうなってもまだ、少し抵抗がある。
 ハインリヒは、目を固く閉じて、ない腕を探すように唇を滑らせるジェットから、さり気なく視線を断った。
 胸が重なって、皮膚がこすれ合う。久しぶりのその感触に、肌を思わず粟立てて---不快感からでは、もちろんなく---、ハインリヒは、声を殺すために、残った方の腕で唇を覆った。
 唇が、胸を滑り、みぞおちから腹に落ちる。人工の腹筋を思わず硬張らせて、ハインリヒは、息をつめた。
 暖かく、ジェットが触れる。
 手足を失くして以来、いつも体温が低いように感じていた。
 いつもより、小さくなってしまった体の大きさのせいなのか、それとも切断面から体温を失っているのか、それとも単に、ハインリヒがそう感じるというだけのことなのか。どれともわからないまま、今、ジェットに触れられて、ようやく自分の体が、息を吹き返しているように、感じている。
 外から与えられるぬくもりに、全身が、穏やかになごんで、まるで、渇いた花が水を吸い上げようとするかのように、上に重なる体温を、受け取ろうと両腕を開いているようだった。
 両腕。頭のすみで、くすりと笑う。
 喉を反らして、腿の内側に触れるジェットの掌を、全身で感じている。
 その手が滑り、今は膝から下のない、右足の切断面に、くすぐるように触れた。
 ふと、背骨に走るものがある。背中を反らして、耐えるのを忘れた声が、少しだけ高くもれる。
 開いた脚の間に、ジェットが躯を進めてくる。
 長い間、放っておかれた躯は、いつもよりもゆるやかなジェットの愛撫に、今は開き切って、抗う気配さえなく、ジェットを中へ誘い込んだ。
 残った片腕を、ジェットの背中に回した。左足で、ジェットの膝の裏側の辺りを撫でる。
 こんな体で、と思う心とは裏腹に、躯は、外側も内側も、ジェットの皮膚の感触を求めている。できる、精一杯で。
 体を動かしながら、そこだけは修理が終わっている、右の腹の脇を、ジェットの掌が、なだめように撫でていった。


 「なんだよアンタ、気乗りしないみたいなこと、言ったくせに。」
 汗が冷えてしまった胸を撫でながら、ジェットがからかうように言った。
 「・・・・・・うるさい。」
 言葉を返すのも億劫で、ハインリヒは、額に腕を乗せ、なかば微睡みながら、ジェットの掌の感触を楽しんでいた。
 腰を抱き寄せられ、ジェットが、ぴったりと体を寄せてくる。耳や首筋に、まだ唇を滑らせているジェットに、ハインリヒは、少しだけ怪訝そうな視線を投げた。
 「・・・・・・部屋に、帰らないのか?」
 「・・・ここで寝ちゃ、まずいか?」
 甘えるように、ジェットが上目に尋いた。
 「ジェロニモが、朝、ここに来る。」
 ふん、とジェットが、少しだけ考え込む表情をつくった。
 今さら隠す必要のないこととは言え、全裸で同じベッドに寝ているのを見られるのは、ジェットはともかく、ハインリヒニには、少しばかり都合が悪いのは、いくらジェットでも、見当はついた。
 たとえ裸でなくても、ジェットがここにいれば、何が起こったのか、一目瞭然だった。
 無駄なことは一切言わないジェロニモだからこそ、見せなくていいことは、見せたくはないと、ハインリヒは思う。
 これがグレートやフランソワーズなら、さばけた態度で、軽い冗談のひとつでも言って、場の空気をなごめてくれるのだろうけれど、気まずさを一切面に出さないジェロニモ相手では、こちらの方が心が痛む。
 「・・・・・・じゃあ、夜明け前に、部屋に戻った方がよさそうだな。」
 ジェットが、わざと残念そうにそう言った。
 ありがたいと思いながら、ハインリヒは、ジェットがベッドを出て行くものと思って、寝返りを打って、背中を向けた。
 「じゃあ、まだ、時間があるし・・・」
 手が伸びて、また、ジェットの方へ、体の向きを変えられる。
 肩の線を重ねに来るジェットを、信じられない面持ちで、ハインリヒは見上げた。
 「なにしやがる。」
 「決まってんだろ、もう一回。久しぶりなんだぜ、アンタと一緒にいるの。」
 「バカやろう、ケガ人相手に、何考えてやがる。」
 「ケガ人が、こんなに元気かよ。」
 するりと、抵抗を封じるために、ジェットの手が、下に伸びた。
 触れられれば、まだ可能なのは、わかっていた。それでも、ジェットをつけ上がらせる気はなく、ハインリヒは左腕を振り上げて、ジェットの肩を押しやろうとした。
 「おとなしくしろよ、そんなに時間かけないからさ。」
 「おまえ、少しはこっちの身にもなれ!」
 「オレだって、ずっとおとなしく待ってたんだぜ。アンタだって、楽しんでるくせに。」
 言葉に詰まったすきに、唇を奪われた。
 全身の重みをかけられれば、片腕では支えきれない。それでも、肩を押し上げようとする仕草だけは、やめなかった。
 「この、くそガキ!」
 強く言ったつもりで、声がかすれていた。
 ジェットの手の動きに、抵抗をあきらめかけた時、不意に、大きな気配が、上から降って来る。
 動きを止めて、ジェットの体が、上に浮いた。
 「邪魔する、悪い、でも、フランソワーズ呼んでる。」
 振り向いたジェットの肩の向こうに、ジェロニモが、いつもの無表情でそこにいた。
 ふたりの、小さないさかいの声を聞いて、無礼を承知で部屋に入って来たのだろう。
 いつもなら、気にかけるほどのことでもないけれど、手足のないハインリヒが、いつものようには抵抗できないのを知っていて、助け船を出しに来たらしかった。
 「フランソワーズが、夜の夜中になんの用だよ?!」
 ジェットは、無理強いを見咎められた気まずさを隠すためか、ことさら強気な声で、ジェロニモに食ってかかった。
 「知らない、でも、呼んでる。」
 そう言って、少しだけ開いたドアを、指差す。
 ジェットを追い出すための口実なのは、明らかだったけれど、ジェロニモの、決して咎めるようではない、けれど心の内を見通すような視線に射すくめられ、ジェットは大きく舌を打った。
 おとなしくハインリヒの上から下り、シーツの陰で、床から素早く拾い上げた服を身に着ける。
 ハインリヒは、ジェットがベッドを離れてすぐ、シーツで裸の肩を覆った。
 「おやすみ。」
 ドアのところで、少しだけ振り返って、わざとのように大きな声で言う。
 去ってゆく足音は、まるでしょぼくれたように静かだったけれど。
 足音が消えてしまってから、ようやくジェロニモはハインリヒの方へ振り返った。
 ハインリヒは、その澄んだ茶色の瞳を真っ直ぐに見ることが出来ず、しわだらけのシーツに、頬を染めて視線を落とす。
 「おやすみ。」
 静かに言って、ジェロニモは、ほんの少しだけ、笑ってみせた。
 たとえば、けんかに負けて泣いて帰れば、母親はそんな笑顔で傷の手当てをしてくれるのかもしれない、そんな感じの、笑顔だった。
 立ち去ろうとしたジェロニモを、ハインリヒは、不意に思いついて、慌てて呼び止めた。
 「た、頼みがあるんだ。」
 声がうわずって、ハインリヒは思わず口元を覆った。
 振り返ったジェロニモが、訝しげに、眉を上げた。
 「・・・バスルームまで、運んで、くれないか。シャワーを、浴びるから。」
 口ごもりながら、うつむいて、不自然に言葉を切りながら、ようやくそれだけハインリヒは言った。
 明日の朝、こんなことの後に、陽の光の中でバスルームに運ばれるよりは、今、まだ夜のうちに、終わらせてしまいたかった。
 それに、もう知られてしまったなら、ジェットの匂いをまといつかせて明日の朝、また顔を合わせるのに、耐えられそうにない。
 ジェロニモは、静かにうなずいてから、そっとベッドの傍へ来た。
 ハインリヒが、明らかにその下には何も着けていないのを知っていて、なるべく触れないようにしながら、シーツをきちんと体に巻きつけてくれる。
 そうして、いつもなら、朝そうするように、静かにハインリヒをベッドから抱き上げた。
 部屋のいちばん奥にあるバスルームへ、無言のまま、ハインリヒを連れてゆく。
 バスタブの縁に、きちんと腰かけさせてから、もう一度、他には何か用はないかと、確かめるように目顔で訊いた。
 「・・・すまなかった。」
 そう、ほんとうに、すまなさそうに言ったハインリヒに、まるでおどけたように、少しだけ表情を崩して見せる。
 「サイボーグ同士、ケンカできない。仕方ない。」
 本気なら、たとえ片腕片足だろうと、ジェットを止めることは、出来た。けれど、本気を出せば、もちろんジェットが壊れることになる。
 それを知っているから、失礼を承知で止めに来たのだと、ジェロニモが言葉の外に伝えて来た。
 シーツの下から出た、素足の左足を眺めて、早く体が元通りにならないかと、ハインリヒは心の底から思った。
 ハインリヒの落ちた肩に、ジェロニモがそっと手を置いた。
 「おやすみ。」
 顔を上げた目の前に、限りなく優しい、茶色の瞳があった。


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