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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 目覚めてすぐ、羽織ったシャツのボタンを留めようとして、前の合わせが少しきついことに気づいた。
 ジェロニモは、わずかの間自分の手元を黙って見下ろして、ボタンをつまんだ自分の指先に目を凝らし、そこに一緒に見える自分の胸元の、盛り上がった筋肉──正確には、人工皮膚に覆われた装甲の厚み──の線を視線でたどった。
 目と目の間で、静かに深くこぼしたため息の軽い震えが起こり、それから、気をつけながらシャツの前を少し強く引っ張って、ボタンをゆっくりと留め始める。
 また体が大きくなったのだ。メンテナンスや改造のたび、こうやって体が微妙に変化する。自分のためであり、皆のためでもある。そして、世界の正義とやらのためだ。生身の頃から人並み外れて大きかった体は、今がそれほどかけ離れたものではないにせよ、もう元の姿などまったく思い出せない。
 袖のボタンに掛かろうと腕を軽くひねると、脇や肩の布地の引きつれに、シャツが小さく悲鳴を上げたような気がした。
 またため息がこぼれる。近いうちに、少なくとも新しいシャツが必要になるだろう。
 袖のボタンを苦心して留めると、手首がひどく動かしにくい。ジェロニモは、今度こそはっきりと眉を丸く上げて、一度留めたその小さなボタンを外し、袖口を2度折った。もう一方の袖も同じようにした。
 怒りと言うほど激しいものではなく、どちらかと言えば、憤りと名付けたいような感情だった。
 こうやって変わってゆく自分、変えられてゆく自分、少なくとも外見上は歳を取ることはなく、壊れたり劣化したりした部品は取り替えられ、こうして生き続けてゆく。選んだことではない。目覚めればこうなっていた。そして今も、目覚めるたびに、変わらない、そして変わり続ける──変えられ続ける──自分に出会うことになる。
 諦めと言う思いすらなく、これはこういうことなど最初から受け入れて、現実には受け入れるというそれ以外に選択はなく、それでも、体の奥底のどこかに砂ひと粒ずつのように、少しずつ溜まってゆく澱のようなものの存在に、ジェロニモは気づかずにはいられない。
 自分がこうして気づく己れの体の変化に、あの男は気づくのだろうかと、ジェロニモは自分の両手を見下ろして考えた。
 自分に触れる、あの男の掌。自分を抱く、あの男の腕。金属の色と感触の、あの男の体。その時々で、それはすべてを、あるいは一部か大部分を人工皮膚に包まれ、あの体もまた、ジェロニモのそれと同じように、何かあるたびに微妙に変化する。
 巻く腕の輪の大きさの変化に、あの男は気づくのだろうか。ジェロニモがあの男を抱いて、時折気づくわずかな変わり様(ざま)に、あの男も同じ様に、ジェロニモに触れて気づくのだろうか。
 あるいは、自身では気づいてはいない変化に、他人だからこそ気づくこともあるのか。
 あからさまに自分の体を厭うあの男は、そんな風に不意に訪れる自分の体の変化も、何もかもひとまとめに嫌っているのか。
 会えば、何とかふたりきりの時間を作ろうとして、そうしてふたりきりになれれば、言葉を交わすより先に、飢(かつ)えを満たすために抱き合うふたりの間では、何かをゆっくりと語り合い言葉で伝え合うと言う機会は案外と少なく、態度に表れないし表さないことは、知らないまま存在しないままだ。
 彼はどうなのだろうかと、ジェロニモはまた考える。ジェロニモが感じるこんな風に、彼も感じているのだろうか。望んだはずもないこんな変化を、憤りと諦めと一緒くたにして受け入れて、ジェロニモのそれよりは恐らくやや激しく、そしてその分、絶望も諦観も深いのだろうと思われる、彼の心の内側だ。
 彼を抱きしめる時、ジェロニモはいつも、彼の心も一緒に抱きしめているのだと思いながら、それでも決して実際に触れることも見ることもかなわない彼の内側の、そこへの遠さを腕の中に感じる。
 彼の痛みを、ジェロニモが感じることはできず、同様に彼も、どれだけ近しく躯を寄せようと、ジェロニモの内側へほんとうに届くことはできないのだ。
 ことに、こんな風に、ぶ厚く装甲に覆われてしまっていては、そこにひとの心が在るのだと、信じることすら難しい。彼はその存在を長い間疑い続け、疑い続けた挙句に、ジェロニモを通してようやくそれの片鱗を認めつつあると言う有様だ。
 あの男は、あの、アルベルト・ハインリヒと言う男は、賢すぎるし聡すぎるのだと、ジェロニモは、もう何十回思ったかわからない同じことをまた思った。
 聡明すぎるから、あの男はあれこれと、感じたことを自分の頭で考える。考えて突き詰めて、そして結局は明確な結論などどこにもなく、それはようするに、人それぞれの心の在りようでしかないのだと思い至って、また思考の最初に戻る。そうして堂々巡りだ。生き続けて、あの男は頭の中に知識を増やし、いっそう聡さを増す。そうしてさらに、知ってしまったことで自分を苦しめ続けるのだ。
 無知であるとこは時には幸せでもあるのだと、ジェロニモは己れと引き比べて、ハインリヒに同情すら感じることもあった。
 学や教養などから程遠い自分の方が、実は幸せなのだと言うような傲慢な気持ちではなく、ひとは自然に歳を取り、ある程度の年齢で死に、その間に山ほどの為せなかったこと、知れなかったことがあるからこそ幸せなのだと、ジェロニモはこんな身になってから、身を持って知った。
 為してしまったからこそ、知ってしまったからこそ、苦しみは増す。その苦しみと対峙するのは、ただひとり己れ自身だけだ。
 どれだけ近く抱き合っても、どれほど親(ちか)く寄り添っても、分け合えはするその苦しみを、けれど知り合うことはできない。
 生身の頃は、皮膚だけが自分と世界を隔てていた頃は、ひととひとは分かり合えるし、究極にはひとつになれるものだと、ジェロニモは信じていた。突き詰めて突き詰めてどこかへたどり着けば、すべては繋がり合ってひとつになっている世界が見えるのだと、ジェロニモは素直に信じていた。
 今もその考えを捨ててはいない。けれど、今ではこうして世界は他の人間たちとぶ厚く装甲と人工皮膚で隔てられて、自分は孤(ひと)りなのだと言う孤独の感覚が、もう埋めがたいほどに深まって、だからこそ同じ孤独を抱くハインリヒと、こんな風に魅かれ合ってしまうのだ。
 近づけば近づくほど、ジェロニモはハインリヒの孤独の深さに、ほとんど絶望のような感覚を抱く。どれだけ埋めても埋め切れない、いや恐らく、埋めたいと思った──そうして、そうやって自分の孤独も埋められる──ジェロニモが、単にその深さを見くびっていただけなのだ。
 彼がこの世に在ると思うだけで忘れてしまえるジェロニモの孤独など、彼のあの、己れの身など軽々と飲み込んでしまいそうな闇の濃さには、比べることすらできない。ジェロニモは、自分の皮膚の色を瞳に映して、この体に、次に彼が触れるのはいつだろうかと思った。
 抱き合えば、わずかでも埋められる彼の孤独なのか。ひたすらに遠ざけられたひとらしさを、そうしてふたりは分け合いながら、他の誰かのひとらしさを感じて、自分のひとらしさを取り戻す。腕があり皮膚があり体の形のある自分たちは、まがいものだろうと何だろうと、否定のしようなどなくひとなのだと、そうやって思い知る。
 そうでなければ、なぜ触れ合って抱き合いたいと思うだろう。色恋と、簡単に名付けてしまうには、少しばかり言葉の響きが足りない。そうではない、そういうものだけではないのだと、ジェロニモはひとり心の中でつぶやいていた。
 引きつれの増えたシャツの前に掌を置いた。撫でるように、小さなボタンの上で掌を動かしてから、その手で自分の口元を覆う。
 ハインリヒのことを考えるたびにそこに淡く浮かぶ淋しげな表情を、自分では見えないまま掌の中で消して、ジェロニモは、きっちりと靴を履いた爪先の方向を変えた。
 歩き出すために軽く振ったシャツの、肩の裏辺りがぎゅっと音と立てた。それが泣き声のように聞こえて、それでもジェロニモは前を見据えたまま、体の動きを止めなかった。

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