雨音の朝



 ひそやかと言うにはもう少し強い、明らかに地面を叩く雨の音に気づいて、ハインリヒは思わず肩を起こし、窓の方へ顔を向けた。
 カーテンの掛かったそこから、外が見えることはなく、けれど部屋の中に忍び入って来る確かな雨音に、ハインリヒは不意に心細くなって、もっと首をねじ曲げて、そこにある時計の針を読もうとした。
 4時を過ぎている。もうすぐ朝になる。明るくなるにはわずかに足りないけれど、誰もが、深い眠りの端の方へ、たどり着こうとしている頃だった。
 「どうした。」
 隣りで、体を動かさないまま、声だけがした。
 そちらに顔を戻して、ハインリヒは、申し訳ないという顔を作る。
 「起こしたか。」
 枕に頬をつけたまま、いいやとジェロニモが首を振り、ハインリヒが見ていた方向を確かめるように、肩の向こうへ視線を移した。
 「雨だ。」
 音でわかるだろうと思いながら、ハインリヒはジェロニモがそうと口にする前に、自分の見ていた──見ようとしていた──ものを伝え、何だか落ち着かない気分になって、そのままジェロニモを見下ろしていた。
 「しばらくやまない。」
 平たい声で、ハインリヒの向こう側を見つめたまま、ジェロニモが言う。
 ぱらぱらと屋根を叩く音が、切れ目なく聞こえる。窓を打たないのは、きっと風がないからだろう。雲から、真っ直ぐに地面に落ちて来る雨だ。何の変哲もないそんなことが、なぜだかとても意味深く思えて、ハインリヒはまた窓の方へ首を回した。
 地面が濡れてゆく。雨が染み込み、泥になり、柔らかくなったそこへ、踏み込めば足跡が残る。外へ出れば濡れる。世界が、雨に覆われて、何もかもが濡らされてゆく。水たまりができれば、そこへ落ちて来た雨粒が跳ね、また新たな音を重ねて、水とその音だけに満たされた世界は薄暗く、何だか不安をかき立てられて、自分がこの雨を招いてしまったような気がした。
 そうやって自分の気持ちがおかしな具合に揺れるのに、ハインリヒは余裕のない仕草で、ジェロニモの頬に右手で触れた。
 「雨だ。」
 またそう繰り返すと、今度はジェロニモがちょっと眉を上げ、ハインリヒの様子が少しおかしいのに、そっと目を細めた。
 「ずっと、やまないのか。」
 平たい声でハインリヒがそう訊いたのに、ジェロニモは同じように平たい声で、静かに答えた。
 「雨はいつかやむ。」
 この雨のことを訊いている振りをして、そうではないのだと、ジェロニモにはわかるのだ。それを少し気恥ずかしいと感じて、ハインリヒはようやく少し軽い気分になった。
 ジェロニモの体の重さを気にしてのことではない──とは言え、上り下りする階段のきしみを、ジェロニモ自身も他のメンバーも、そっと気にしている──だろうけれど、この部屋は1階にある。廊下のいちばん端だ。ハインリヒの部屋は、2階にあった。ジェロニモの部屋とは逆の端で、こっそりと忍び込むには、それなりの距離が隔たっている。
 そっとドアを開け閉めし、足音を忍ばせて廊下を歩く。階段を、音の出ないところを選んで足を運び、自分の部屋の中へ滑り込む。音をさせずにベッドに入って、いかにも一晩中そこでぐっすり寝ていたという振りで、少し朝が進んだ頃に、おはようと言いながらキッチンへ行く。そこでジェロニモと顔を合わせても、何も表情には浮かべずに、おはようとただ皆に対してと同じ挨拶を交わすだけだ。
 何と、確固とした理由があるわけではない。ただ、ジョーとフランソワーズは例外として、数の少ない──これ以上増えることは、決してありえない──仲間の絆を保つために、余計な感情のこじれは持ち込むべきではないという暗黙の了解があったから、長く一緒にいるうちに芽生える情というものはともかくも、友情さえあまりに行き過ぎるべきではないという、悲しいほどの節度が彼らの間にはあった。
 大事に思うことと、それにのめり込むということは違うのだ。何かあった時に、互いを見捨てなければならない事態さえあり得たから、彼らはそれをいつも心の中に刻み込んで、互いに対する信頼や敬愛を深くする一方で、同時に、心の距離を保つ術を、そうとは知らずに身につけてしまっていた。
 たとえば単なるタイミングで、数年会わないことがあっても、次に会った時には、おととい別れたばかりのように、元気だったか変わりはないかと手を握り合う。けれどその会わない間に、濃密に連絡を取り合うということはせず、会わない時間の間のことを、あれこれと微細に問うこともしない。
 近づき過ぎてしまえば、そうすべき時に見捨てることができずに、共倒れになりかねないから、だから、そんな時がくれば、ためらいはなく命綱を切ってしまえるように、痛みの少ない距離に、互いを保っている。
 皆そうやって、肩を寄せ合っている。現実の距離と心の距離のバランスを、時折ひとらしさゆえの思いというものを犠牲にして、必死に保ち続けている。
 9人しかいない仲間だ。だから、互いを大事にしなければならない。けれど、生き延びるために、払うべき犠牲は払わなければならない。ひとりのために全員が死ぬことになるなら、そのひとりを見殺しにして皆が生き延びてゆく。そうあらねばならないサイボーグたちだった。
 命綱の先にいるのが、自分になるかもしれない。命綱を切る役を負う羽目になるのが、自分かもしれない。だから、ひとりひとりが常に互いを大事に思いながら、自分の命も互いの命も、大切にし過ぎてはいけないと、そう自分を律している。そのつらさをわかり合えるのも、また互いしかいなかった。
 その、隠された緊張を孕んだ、なごやかに見えてどこか常に張りつめている9人の輪から、ひそかに抜け出てしまったのは、もう随分前のことだ。
 その輪を保つためだ──その頃は、そうだと信じていた──と、自分に言い訳したことを、ハインリヒは昨日のことのようにはっきりと覚えている。
 仲間を大事に思う気持ちの、そのただ延長線上にあるに過ぎないはずの、少しばかりどこかへずれてしまったふたりの関わりだった。
 幸いと言えば幸いに、あるいは、そうと最初から知っていてだからそうなったのかもしれない、ジェロニモの慎み深さだったから、皆のいるところで、そうと悟らせるような素振りはなく、その関わりを理由に、突然深くこちらに踏み込み始めるということもなく、それでもふたりきりなら、まるで陽にぬるんだ海にでも浮かぶように、ジェロニモに包み込まれるハインリヒだった。
 心地良さだけを分け合う間柄だった。本来なら、すべてを分け合うべきだったのに、会えない時間と、物理的な距離を理由にして、ふたりでいる時にはことさら穏やかさばかりを表に出す。多少すれ違ったところで、言い争いになるはずもないふたり──主には、ジェロニモのおかげで──だから、少ない時間をいがみ合って過ごすなど思いもよらず、抱き合って、微笑み合って、そうやって次を約束してまた別れてゆく。
 そのことを突然、ハインリヒは、悲しいと思った。
 また数日で、互いのいるべき場所へ戻ってゆくのだ。だからこそ、ぬくもりだけを味わいたいと思うのは、何よりもひとらしい、何よりも──まだ──ひとであることの証拠だとわかっていて、けれど、それだけでは足りないのだと、ハインリヒは唐突に気づいてしまった。
 雨のせいだ。このひそやかな雨音に閉じ込められて、どこへに行けないのだと不意に思い込んでしまったから、だから、このままずっとジェロニモの一緒にいたいのだと、決して口にはしないし、深く突きつめて考えようとはしなかったことが、自分の内側からあふれて来る。止められずに、ハインリヒは、それをどうやって伝えようかと、逡巡していた。
 結局は、言葉を尽くすよりも、膚で伝える方が早い。時間と手間を惜しんで、ハインリヒはジェロニモの上に重なって行った。
 いつもなら、じきに、ハインリヒがこの部屋を出て、そっと自分の部屋の戻る時間だ。
 誰かが起き出す前に、誰かが、ハインリヒが自分の部屋にいないことに気づく前に、ジェロニモから自分の躯を引き剥がし、足音を忍ばせて、自分に与えられた部屋に戻る。ひとりきりで、何もなかったという振りをして、これからも何もないという顔を作って、そうやって迎える朝に、ハインリヒはもう耐えられそうになかった。
 ハインリヒの振る舞いに戸惑って、ジェロニモの腕が、背中へ回るかどうかと迷う。ハインリヒの重い体が動くのにつれベッドがきしむのにも、耳聡いフランソワーズへ悟られないかと、ジェロニモは少しばかりひやりとする。
 それでも、ハインリヒの様子がおかしいのに当然気づいて、あやすように髪や背を撫でて、突き放すようなことはしない。
 「もう、朝だ。」
 わざと水を差すつもりで、ジェロニモはハインリヒの耳元に言った。
 「まだ、雨が降ってる。まだ暗い。」
 ジェロニモの上に乗ったまま、そのぶ厚い腰をまたぐ形に、腰や下腹が重なるように位置を整える。そうして、そのままゆっくりとこすりつけるように、躯を揺する。ベッドが、途切れずにきしみ始めた。
 躯ふたつに挟まれて、閉じ込められた熱と湿りが、思いがけず急激に昂ぶってゆく。押さえつけられているわけでもないのに、ジェロニモは、ハインリヒの下で動けなくなった。
 膚の色は違う。けれど同じ血の色を浮かべて、躯が、重なって触れ合った部分から、次第に赤く染まってゆく。
 単純で手短な触れ合い方だと言うのに、その直裁さのせいか、それとも上に見るハインリヒの肩の揺れ具合や表情のせいか、躯を繋げた時とは違う感触に予期せずさらわれそうになり、ジェロニモは思わず声を殺して喉を反らした。
 その伸びた喉に、体を倒して来たハインリヒが、開いた唇を当てて来る。歯列が軽く触れ、鋭いその並びが、まるで皮膚を裂くように滑って行った。
 「いつか、一緒に暮らさないか。」
 驚いて顔の位置を戻すと、意外な近さにハインリヒの顔があり、真っ赤に染まった頬とそれを縁取る銀色の髪と、そして薄い唇が、微笑みに曲がっているのが見えた。
 「どこか、静かなところがいい。森か山の近くだ。おまえさんの精霊とやらが、たくさんいそうなところだ。」
 言葉が増えるに従って、躯の揺れがゆるくなる。けれど言葉が切れた途端、また動きが激しさを増す。ジェロニモは、それに翻弄されて、けれど抗う気を失くしていた。
 「今すぐじゃない、いつかだ。どこか、おれたちがふたりでいても、静かに暮らせるところだ。」
 酔ったように、言葉だけがなめらかに滑り出て来る。ほんとうに伝えたいことが、重なった皮膚から伝わればいいと思いながら、ハインリヒは唇と躯を動かし続けた。
 ジェロニモは、ハインリヒのあごを両手で包むようにしながら、頬へ指を伸ばすついでに、親指の腹で熱く湿った唇の合わせ目を撫でた。
 ジェロニモの指が動くのに、ハインリヒの唇も一緒に開いて、動く。軽く割れた歯列の間から覗いた舌先が、ジェロニモの、いつも乾いてざらついている指の腹を、そっと舐めた。
 そうされて、意識が遠のく。こうしてふたりで立てる音や気配が、他の部屋でもう目を覚ましているかもしれない仲間の誰かの耳に届いているかもしれないことが、不意にどうでもよくなる。
 隠し続けて来た今までを否定する気はなく、けれど、ばれたところでそれがどうだと、開き直る気持ちが湧いた。
 雨のせいだと、まるでハインリヒの思惑がそのまま伝わったように、ジェロニモは思った。
 一緒に、と、途切れ途切れに吐く息の合間に、ハインリヒの言葉を口移しにする。ハインリヒがそれを聞き取って、またうっすらと微笑みを見せた。
 「・・・どこにする?」
 まるでもう、決まってしまったことのように、ジェロニモは訊き返した。明日にでも、そこへ移るために、ふたりで一緒に荷物をまとめるのだと、話がまとまっているかのように、ジェロニモは目を細めて、自分の上で動き続けるハインリヒを見つめていた。
 昂ぶりが天井へ届く気配を察してか、ハインリヒは躯を動かす早さをゆるめ、ぎりぎりで止めはしないまま、ジェロニモの上に身を伏せて来る。
 ジェロニモの頬に添える両手は、右手はマシンガンが剥き出しだ。その指先を、赤銅色の頬に押しつけて、ハインリヒは子どもっぽい仕草で鼻先をこすり合わせた。
 「・・・おまえさんと一緒なら、どこでもいい。」
 言葉通り、言ったことを口移しにしようとするほど近々と唇を寄せて、ハインリヒがささやく。
 ジェロニモは、乱暴に肩を起こして、ハインリヒと体の位置を入れ替えた。
 ベッドが壊れそうな音を立てる。それを、しめやかな雨の音が吸い込んで、囲われたこの場所の中に閉じ込めてしまう。
 ジェロニモがそう言った通り、雨は降り続いていた。けれど、さっきよりは明るさを増して、ふたりの体に浮いた汗と同じほどの湿りが、部屋の中を静かに満たしてゆく。ベッドの端から床に垂れたシーツの、波打ったしわの間に、外から忍び込んだその湿りが、ゆっくりと染みとおってゆく。
 雨の静けさと同じほど声をひそめて、けれどふたりは熱い手足を絡め合わせたまま、ベッドのきしみと雨音の中に閉じ込められて行った。


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