Reminder



 大きくはない家が、少しばかり肩をすくめて並んでいるような、小さな通りだった。
 古い家ばかりのその通りで、ハインリヒのいる、ぎしぎしと階段の崩れそうなアパートメントは、それでも比較的新しい建物だった。
 アパートメントの左隣りに、ドイツ語をあまり話せない老女が、ひとりで住んでいた。
 このアパートメントに引っ越して、すぐに挨拶をする程度には親しくなって、30年近く前に夫を亡くしてから、子どももいないまま、再婚もせずに、夫の持ち物だったというその家に、彼女はひとりで暮らし続けているのだと、本人の口から聞いた。
 ハインリヒの半分くらいしかなさそうな、やや腰の曲がった彼女は、それでも毎日庭に出て、花壇の手入れに余念がない。
 深く刻まれたしわの中に埋まってしまったような小さな顔で、にっこりと、ハインリヒを見かけるたびに声を掛ける。
 ウクライナか、どこかその辺りのアクセントだと、彼女のつたないドイツ語を聞く。
 彼女が話しかけるのは、もっぱら彼女の飼っている数匹の猫たちだ。完全に室内飼いなのか、姿を見かけるのは窓際にたたずんでいる時ばかりで、それでも、家の中で、彼女が猫たちを呼んでいる声を、何度かかすかに聞いた。
 その中で1匹だけ、どうやら外へ出ることを許されている猫がいるらしいと悟ったのは、彼女の家の裏庭の傍で、大きなこげ茶の猫を見かけた時だった。
 大きな背中越しに、アパートメントから出て来たハインリヒに振り返って、ひどく警戒した瞳を見せた。体を後ろに引きながら、うなる寸前のように、ひげがぴんと立つ。
 何もしやしない。
 そう瞳に言わせたけれど、猫は警戒心を解かず、それを見て、最初は野良猫だろうかと思った。
 次に見かけた時は、ほんの少しましな態度で、少なくとも、ひげはそのままだった。
 大きな体、太い首、しっかりと張ったあご、どこから見てもりっぱなオス猫で、彼が、老女の裏庭から裏口へ入るのを目撃して初めて、彼女の飼い猫なのだと知った。
 彼女の愛想の良さに似ない飼い猫だなと、そんな感想を持ったことを覚えている。
 むっと、不機嫌につぐんだような口元、こげ茶のぶち猫は、目つき鋭くハインリヒをにらむ。
 地面にしゃがみ込んで、彼のご機嫌を取るような真似をしたいとは、どうしても思えず、アパートメントを出てゆくハインリヒと、それをにらむように眺める大きなぶち猫と、戦闘用サイボーグと、隣人の飼い猫の関係としては、非常に妥当なものだと、ハインリヒは少しだけ悔しまぎれに納得していた。


 ある夜、仕事で遅くなり、深夜をとっくに過ぎて、アパートメントに戻った時だった。
 かすかに鳴く、猫の声が聞こえ、姿を現したのは、あのぶち猫だった。
 どうやら、外へ出たまま、飼い主の老女に忘れられてしまったらしい。明日の朝になれば、中に入れてもらえるのだろうけれど、それまでにはまだまだ長い時間があった。
 空腹に耐えられず、夜の世界にも馴れていないのか、恥を忍んでハインリヒに助けを乞うことに決めたらしい。
 自分の足音を、この猫がきちんと覚えていたことに驚きながら、ハインリヒは、足元にきちんと前足を揃えて坐って、それでもやや上目遣いにこちらを見上げている彼を見下ろして、冷蔵庫の中身や戸棚にある缶詰のラベルを、必死で思い出そうとしていた。
 ミルクと、ツナと、猫が喜びそうなものと言えば、そんなものしか思い当たらず、けれど文句は言わないだろうなと、地面に向かって膝を折る。
 「・・・今夜だけだぞ。」
 声をひそめて、それから、怯えさせないように、ゆっくりとかざした左手を、彼の頭に乗せた。
 彼は、承知した、とでも言うように、耳の後ろをハインリヒの掌にすりつけて来た。少し固い、暖かな毛並みだった。
 足音をさせないために、両手で彼を抱き上げて階段を上がり、ハインリヒの肩に爪を立てたものの、保護されてゆく彼は至極おとなしく、ハインリヒのアパートメントの中に入っても、声を上げて鳴くでもなく、粗相をする様子もなく、仲間の顔を思い浮かべて比べながら、今のところ申し分のない客だと、ハインリヒは彼の毛のついたジャケットを脱ぐ。
 ろくに家具もない狭いアパートメントに、探検する場所などそれほどはなく、ハインリヒが冷蔵庫からミルクを出して皿についでやると、すぐにキッチンに飛んできた。
 今日は1日、エサも食べずにずっと外へいたのかもしれない。獰猛な見かけのわりには、鳥を狙ったり、どこかの家のゴミをあさったり、そんなことはしない、躾の良い猫なのかもしれない。
 首と肩の見分けのつかない、しっかりと硬い体の抱き心地を、見下ろす掌に思い出す。
 頭を撫でようかと、思って、けれど必死にミルクをなめている今はやめることにした。
 ツナの缶を開けてやり、あまり深くも考えずに、一缶全部、彼の目の前に置いてやった。
 はぐはぐと、音をさせて鼻先を突っ込み、必死になって食べている後ろ頭が揺れる。つい、それを見て笑顔になって、ハインリヒは、今度は自分の空腹を満たすことにした。
 とは言え、冷蔵庫に特に何があるわけでもなく、仕方なくパンを出して、もうひとつツナの缶を開けて、簡単にサンドイッチを作る。
 そこに立ったままでサンドイッチにかぶりつくのは、あんまりだと思って、まだツナの皿に顔を突っ込んだままでいるぶち猫を置いて、ハインリヒはキッチンの片隅の、小さなテーブルについた。
 猫は、時々皿から顔を上げ、ハインリヒがそこにいることを確認してはまた、皿にうつむく。
 自分しかいないこのアパートメントに、誰か、何か、他の息遣いがあることが珍しくて、ハインリヒは、サンドイッチをゆっくりと咀嚼しながら、じっと猫を見つめている。
 ぶち猫は、ほとんどかけらも残らないほど皿をきれいにした後、前足を使って顔を洗い始めた。
 子どものいない、隣りの老女が、数匹の猫を飼っている理由に、ふと思い当たる。
 確かに、ひとりきりでいるよりは、小さな体の同居人がいた方が、きっと家に帰るのも楽しいだろう。ふっと、口元が微笑んでいた。
 その微笑みに気づいたように、ぶち猫がやって来て、ハインリヒの足に、あごをすりつけ始める。
 くるくると足元を歩き、ひげの辺りをこすりつける。ハインリヒは、やっと、右手でその頭を撫でた。
 ベッドルームへ着いて来て、床で寝るのかと思っていたら、ぴょんとシーツの上に乗ってくる。
 脇の辺りに体を横たえる猫を見て、
 「意外と図々しいな。」
 思わずそう言っても、猫は知らん振りで、毛づくろいをしている。
 毛布の下に顔を半分埋めて、それから、また右手を猫に伸ばした。撫でると、手足を伸ばして、腹を上に向ける。向こう側から、顔だけ上げて、ハインリヒを見ている。
 「明日は、ちゃんと家に帰れよ。」
 言葉とは裏腹に、声が、うっかり優しくなる。猫は、ごろごろと喉を鳴らして、それに応えた。


 「と言うわけなんだ。」
 隣人のぶち猫の話を終えて、ハインリヒはそう言った。
 猫は、翌日の昼近くに、わざわざ抱えて、老女の家の裏口まで連れて行った。その日から、ぶち猫は、外でハインリヒに会うたびに、足元へ駆け寄って来るようになった。
 あれ以来、エサをやることはないけれど、何かあれば助けてくれる人間---だと、彼は思っているだろう---と認識したらしかった。
 その猫を、一晩アパートメントに泊める気になった理由を、どうしても伝えたかった。
 こげ茶の毛並み、太い首、いかついあご、大きな体、無口さの象徴のように、一文字に結ばれた口、あまりいいとは言えない目つきが、けれど自分を見て、少しだけやわらかく優しくなごむ様子、初めて見かけた時から、似ていると思っていたに違いなかった。
 あの夜、ベッドで一緒に寝ながら、その暖かさに思い出していた。
 この部屋に迎えたことはない、けれど、迎えれば、こんなふうに夜は暖かくなるのだろうかと、そんなことを考えた。
 「・・・おまえさんに、似てるんでね。無下にも扱えない。」
 苦笑を混ぜて、やっとそう言った。
 受話器の向こうで、黙り込んだ---口数は、いつだって少ないけれど---気配があって、猫と似ていると言われて、気を悪くしたろうかと、慌てて取り繕う言葉を探す。
 思いつかないで、ひとりでうろたえていると、やっと向こうから声がした。
 「誰かが、自分のことを思い出していると知るのは、とてもうれしいことだ。」
 優しい声だった。
 あのぶち猫が、ハインリヒを見かけては駆け寄ってくる時の、リズミカルな足音を、思い出させる声だった。
 ハインリヒは、頬をうっすらと染めて、受話器に向かって微笑んでいた。
 あのぶち猫が、ほんとうは何という名前なのか、飼い主である老女に尋ねたことはない。ハインリヒはもう、心の中で、あの猫に勝手に名前をつけてしまっていたので。
 ジェロニモ、というその名前を、声に出して呼ぶことは決してないだろうけれど、あの猫を見かけるたびに、心の中でだけそう呼びかけることを、やめはしないだろう。たとえ、ほんとうの名前を、いずれ知ったとしても。
 電話を切る前に、ほんの少し勇気を出して、試しに言ってみる。
 「俺のところに来れば、そっくりさんの猫に会えるぜ。」
 思い切った誘いの言葉だったけれど、それは軽くいなされる。考えておくと、それでも笑いながら、あちらが言った。
 明日は、仕事に出掛ける日だった。出掛ける前に、必ずあの猫に会って、頭を撫でて、声を掛けてから行こうと、静かに受話器を置きながら思った。


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