うわさになりたい
その2


「想い」

 「気になるなら、とっとと口説けばいいじゃないか。」
 電話の向こうで、歩き回る音とともに、ピュンマがあっさりと言った。
 「口説いて、どうするんだ。」
 少しばかり鼻白んで、低くなる声を、抑えて返す。
 ピュンマが、大きため息を吐き出したのが聞こえた。
 「向こうだって子どもじゃないんだし、キミがはっきり言えば、はっきり返事が返ってくるよ。」
 「そんなふうに、簡単に言うな。」
 昔の気安さが、思わず声音に蘇る。
 あごを引き、うつむいて、下唇を突き出す子どもっぽい仕草をしながら、おまえじゃあるまいしと、声には出さずに毒づいてみる。
 やっとソファに落ち着いたのか、ごそごそと動き回る音が消え、一緒に部屋にいる誰か---ジェットに決まっている---に、話しかける声が聞こえた。
 「キミは、ずいぶん簡単だったけどね。」
 いきなり、ほんの少し小声で、ピュンマが、おかしそうに言った。
 不意の言葉に、思わず頬を赤らめて、昔のことを思い出して、恥ずかしさに息を飲んだ。
 こちらの気配を悟ったのか、電話の向こうで、笑う声が響く。ジェロニモは、ますます固く唇を引き結んで、軽く頭を振った。
 「わかるだろう? こういうことは、別に一方的じゃないんだ。向こうもきっと、同じようなことを考えてるよ。」
 揶揄するような口調を改めてから、生真面目な調子で、言葉が続いた。
 「特にボクらは、仲間に敏感だしね。」
 ボクら、というのが、ジェロニモだけを含んでいるのか、ジェットを含んでいるのか、ハインリヒを含んでいるのか、しかとはわからないまま、ジェロニモは、それを聞き流すことにした。
 「おまえの方が、こんなことには慣れてる。」
 ふふっと、ピュンマが、また声を立てて笑った。
 「違うよ、慣れてるんじゃない、人の気持ちを読むのがうまいだけさ。」
 声ににじんだ淋しさを読み取って、混ぜ返すのをやめた。
 ふたりで一緒に、数秒黙り合った後で、先に口を開いたのは、やはりピュンマの方だった。
 「ボクは、失敗するのが嫌いだから、確信のある相手にしか近づかない。昔みたいに、悠長に傷ついてる暇もないからね。」
 そうかとだけ相槌を打って、また、それきり黙り込む。
 失敗して、傷ついた昔というのは、つまりジェロニモとのことだ。
 たかが、数年前のことを、昔と言い切ろうとするピュンマが、ほんとうはまだ、どこかで傷ついたままでいるのだと気づいて、それほどひどいことをしたのかと、ふと悲しくなる。
 同じ方向を見ていると思って、そうして、手を繋いだ。同じ場所に、同じ時に立ち、同じ方向に、頭を振り向けた。そうやって、ずっとふたりでいるはずだった。
 そうやって、ふたりでやっていけるのだと、信じていた。
 ある日ふと、違う方向を眺めている瞬間に気づき、それが、少しずつ頻繁になり、少しずつ長くなって行った。
 憎み合ったわけでもなく、嫌気が差したわけでもなく、ただ、見つめたいと思う方向が、いつの間にか違ってしまっていただけだった。
 別れた後に思ったのは、同じ方向を見つめていたと思ったのは、錯覚だったということだった。
 互いに、一緒にいたいと思って、同じ方向を眺めようとしていただけなのだと気づいて、自分のしていた無理に気づいて、ジェロニモは、穏やかに別れたことを、正しい選択だと思った。
 ひとりに戻って、淋しいと感じるよりも、むしろ安堵の方が強く、ふたりよりも、ひとりでいる時間の方がずっと長かったことを思って、結局のところ、ひとりが性に合っているのだろうと思った。
 ひとりでいるべき人間もいる。ふたりになる必要はない。
 ひとりを恋しがっていた自分を見つけて、ジェロニモは、ひとりでため息を吐いた。そのため息を聞いたのが、自分ひとりなのは、とても正しいことのように思えた。
 間違いを犯さずに、歩いてゆけるわけがない。それでも、前へ進むごとに、失敗を重ねるごとに、人は臆病になって、そして、賢くなる。
 ピュンマの賢さは、ふたりでいるために、正しい相手を選ぶということであり、ジェロニモの臆病さは、ふたりでいる必要はないということだった。
 別れを通り抜けて、心が癒えたからこそ、今、誰かを求めているのだろうかと思った。
 どうして、ハインリヒに会いたいと思うのか、ジェロニモにはよくわからなかった。
 ひとりでいることを、淋しいとも虚しいとも思わない。ずっとこのままなら、それはそれでかまわないのだと、本気で思う。
 けれど、どうしてか、ひとりでいる部屋の、自分のかたわらに、あの、声を立てずに笑う男がいたらと、時折、部屋の中へ視線を流して、思う。
 肩の触れ合う近さで、酒を飲みながら、互いの住む場所も、電話番号も知らない相手だと言うのに、そんなことはおかまいなしに、この部屋にいるハインリヒを、鮮やかに思い描くことができる。
 見つめたことなど、ないと思っているのに、耳の形や頬の線や、髪の流れる動きを、はっきりと覚えていると思う。
 握った、左手のことを思って、そして、まだ触れたことのない、革手袋に覆われたままの、右手のことを思った。
 会いたいのだと思って、会えないことを、悲しいと思った。
 胸が痛んで、ピュンマと、まだ電話で言葉を交わしながら、思わずシャツの胸元をつかんだ。
 切ないと思って、そう思った自分に、驚いていた。



「ひとり歩き」

 もう、週の半ばも過ぎていた。
 相変わらず、いるかもしれない、来るかもしれないと思って、毎晩、グレートの店に通いながら、今ではグレートも、ジェロニモの姿を見た途端に、首を横に振って、まだだと、教えてくれるようになっていた。
 おそらく、会いたくて、会えないから、こんなにも必死に、会おうとしているのだろうと思う。
 自分の分のウイスキーを飲み、ワンショット分のジンを飲んで、家に帰る。夢に、ハインリヒが現れることはなかった。
 仕事は週末で終わっているはずなのに、一体どうしたのだろうかと思って、事故でもあったのだろうかと、新聞をすみからすみまで読んで、それらしい記事のないことに安堵し、そして、また、どうしたのだろうかと、同じ問いに帰る。
 ピュンマに詳しく聞けば、住んでいる場所くらいわかるかもしれないと思ったけれど、そこまで踏み込むには、少しばかり疎遠すぎると、いつもの、ジェロニモの中の常識人の声が言う。
 縁がなかったのだと、思い始めて、極端から極端へ走る自分の思考の具合に、今夜も酔っているなと思った。
 ジンを飲み終わって、何も言わずに席を立つと、グレートが、少しだけ心配そうな顔つきで、
 「帰るのかい。」
 一度だけ、深くうなずいて、飲み終わったグラスを、コースターごと、グレートの方へ押しやった。
 グレートは肩をすくめ、グラスをカウンターの裏へ下げると、気の毒そうにジェロニモを見つめた。
 同情は必要ないと思いながら、ゆっくりと落ち込んで行く自分の気分のために、グレートが、自分を気遣ってくれているのだと自覚するのは、悪い気分ではなかった。
 目を伏せ、立ち去るために、肩を回そうとしたと同時に、グレートが、ふっと笑って、素早く口を開いた。
 「"森には、時計なんてないよ"。」
 どこか、冗談めかした声音で、いたずらっぽく唇の端を上げ、グレートは、もう一度肩をすくめて見せた。
 今ここで、シェイクスピアの「お気に召すまま」が飛び出す理由がわからず、けれど、引用された台詞の意味深さに、ジェロニモは、敬意を表して、思わずうっすらと笑みを浮かべた。
 自分が、泣きそうな顔をしているのだろうかと思いながら、軽く手を上げ、もう、グレートに背中を向けて、薄い絨毯を踏みしめながら、店の外へ出た。
 急な、狭い階段を、地上に向かって上りながら、しばらくここには来ないでおこうかと、そんな下らない、けれど切実な決心を、しようかどうか迷いながら、階段の一番上に足を乗せ、地上に出て、空を振り仰ぐ。
 背の高いビルに邪魔をされ、夜空は、狭く切り取られている。星も月も見えない暗い夜に、始まる前に終わってしまったのだと、騒めいてしまった自分の気持ちに、思い切りをつけるのは、ふさわしいことのように思う。
 ズボンのポケットに入れた手を動かすと、指先に車のキーが触れた。
 自分の酔い具合を確かめて、二日酔いの心配はないけれど、運転はどうかと思い、半ば投げやりに、明日の昼間にでも、会社を抜けて取りに来ればいいと、店の駐車場に、車を置いて帰ることに決めた。
 自分では冷静なつもりでいて、けれど、そんなふうに投げやりになってしまう程度には、気持ちが荒れているのだと思って、爪先に視線を落として、歩き始める。
 表通りに出て、車がつかまらなければ、つかまるまで歩けばいい。何なら、家までこのまま歩いて帰ってもかまわないと、また、ひどく投げやりなことを思いながら、表通りへ出る角へ近づいたところで、前から来る足音に気づいた。
 月のない夜に、通りはいっそう暗く、けれどそこに白っぽく浮かぶ人影は、見間違えようもない。
 うつむいていた顔を、横に向けたままで、ジェロニモはそこで足を止め、こちらへやって来る人影に、ひたと視線を当てた。
 こちらから見える人影の白さも、あちらから見えるに違いない、ジェロニモの人影の大きさも、見間違えるには、少しばかり変わってい過ぎていて、こちらに気づいたらしい足音が、わずかに速度を落とし、それからまた、決して急いでいるようではない歩みで、こちらへやって来る。
 曲がり角で立ち止まったまま、体は横に向けたままで、自分の前で、足音が止まるのを待った。
 まだ、正面からは向き合わず、久しぶりに見るハインリヒの、思っていたよりもずっと白い、頬の線を見ていた。
 ずっと、会えない間に、思い出していた通りだと、そっと、瞳だけを動かして、上から下までを、こっそりと眺めて、ジェロニモは、細める目の奥が、耐えられないほど熱くなるのを感じていた。
 「"計ったように、時間ぴったりにやって来たな"・・・。」
 グレートのせいだと、そう思って、口が滑ったのだと、気づくのに、数瞬かかった。
 ハムレットの一節の、皮肉たっぷりの台詞が、思わず口をついて出るほど、会いたくて、そして今、ようやく会えて、自制が利かなくなっている。
 「何だって?」
 ハインリヒが、眉を寄せて、怪訝な顔をする。
 思わず、照れの微笑を浮かべて、何でもないと、慌てて首を振る。
 奇妙に打ち解けた、勝手にしろとでも言いたげな表情を浮かべ、ハインリヒが肩をすくめた。
 それから、また、ふたりそろって言葉を探すように黙り込んだ後で、
 「・・・帰るのか。」
 まるで、辺りをはばかるように、声が低い。そんな必要はないのにと思いながら、けれど、そうするべきだと同意しながら、ジェロニモはやっと体を回して、自分に声をかけたハインリヒへ、1歩近づいた。
 「たった今、出て来たところだ。」
 そうかと、言った声が残念そうに聞こえたのは、ジェロニモの思い込みだったのかもしれない。
 見下ろして、見上げて、それ以上話すことは特になく、それでもふたりは、そこで立ち止まったまま、互いに言葉を、相手の顔の上に探しでもするように、見つめ合ったままでいる。
 グレートの店の中でなら、グレートにグラスを差し出して、愛想のない間をごまかすこともできるけれど、今ここに、ふたりはふたりきりでいた。
 ハインリヒが、ジェロニモが曲がろうとしていた道の方へ向いて、ひとり言のように、ぼそりと言う。
 「日曜の朝に戻って来たら、家に帰る前に、次の仕事を押しつけられた。トラックの中で1週間も寝るのは、しばらくごめんだ。」
 なるほど、と思って、知らずに口元がゆるむ。
 言った通りに、グレートの店に顔を出さなかった---別に、そう決まっていたわけではないにせよ---理由を、こうして向こうから言い出すほどには、ハインリヒも気にかけていたのだとわかって、自分の一人合点を、ジェロニモは胸の中で笑った。
 あんたは、とハインリヒが、また、細く言葉を続けた。
 「あした、また、来るのか?」
 首筋や、頬が火照る。酔いのせいではないと、知っているくせに、酔いのせいにしたがっている自分がいる。
 酔いは、人影を認めた時に、すでに醒めていた。
 もっと酔っていれば、もう少し近づいて、もう少し、先へ進めそうな気がした。けれど、そうしたい自分自身を引き止めて、ジェロニモは短く返事をした。
 「ああ、来る。」
 ハインリヒが、にやっと笑う。
 「じゃあ、その時に。」
 右手を、ジェロニモに上げて見せ、短い会話に満足したように、ハインリヒはまた歩き出す。
 脇をすり抜けるハインリヒの、右手が、いつもと変わらず革手袋に包まれているのを見て、明日かと思った。
 店の方へ向かうハインリヒには、もう振り向かず、角を曲がってから、もう一度空を見上げた。
 そぞろ歩きには、良い夜のように思えた。



「路上」

 今夜は、先に来ていたのはハインリヒの方だった。
 カウンターから、グレートが、ハインリヒにはわからないように目配せしてくる。こちらを見て、ハインリヒが、薄く微笑んだのに励まされて、ジェロニモは、足早にカウンターに近づいた。
 久しぶりに肩を並べてグラスを傾け、相変わらず会話は弾むわけでもなく、それでも今夜は、沈黙がひどく心地良く、ジェロニモは、ウイスキーに映る自分の小さな顔が、かすかに微笑んでいるのに、微笑みを返す。
 いつもよりも、ゆっくりとウイスキーを飲みながら、自分が酔いたいのか酔いたくないのか、よくわからないままでいた。
 ハインリヒは、もう2杯目をグレートから受け取っていて、グラスに添えた右手をちらりと見てから、ジェロニモは、その手に触れたいと、また思う。
 もう少し先へ踏み出すためには、もう少し酔いが必要な気がした。けれど、酔いを言い訳にするのは性に合わず、素面なままの今このままで、そんな勇気が自分にあるだろうかと、ぽつりぽつりとこぼれる言葉の合間に、ずっとそんなことを考え続けている。
 ジェロニモにそう言った通りに、日曜の朝に街に戻って来た途端、急ぎの仕事を押しつけられたのだと、ハインリヒが話す。
 予定を入れていた運転手が、ひどい風邪で仕事に出て来れず、日曜の朝早くで、他に誰もつかまらず、仕事が終わったと、報告に行った事務所で、泣きつかれたんだと、静かに笑った。
 「行った先で荷物を下ろして、それから、戻って来る便を待たされて・・・その時だけ、モーテルのベッドで、8時間寝れた。他は全部、ハイウェイで、路肩にトラックを止めて仮眠だ。」
 「シートで寝るのは、大変そうだな。」
 「いや、座席の後ろに、仮眠用のスペースがあるんだ。ちょっとした、小さいアパートメント並みだ。3日くらいなら、耐えられる。」
 珍しく、声を立てて笑う。
 大きなトラックのことは、よくは知らない。座席の後ろに、そんなスペースがあることも、ジェロニモは知らなかった。
 「トラックの中に、住んでるようなものか。」
 茶化すつもりはなく、言った。
 また、ハインリヒが、おかしそうに笑った。
 「たまに、仕事でもないのに、トラックの中にいたい時がある。」
 少しの間考えてから、そうだろうなと、自分のことを思い合わせながら、相槌を打った。
 ハインリヒが、3杯目をグレートから受け取った時、革手袋の右手が、カウンターの下で、膝の上に乗せられたままなのに気づいて、ジェロニモは、それを横目で見ながら、ようやく勇気をふるって、そこに、自分の左手を乗せた。
 こちらへは振り向かず、けれど、明らかに驚きを横顔に刷いて、ハインリヒが、唇の傍で、持ち上げかけたグラスを止める。
 振り払われない限りは、そのままでいようと、ジェロニモは、掌に力を込めた。
 革は、なめらかで、使い込まれているのか、指の腹が触れても、きしんだ音を立てない。
 その下の、ハインリヒの手は、驚くほど硬かった。
 何か、不自然だと思って、触れた手の輪郭を、指先までなぞって、それから、その手が、かすかに震えているのに気づいた。
 首筋に、うっすらと血の色が上がっているのを見て、ジェロニモは、指先だけを強く握って、それから、手を離した。
 ハインリヒは、それきり口をつぐみ、ひどく早いペースで、3杯目を終わらせると、
 「出よう。」
 短く、言い捨てて、席を立った。


 ふたりが、一緒に店を出たのを、グレートがどう思ったのか、ハインリヒの背中ばかりを見ていて、ジェロニモは気づかなかった。
 階段を上がり、地上へ出て、店の駐車場へ入る裏口の近くで足を止めて、ようやくハインリヒが振り返る。
 唇が、憤りなのか、怒りなのか、引き結ばれて、少し震えているのが見えた。
 その唇よりも、淡い灰色の瞳が、もう少し雄弁に何かを語っていて、けれど、それを読み取ろうとは、ジェロニモはしなかった。
 ジェロニモが、何も言わないせいなのか、またハインリヒの首筋に血が上がり、コートのポケットの中で、拳を握りしめているのが、はっきりと見て取れる。
 怒らせたのなら、どう謝ろうかと、けれど一向に深刻にもならず、どこかで、面白がっている自分がいることに気づいて、ジェロニモはひとりで驚いていた。
 それはもしかすると、投げやりになり過ぎていて、もう、どうにでもなれと、思っているせいかもしれなかった。
 気分を荒立てているのは、自分だけなのだと悟ったのか、ジェロニモが、何も言わずに見つめるだけなのに、ようやくハインリヒは、軽く頭を振って、顔を横に向ける。
 ハインリヒの頬から、血の色が消えてゆくのに、励まされたというよりも、もう、どうなってもかまわないと思って、ジェロニモは、やっと、言いたかったことを口にした。
 「手を、見せてくれ。」
 ハインリヒが、打たれたようにあごを引いて、自分の右側を隠すように、肩を右側にねじる。
 そんな仕草には、頓着しないふりで、ジェロニモは、左手を、真っ直ぐにハインリヒへ向かって伸ばした。
 一体、どれほどそうしていたのか、いやだと、ハインリヒは言わず、そんなハインリヒから、ジェロニモは視線をそらさない。
 人通りもない路上の影で、やっと、ハインリヒの肩が動いた。
 ポケットから取り出した右手を、甲を上に、まるで、注射をこわがる子どものように、おずおずとジェロニモに差し出す。
 ハインリヒの---そして、ジェロニモ自身の--ためらいが、勝ってしまわないうちに、素早くその手を受け取って、コートの袖口からのぞく、薄いセーターの袖に、ジェロニモは、そっと親指を滑り込ませた。
 そこに、ごく当たり前に期待される感触はなく、驚きを外にはまったく出さずに、ジェロニモは、両手を添えて、革手袋を外し始めた。
 触れた手首に、脈はなく、体温もなく、そして、皮膚の感触もない。よく使い込まれた、やわらかな革の下から現れたのは、鈍い、深い鉛色の、手の形に組み合わされた、金属片の集まりだった。
 外した手袋を、ジェロニモから取り上げ、さり気なく、右手も引き寄せる。するりと、自分の掌から去った鉛色の機械の手の行方を追って、またジェロニモは、ハインリヒと見つめ合った。
 右手を、手袋ごと、またコートのポケットにおさめ、ハインリヒが肩をすくめる。
 まるで、期待外れだったろう、とでも言いたそうな仕草に、ジェロニモはふと、悲しくなった。
 ハインリヒの右手を取った手は、まだ、宙に浮かせたまま、気の利いたことひとつ言えない自分を、ハインリヒは、いやな奴だと思っているのかもしれないと思う。
 こんなことを、すべきではなかったのかもしれないと思いながら、それでもまだ、ハインリヒの右手を、もっと間近に眺めてみたいと思っている自分がいる。
 下世話な好奇心ではなく、それは、その人のことを知りたいと思う、ごく単純な衝動の一部に過ぎなかった。
 自分ほどではなににせよ、訊かれない限りは、自分のことを語らないハインリヒのことを、もっと知りたがっているのだと、初めて素直に思った。
 ああ、そうかと思って、硬い表情のまま、自分を上目に見つめ返しているハインリヒに、うっすらと笑いかけたことに、ジェロニモは気づかなかった。
 「・・・グレートが、前に、うまい紅茶のいれ方を、教えてくれた。」
 唐突に、思いついたことを口にして、気まずい空気が、一瞬途切れる。
 視線をそらし、また肩をすくめて、ハインリヒが言葉を返した。
 「それなら・・・俺も、知ってる。」
 応えてくれたことに勇気づけられて、ジェロニモは、そのまま、言葉を続けた。
 「酔い覚ましに、一杯どうだ?」



「決心」

 車の中で交わした会話と言えば、ジェロニモの車がヴォルヴォで、ハインリヒが使っているトラックも、ヴォルヴォだと言うことだけだった。
 ヴォルヴォが、大きなトラックをつくっていることを、ジェロニモは知らず、そこから先に、会話は進むことはなかった。
 居心地の悪さを、肩の辺りに漂わせて、それでも、黙ったままジェロニモに着いてくる。
 「あんた、ひとりなのか。」
 アパートメントに入って、ドアを閉めて、リビングで立ち止まって、中を見回して、ハインリヒがそう訊いた。
 ああ、と振り向きもせずに返事をして、キッチンで上着を脱ぐ。
 すぐに冷蔵庫を開けて、ミルクを取り出した。
 リビングとキッチンを仕切る形に置いてある、小さなカウンターの上に脱いだ上着を放って、ネクタイをゆるめながら、小さな鍋をストーブに乗せた。
 ハインリヒが、動かないままなのを背中に感じながら、まだ振り向かないまま、紅茶の葉をから煎りする。わずかに焦げた匂いが立つと同時に、水を注ぎ入れて、じゅっという小気味いい音に、ジェロニモは、いつものように目を細めた。
 しっかりと煮出した、香りの強い紅茶が好みだった。ハインリヒの好みはあえて訊かずに、いつもと同じようにミルクを注いで、煮立てて、こぽこぽと音を立てて、薄茶色の、濃い熱い紅茶を、大きなマグに注いだ。
 ハインリヒは、まだ長いコートも脱がずに、リビングの真ん中に突っ立ったままで、こちらへマグを抱えてやってくるジェロニモを、じっと見ていた。
 どこか、構えたような表情に、おそらく、何か冗談でも言って、緊張を解いてやるべきなのだろうと思いつつ、笑顔も浮かべられないまま、ジェロニモはむっつりと、黙ったままで湯気の立つマグを差し出す。
 緊張しているのはお互いさまだと、言い訳にもならないことを思う。
 紅茶の表面を見下ろして、湯気を吸い込んで、ハインリヒが目を細める。うっすらと張った、ミルクの膜に息を吹きかけ、熱を冷ましながら、その膜を、マグの縁に追いやろうとするのが、ふたりとも同じで、ジェロニモは、マグの影でこっそりと微笑んだ。
 一口、そっとすすってから、ハインリヒが、ミルクで白く染まったままの唇を開いた。
 「アッサムか。アールグレイは苦手なんだ。」
 「あれは、夏向きだな。冷やした方がいい。」
 「ニルギリはどうだ。」
 「手に入りにくいのが難点だ。」
 「グレートが、いい紅茶専門店を知ってる。」
 にやっと、ハインリヒが笑う。
 白く濡れた唇を、舌先が舐める。それから、慌てて目をそらして、ジェロニモはまた、マグの縁に口元を近づけた。
 ハインリヒは、まだコートも脱がず、リビングに突っ立ったままで、ふたりで紅茶を飲む。ミルクの甘い匂いが、部屋の中に漂い始めていた。
 その、グレートが知っている紅茶専門店とやらも、誘えば、一緒に行けるだろうかと思った時に、ハインリヒが、肩越しに後ろを振り返った。
 「バルコニーがあるのか。」
 大きな、ガラスの引き戸を眺めて、訊く。
 「ああ、ハイウェイがすぐそこだ。緩急地帯の森がある。」
 森、と口の中でつぶやいて、ジェロニモの許可も得ないままで、バルコニーへ通じる引き戸の方へ歩いてゆく。
 ロックしていない戸を、がらりと開けて、少しばかり冷たい風にも構わず---コートを脱いでいないのが、ちょうど良さそうだった---、ハインリヒの背中が、外へ出た。
 開いたままの戸から、風が入ってくる。それに目を細め、闇の中に溶け込んでしまう、暗い色の、ハインリヒの後姿に引き寄せられるように、ジェロニモも、ゆっくりと足を前に出した。
 無意識に、ゆるめたネクタイの結び目に、さらに指先を差し込んで、軽く引き下ろしながら、ハインリヒの背後に、近づきすぎずに、そっと立つ。
 「意外と静かだな。」
 「夜だからな。」
 「昼間は、うるさいのか。」
 軽く振り返ったハインリヒに、肩をすくめて見せてから、ジェロニモはまた、紅茶をすすった。
 「朝は、車の音より、動物が多い。鳥と、リスと、ウサギもよく見かける。それから、アライグマと。」
 よどみもなく、名前を上げてゆくと、ハインリヒが、感心したようにジェロニモを見上げ、声を立てて笑った。
 つられて、笑い返しながら、ふたりで、夜の森を眺めていた。
 高速を走る車も、今はまばらで、ひっそりと静まり返った森の向こう側からは、何の音も気配も伝わっては来ず、それでも、まるでそこにいるはずの、いきものの姿をとらえようするかのように、色の淡い視線を、暗い森に注いで、ハインリヒは、無言のままでいる。
 紅茶は、今は、手の中で、温かいだけになっていた。
 「春先になると、ハイウェイに動物が飛び出してくるようになる。自分や、他のドライバーが事故に遭うのと、動物を轢くのと、どっちがマシか、考えるだけで憂鬱になる。」
 肩が、少し落ちたように見えた。
 反論でもなく、同意でもなく、ただ、自分の思ったことを、ジェロニモは素直に舌に乗せた。
 「道路を敷いたのは人間だ。動物は、自分たちの、昔からの通り道を使ってるだけだ。」
 「何も犠牲にせずに、欲しいものを手に入れようなんて、甘ったれた考えだってこった。」
 皮肉笑いが、ハインリヒの口元に浮かぶ。
 噛み合っていないように見えて、同じようなことに、同じような心の痛め方をしているのだと、伝え合っているように思えた。
 不意に、小さくなったように見える肩を、今なら抱き寄せられるような気がした。
 「朝には、鳥がたくさん集まる。」
 そう、何気なく言って、右腕を伸ばした時、不意にハインリヒの背が伸び、ジェロニモの方へ振り返って、マグを持ち上げ、残っていた紅茶を全部飲んだ。
 奇妙に照れくさそうな表情を浮かべて、空になったマグを差し出し、ハインリヒが薄く笑う。
 伸ばした腕で、そのままマグを受け取り、
 「うまかった、ありがとう。」
 そう言って、ジェロニモの前をすり抜けて、部屋の中へ戻ってゆくハインリヒの背を見送り、帰るつもりなのだと悟るまでに、一瞬かかった。
 慌てて、真っ直ぐに玄関へ向かってゆく、ハインリヒの背中を追い、キッチンのカウンターにマグを置いて、ドアの前でやっと追いついた。
 「帰るのか。」
 体半分だけ振り向いて、どこか気弱そうに、ハインリヒがまた笑う。
 「遅くなるからな。」
 右手は、コートのポケットに収まり、左手は、ドアのノブにかかっていた。
 心を決めかねているのが、仕草に現れていて、けれど、決心がつかないのなら、それはそういうことだと、ジェロニモは、それ以上は言葉を重ねて、引き止めるのはやめようと思う。
 ハインリヒは、まだドアを開けず、爪先を、じりじりと床の上で滑らせながら、どこか名残り惜しげに、斜めにジェロニモを見上げている。
 やめようと、思って、手が動いた。
 ドアのノブにかかった、ハインリヒの左手に、自分の掌を重ねて、驚いたように喉を伸ばしたハインリヒに向かって、顔を落とす。
 やめておけと、頭の中で声がしたけれど、重なった唇を離そうとは、思わなかった。
 左手に触れていた手を離し、ハインリヒの頬に添える。かすかに、抗う気配があって、けれどそれは、驚きと戸惑いに変わり、そして、静かになった。
 抱き寄せることはしなかったけれど、唇と頬に触れて、久しぶりの、ピュンマ以外の誰かの肌のあたたかさに、ジェロニモは、ずっとこのままでいたいような、そんな気になりながら、そんな自分を引き止めて、ようやく唇を離した。
 まだ、鼻先の触れそうな近さに、顔を寄せたままで、ゆっくりと閉じていた目を開くハインリヒの、震えるまつ毛に、視線を奪われていた。
 「帰るなら、送ろう。」
 そんな必要もないのに、声をひそめて、ささやくようにそう言った途端、さっきまでの戸惑いがうそのように、ジェロニモの胸の前で体をひねり、背中を向けて、急いでドアを開き、ハインリヒはもう、爪先を、外へ滑り出していた。
 「ひとりで帰れる。」
 言い捨てるように言って、うっすらと赤らんだ横顔がそこから消え、鉄のドアが、ジェロニモの鼻先でがたんと閉まった。
 人の体温が消え、うそ寒い空気が、胸の前を包んだ。
 急に静かになった部屋の中で、ひとりを持て余して、ジェロニモはそこに立ったまま、憮然とドアを見つめていた。
 仕方がないと思う自分と、情けないと思う自分と、どちらにせよ、このことを言えば、ピュンマはひどく怒るだろうと思って、自分に軽く腹を立てながら、ジェロニモは首の後ろに手をやった。
 ゆるめたネクタイを解き、だらしない格好のまま、ズボンのポケットに両手を入れて、肩を丸め、情けない自分の姿を思いながら、まだドアの前から去れずにいる。
 未練がましいと、ようやく、鍵をかけるために、ドアのノブに手を伸ばした瞬間、外から、ドアが開いた。
 わざわざ走って戻って来たのか、コートの前が少し乱れ、下から、すくい上げるように、ジェロニモをにらみつけているハインリヒがいた。
 ジェロニモが口を開くより先に、また中に滑り込んで来て、ドアを後ろ手に閉め、ハインリヒが、火照った頬の線と唇を震わせて、理由のよくわからない---ジェロニモにも、ハインリヒ自身にも---怒りを、全身から発散させている。
 「・・・あんた、何のつもりだ、一体。」
 声が、震えて、途切れた。
 質問の方向がわからず、ジェロニモは、何も言わずに、ハインリヒに先にしゃべらせようと、ずるく立ち回ることに決めた。
 「からかうんなら、他のヤツにしてくれ。」
 なるほど、と思って、けれど表情には出さず、言いがかりをつけられて困っている、というふうに、ハインリヒを見つめるだけにする。
 ピュンマなら、こんな時に相手を怒らせずに、うまく本音を聞き出すのだろうと思うけれど、それは、ジェロニモの得手ではない。
 本音を探り出すなら、こちらも胸の内を明かすのが礼儀だと思って、けれど、急いで吐き出しすぎて、相手を怯えさせることだけは、避けたかった。
 こういうことに慣れていないのは、どうやらお互いさまだと、素直にハインリヒの質問に、答えることにした。
 「からかってるつもりはない。」
 答えになってないなと、言ってから思う。案の定、ハインリヒはむっと黙り込んで、足元に視線を落とした。
 爪先が、まるで、叱られている子どものように、床の上で動いているのが見える。自分がどうしたいのかわからない戸惑いと腹立ちが、ハインリヒをここに連れ戻したのだと知っていて、そこにつけ込むのがいちばん簡単なのだろうと思いながら、それができるほど、ジェロニモもずるくはなれない。
 この場から逃げ出したいと、ふと思った。
 また、ピュンマのことを思って、あの男なら、こんな下らない手間をかけて、相手を戸惑わせることもないのだろうと思う。
 ハインリヒに聞こえないように、ジェロニモは、こっそりとため息を降り落とした。
 前髪を揺らし、顔をねじって、斜めにジェロニモを見上げ、ハインリヒが、下唇を噛んで見せた。
 「あんたが・・・どういうつもりかはともかく・・・あんたは、俺のことなんか、何も知らない。」
 コートのポケットの中で、ハインリヒが、右手を握りしめたのが、はっきりと見えた。
 人には、それぞれの事情がある。それも含めて、知りたいと思うなら、踏み込むしかないのだと、それを見て、ジェロニモはようやく決心をつけた。
 ハインリヒの、動いていた爪先を、こつんと軽く蹴った。驚いて、真っ直ぐに顔を上げたハインリヒに向かって、微笑みを消して、低く言った。
 「知らないなら、これから知ればいい。」
 抗わせるより先に、両腕ごと、抱きしめてしまった。
 くちづけは、さっきのそれよりも激しく、もがいていた肩が動きを止め、それから、やっと、両腕が背中に伸びてくる。
 この男が欲しいのだと思って、ピュンマの幻が、あちらへ消えてゆくのを見届けてから、ジェロニモは、今はおとなしく抱きしめられている耳元で、小さくささやいた。
 「・・・右腕を、見せてくれ。」
 恐ろしいほど、長すぎるように思える間があって、ようやく、返事の代わりに、ハインリヒの右手が、ジェロニモのシャツを握りしめた。



「名前」

 明かりは消してくれと言われ、素直にそうした。闇に目が慣れるより先に、抱きつかれ、どこかに必死さを感じる肩の震えに、躊躇しながら、背中を抱きしめた。
 明らかな金属の感触は、指先から、首の付け根近く、右の胸の半分を覆っていて、つるつるとしたその表面は、思ったよりも暖かく、掌を広げ、そこに置いた。
 首筋をたどって、頬に手を添え、それから額を撫でて、髪を乱すと、胸を重ねて口づける。
 シーツの上に投げ出された右腕を取って、握りしめながら、肩に乗せさせると、最初は頑なに閉じていた手が開き、唇の重なりが深まるにつれ、少しずつ、首の辺りを動き始める。
 血の気のない、体温の低そうに見える白い膚に、うっすらと赤みがさすのが、視線ではなく、触れている皮膚に伝わる。
 血の流れる音が、重なったような気がした。
 口づけるたびに、ミルクと紅茶の香りが、かすかに舌の奥に乗る。ぎこちなく手足を絡めながら、躯がそうしたいと思うように、今すぐ飲み込んで、飲み込まれて、果てを見てみたいと思う。それを押しとどめながら、見知らぬ膚に触れることを惜しがって、まるで、細胞のひとつびとつを確かめるように、ゆっくりと、少しずつ指先を動かす。
 ハインリヒが、自分の体---右腕---を隠したがっているのは、明らかだった。
 それならそれで、今はいいと、無理に姿勢を元に戻すようなこともさせず、自分の腕の中で、不自然に体をねじるハインリヒに、触れることはやめないまま、みぞおちの辺りに掌を乗せる。
 胸と背中を合わせて、後ろから抱きしめて、爪先で、ハインリヒの足を探った。
 同じベッドに、誰かと一緒にいるというのは、奇妙な感じがした。
 ひとりで寝るのは苦にならない。淋しいと思うよりも、自由に手足を伸ばせる空間の方が大事だと思っていて、本を読む途中で寝入ってしまっても、誰の迷惑にもならない、そんな小さなことの方が、自分には性に合っているのだと、ずっと思っている。
 そう思いながら、夜、ふと目覚めて、この背中が目の前にあるのも、かすかに心の弾むことのように思えた。
 態度の不器用さと同じに、こんな時だというのに、背中を縮めたままでいるハインリヒに、ジェロニモは焦れることもない。
 ハインリヒの髪を撫でながら、少しばかり現実に立ち返って、さて、とジェロニモは思った。
 必死な様とは裏腹に、受け身なままでいるハインリヒが、こんなことには慣れていないのは明らかで、それは自分も同じことだと思いながら、とりあえず、先を急ぐのはまずいだろうと、それだけは見当をつけて、ジェロニモは掌を、ゆっくりと下へ動かした。
 一通りのことを、自分がされるのはかまわないけれど、するとなれば、相手に準備がいる。ハインリヒが、そこまで覚悟を決めているとも、そんなことに準備万端なタイプとも思えず、ジェロニモ自身も、こんなふうに事が運ぶとは思っていなかったから、それはそれでいいと、無理強いする気もなかった。
 様子を見ながら触れて、いやがられないことを確かめてから、ジェロニモは、体を起こして、ハインリヒを、自分の膝の間に抱き起こした。
 向き合って、胸を合わせて抱き合うと、ずれた肩の位置の分だけ、ハインリヒが、首を伸ばす。そうやって、互いの背中に腕を回してから、ジェロニモは、ハインリヒの右手を取った。
 冷たくて、暖かい掌を重ねて、導いて、一緒に触れた。
 もっと近く、ハインリヒを抱き寄せると、触れた部分が、もっと近づいて、ハインリヒの立てた膝が、もがくように動く。
 ジェロニモがそうするように、ハインリヒも両手を差し出して、けれど右手を動かすのに、ためらいが混じる。
 肩にあごを乗せているハインリヒの頬に、ジェロニモは、自分の頬をすりつけた。
 一緒に、重ねた掌を動かして、そうしながら、唇を重ねた。
 耳の奥に、濡れた舌の、絡まる音がする。誰かと親密に触れ合うというのは、こういうことだったのだと、その音を聞きながら、思い出していた。
 硬い、金属が触れる感触も、悪くはないと思った。
 励ますように、ハインリヒの右手を引きつけて、いつの間にか、短く切れる湿った息が、一緒に重なっていた。


 互いの肩で、互いを支え合って、それからまた、シーツの上に横たわった。
 濡れて、汚れた手を気にしながら、それでもごく自然に、背中や腰に腕を回して、離れがたいとでも言うように、互いの肩や首筋に、鼻先をこすりつけている。
 「もう、いいのか・・・?」
 ハインリヒが、声を低めて、訊いた。
 右肩に、心づけの接吻をしていたのを、途中で止めて、ジェロニモはそこから顔を上げる。
 見つめられて、ハインリヒが、頬を染めて、目を伏せた。
 「・・・無理をするなら、それなりに準備がいる。」
 言われたことに思い当たったのか、ハインリヒが、またさらに、顔を下に下げた。
 「・・・慣れてなくて、悪かったな。」
 胸元に、しゃべる息がかかる。
 丸まった背中を抱き寄せてから、
 「慣れてないのは、お互いさまだと思うが。」
 そうあっさり返すと、腕の中で、恥じ入ったように、ハインリヒの体がいっそう小さくなる。
 そんな振る舞いにふと、このまま無理を強いてしまいたい気もして、ジェロニモはこっそりと首を振った。
 ろくでもない考えを忘れてしまうために、また腕に力を入れて、このまま眠ってしまうふりをしようと思う。
 ジェロニモの腕の中におさまったまま、窮屈に、手足を引き寄せた体を、もぞもぞと動かして、ハインリヒが、聞こえないため息をこぼしたのを感じた。
 腕の力をゆるめると、ようやく首を伸ばし、申し訳なさそうな顔を見せて、ハインリヒが、ジェロニモの腕から、少し体を離した。
 「人に触れて寝るのは、好きじゃないんだ。」
 正直に打ち明けられれば、傷つく必要もなく、ジェロニモはそのまま、ハインリヒの体に巻いていた腕をほどいた。
 腕を解かれ、どうしようかと、迷う表情を見せてから、ハインリヒは、くるりと寝返って、ジェロニモに背を向けた。
 毛布を、きっちりとあごまで引き上げて、その下で、また手足を引き寄せて、ジェロニモの目の前で、長いまつ毛がゆっくりと落ちる。
 眠ってしまうのかと、見定めて、ジェロニモも、背中を向けるように体の向きを変えた。
 傷ついてはいなかった。拒まれたとも思わない。ただ、そういうことなのだと納得して、ハインリヒに触れないように、向け合った背中と背中の間に、充分な距離があることを確かめてから、ジェロニモは眠るために目を閉じた。
 しばらくしてから、声が聞こえた。
 「アルベルト。」
 閉じていた目を開けて、首だけを、声のした方へねじった。
 「なんだ・・・?」
 「俺の名前だ。」
 「・・・アルベルト?」
 ああと、うなずいた銀色の髪が、揺れて見えた。
 ハインリヒが、名字だったとは知らなかったと、口の中でだけつぶやいて、ジェロニモは、ハインリヒがまだ何か言うかと、数秒待った。
 それきり、またハインリヒは目を閉じてしまったのか、声が聞こえることはなく、軽くシーツから浮かせた肩を、また元通りにして、ジェロニモも目を閉じた。
 互いの息遣いを聞きながら、互いに、まだ眠ってはいないのだと、気づいている。
 今度は、ジェロニモが声をかけた。
 「アルベルト。」
 「なんだ。」
 初めて呼んだ名前に、一呼吸置いて、応えた。振り向かないままだった。
 「・・・いい名前だな。」
 目を見開いたのが、ほんのわずかな、肩の揺れでわかる。
 ベッドの中で震えた空気に、その気配を読み取って、ジェロニモは、目を開けて、瞳だけを動かした。
 ああ、とハインリヒが、ようやく言った。
 それきり、ふたりは、背中を向け合ったまま、眠りに落ちた。



「酔っ払い」

 夜明け前に目が覚めると、もう、ベッドは空っぽだった。
 背中の寒さに、ふっと全身を震わせてから、とうにぬくもりの消えているベッドのあちら側を見て、ジェロニモは、自分がひどく失望しているのに、驚いていた。
 寝ている間に、伸ばした手足に触れる、他の誰かの体温を、恋しがっている自分に気がついて、シーツに手を滑らせて、どこかにハインリヒの体温が残っていないかと、指先を伸ばす。
 シーツはもう、ひんやりと冷たく、空気の中にも、もう痕跡もない。
 ずいぶんと静かに去ってしまったのだなと思ってから、シーツに触れた掌を見下ろし、小さくつぶやいてみた。
 「アルベルト。」
 呼べば、応えてくれるような気がしたけれど、どこからも返事はなく、やはり帰ってしまったのだとようやく納得して、ジェロニモはまた、そこにはいないハインリヒに、背中を向ける姿勢で、毛布の下にもぐり込む。
 ひとりだとわかってしまえば、背中の寒さが去らず、肩をすくめて、思わずため息をこぼした。
 あれこれ、甲斐もないことを思い悩むのは、性には合わない。在ることは、在ることとして受け入れてしまえば、生きるのはずっと楽になる。
 いつだって、そうして来たのにと思って、また、ため息がこぼれた。
 もう少し、きちんと話をすればいいのだ。先走る感情に流されてばかりいて、肝心なことは、何ひとつ口にしていない。
 自分が、案外と臆病な人間なのだと、ジェロニモは、初めて気づいていた。
 決定的なことを口にして、拒まれるのが怖いのだと、そうやって、自分の気持ちの奥底をのぞき込んで、誰にも触れさせようとしない右腕を、見せてくれたハインリヒの方が、よほど勇気があるのかもしれないと思う。
 自分が小心者であると、自覚することが、気分のいいことであるわけもなく、眠れないまま、ゆるゆると瞬きを繰り返しながら、ジェロニモは不意に、大きな動作で、ベッドの上に起き上がった。
 毛布を持ち上げ、体をずらすと、寝ていた場所から、ハインリヒのいた方へ移動する。そこが、正しい位置だと確かめるように、ぽんぽんと掌で叩いて、それから、そこに体を横たえた。
 ハインリヒがそうしていたように、自分のいた位置に背を向け、毛布を引き上げると、普段は伸ばして眠る手足を、体の近くに引き寄せる。
 子どものように体を丸めて、ハインリヒのことを思いながら、ジェロニモは、ひとりで眠るために目を閉じた。


 何となく、グレートの店に足が向かず、ハインリヒに会わないまま3日ほど過ぎていた。
 会いたいと思いながら、会えば、口も聞けなくなるような気がして、あの朝、ひとりきりで目覚めてしまったことが、すべてを物語っているような気がして、会えば、知りたくもないことを、思い知らされてしまうのだと、思い込んでいた。
 自分を、ずいぶんと情けない人間なのだと思って、そうしてようやく、一体何がどうなっているのか、自分で確かめない限り、もっと情けなくなるだけだと、自分を励ました。
 もちろん、そんな必死さは、外に現れるわけもなく、いつもと変わらない無表情でグレートの店に足を踏み入れたのは、もう深夜に近い時間だった。
 カウンターには、もうすっかり見慣れてしまった気のする、色の淡いハインリヒの姿があり、それを認めて、一瞬足を止め、安堵と不安の入り混じった気持ちをさらに押し隠して、ジェロニモはゆっくりと店の中へ入って行った。
 グレートは、いつもの薄い笑顔で、あごを胸に引きつけるだけのあいさつを投げてよこし、振り向いたハインリヒは、誰が見てもそうとわかるほど、一瞬のうちに、頬を赤く染めた。
 上目遣いが、うろうろとさまよって、視線を避けるように、また正面を向く。
 それが、照れくささのせいらしいと悟って、ジェロニモは、ほんの少しだけ勇気づけられていた。
 ハインリヒの左隣りに腰を下ろすと、最初に、視線を投げて、革手袋の右手を探した。
 カウンターの上に置かれた右手を見つけて、どうしてかひどく安心すると、ジェロニモは、ようやくグレートの方へ、いつものウイスキーのために、軽くうなずいて見せる。
 ハインリヒが、目の前のグラスを傾けて、一気に空にした。
 「仕事が、忙しかったのか。」
 問いつめないようにしようと、抑えているのが明らかな口調の、まだ頬の赤みの消えないハインリヒの横顔に、ジェロニモは真っ直ぐに視線を当てる。頬から、薄い唇とあごをふち取る線を、目でなぞって、その唇に、触れたのだと思った。
 口の中で、ああとはっきりしない返事を返して、差し出されたウイスキーを一口舐める。
 「また、週が明けたら、仕事に戻る。」
 ジェロニモの方を見ずに、ハインリヒが言った。
 ぼそりぼそりとしゃべる間に、ハインリヒのグラスの中身は、すでに減り始めていた。
 「また、長いのか?」
 いつもよりも、肩を少し引き気味にして、ハインリヒの方へ向くと、ハインリヒも、首だけ曲げて、ジェロニモを上目に見上げてきた。
 肩をすくめてから、口元が、わずかに歪んだ。
 「3日か4日か、事故がなければ、週末には戻る。」
 そうかと、相槌を打ったきり、それ以上は話も弾まず、グレートのいる前で、先夜のことを話題にするわけにも行かず、ふたりは黙り込んで酒を飲む。
 ハインリヒはもう、3杯目を手にしていた。
 一緒に飲んでいて、たいていは3杯目で切り上げて、店を出るのに、今夜はそのまま、4杯目を頼んだハインリヒに、グレートも、奇異の目を向ける。ジェロニモの方をちらりと見て、飲みすぎじゃないかと目配せするけれど、それを止められるほど親しいわけではないと、目顔で返して、少しばかり呆れたように肩すくめて返してきたグレートを見て、やれやれとジェロニモは思った。
 カウンター越しの、ふたりの無言のやり取りに、当のハインリヒは気づいているのかいないのか、受け取った4杯目を、また一気に半分ほど干して、ふらふらと頭を揺すりながら、まだ1杯目さえ終わっていないジェロニモに、すくい上げるような視線を投げてくる。
 肩が、頭と一緒に揺れて、そして、ジェロニモの方へ傾いてきた。
 伸びてきた右手が腕をつかみ、ジェロニモの肩に頭を乗せて、体の重みを預けてくる。
 驚いて、支えるために肩をもっと突き出して、酒の匂いに軽く目を細めてから、酔いの浮かんだ頬と、色のない唇を、交互に見た。
 乱れた前髪の奥に隠れた瞳は見えず、表情の読めないハインリヒが、まるで、ジェロニモの首に口づけるように、顔を寄せてくる。
 この店で、こんなふうに触れ合う客は、誰もいない。
 グレートの、呆気に取られた顔を横目に見て、ジェロニモは、ハインリヒの振る舞いに、グレートよりももっと驚いている。
 腕をつかんでいる右手に、左手を重ねて、まるであやすようにぽんぽんと叩くと、その手を、そのまま頬へ伸ばした。
 自分の方へ引き寄せるようにしながら、
 「アルベルト・・・酔ったのか?」
 グレートが、大きな目を、さらに見開くだろうことを承知で、名前で呼んだ。
 肩に、頬をすりつけるふりをして、唇が耳元に当たる。その仕草に、心臓が跳ねるのを、無表情の下に隠して、触れた頬の熱さに、自分の掌も熱いのだろうかと思う。
 「出よう。」
 漂うような声で、ハインリヒが言った。
 「あんたのところへ、行こう。」
 ささやいた声は、誰にも聞こえないようにと、きちんと低められていた。
 もう、遠慮もなくハインリヒの肩を抱いて、グレートへ軽くうなずいて、ジェロニモは、急いで席を立った。