− シャツ −



 その大きなシャツをどこかに掛けるには、ハンガーがふたつ必要だった。
 吊るしておかない時には、キッチンの椅子の背に掛けておいたり、リビングのソファの背に置いておいたり、あるいは、洗濯のために、まとめておいた自分のシャツと一緒にしておいたりすることもある。
 それは、どう見ても、ハインリヒのサイズのシャツではなかった。
 肩幅は、羽織れば15cmは、あるべき位置から下がってしまうし、袖は手をすっぽりと覆ってしまう。裾も、膝に届きそうに長かった。
 ひとり暮らしのハインリヒのアパートメントのキッチンは狭くて、小さなテーブルに椅子が2脚、その椅子は、以前は向かい合う位置に置いてあったけれど、今は、テーブルの角を囲むように置いてある。食事をする時には、空いている椅子の背に、いつもその大きなシャツが掛かっている。
 食事をしながら、時々、ハインリヒは、食べる手を止めてシャツに触れた。時にはそのまま、まるで誰かと手を繋いででもいるように、シャツの袖をつかんだまま、食事を終えることもあった。
 ほどよく着古された、厚地のネルシャツは、白地に濃い青と緑と赤のチェックで、胸の辺りの、ボタンの糸はいくつか、少なくとも一度はつけ替えられたのか、他とは色と太さの違うものが見える。
 ボタン穴はほんの少しほつれ、袖口や襟の辺りの布地も、少しばかり薄くなっている。
 長い間、頻繁に着られて、何度も何度も洗われたのだとわかる。袖は、手首から3度折り返されたくせが残っていて、3つ目の折りの部分がすっかりすり切れているのは、そうやって、腕を良く動かす肉体労働に使われていたせいに違いない。
 ポケットは右と左の両方についていて、ちゃんとそこにもボタンのついたかぶせがついている。着て、しっかりと使われるために作られたシャツだ。肌に馴染んで、まるでもう一枚の丈夫な皮膚のように、四六時中、動く筋肉に添うために作られたシャツだ。
 着ていた誰かのことが、そんなところからよくわかるシャツだった。
 ハインリヒは、そのシャツを、小さなアパートメントの中で、いつも必ず目の着く辺りに置いていた。
 食事をする時にはキッチンに、本を読んでいる時にはソファの背に、眠る時には、ベッドの傍の椅子の上に、仕事に出掛ける時には、玄関のドアの真正面に当たる、部屋のいちばん奥の壁際に、ハンガーをふたつ使って吊るして、行ってくると、わざわざシャツに言ってから、部屋を出てゆく。
 ちょっと外へ出る時に、気まぐれで羽織ってみることもあった。
 くたびれたネルシャツは、シャツと言うよりは、小さめの毛布かひざ掛けのようだった。
 それ以上すり切れてしまうのが怖くて、あまり頻繁には洗わない。汚すこともないから、せいぜい、肩や襟の辺りに積もる埃が、時折気になる程度だった。
 シャツには、土と草の匂いが染みついていて、乾いた空気の気配と、そこに包まれていた、大地と同じ色の膚の感触を、いつも掌に思い出させてくれる。
 持ち主はここにはいないけれど、ここには、このシャツがあった。


 シャツを1枚くれないかと言ったら、ジェロニモは、少しだけ驚いた表情を浮かべた。
 荷造りのために、同じ大きさに丁寧にたたまれた衣服の山を指差して、ハインリヒは、けれど俺はひるまないと、そんな表情でジェロニモを見返していた。
 少し困った横顔で、ジェロニモが、指差されたシャツの山とハインリヒを交互に見る。
 どれも、みんな、古い。
 それは承知の上だ。むしろ着古したシャツの方がいいのだとは、さすがに口にはしないにせよ。
 ジェロニモのシャツは、どれも厚地でいかにも丈夫そうで、そして、丁寧に着古されている。馬の世話をしているなら、草の染みや泥の汚れが、あちこちに残っていてもよさそうなのに、どれも洗いざらしではあっても、しみひとつ見当たらず、ボタンもきちんと揃っている。
 普段着だからと言って雑にはせずに、どれもきちんと扱われていて、それが、ジェロニモ自身の印象とぴったりと重なっていた。
 だから、そんなシャツのうちの1枚をくれないかと、ハインリヒは言った。
 そろそろお払い箱になりそうなので、いいんだ。
 とは言え、そこまで着古しているなら、逆に愛着があって、簡単には手放せないものかもしれないと思った通り、またシャツの山を振り返って、ジェロニモが困った顔をする。
 案外と、難しい話を持ち込んでしまったのだと、気づいた時にはもう遅かった。
 会えない時間の方が長い。会えたところで、ふたりきりということも滅多になく、さまざまな、あまり大きな声では言えない事情もたくさんあって、一緒に暮らそうとは言い出しにくいふたりだった。
 もっと一緒にいたい、もっと頻繁に会いたいと、ハインリヒが素直に言うはずもなく、何事も、それはそういうことだと、丸ごと受け入れてしまうジェロニモが、わざわざ機会をつくると言うこともなく、稀に会える時だけを頼みの綱に、ふたりはそれでも、細く長く続いていた。
 国に帰れば、仕事で家を空けることの多いハインリヒは、せめて自分のアパートメントの中に、ジェロニモの代わりになるものを置いておきたいと、そうすれば、完全なひとり言ではなくて、話しかける対象ができるからと、そんなことを思いついた。
 重ねていた躯をほどいて、裸でベッドから抜け出して、たわむれに、何度か羽織ったことのあるジェロニモのシャツだった。
 抱きしめてくる腕や胸と同じほど大きくてたっぷりと自分を包む、数え切れないほど水をくぐった布は、さらりと皮膚を滑って、そうして、ジェロニモの肌の感触を伝えてくる。シャツの自分の皮膚の間に、もう1枚、ジェロニモの肌を想像して、肩も腕も余る大きなシャツの中で、ハインリヒは深く息を吸った。
 触れれば、ジェロニモのことを思い出せる。肩の厚みや、腕の長さや、胸の広さや、見上げるその背の高さや、シャツがジェロニモの形をして、ハインリヒの目の前にある。いつも。
 ハインリヒがそんなふうに考えているのが、すべてジェロニモに伝わっているのかどうか、きちんと伝えることはしないハインリヒにはわからなかった。
 ジェロニモは、シャツの山に近づいて、まるで数えるように、指先で1枚1枚に触れる。3度、上から下まで繰り返してから、数秒考え込んで、それから、下から4枚目のシャツを山から引っ張り出した。
 少し崩れかけてしまった山を支えて、そうして、ハインリヒの方に振り返ってから、紅茶のマグを差し出す時と同じ仕草で、片手で、選んだシャツを差し出した。
 ジェロニモとシャツを交互に見つめて、ジェロニモが気を変えないことを確かめるために、十数秒数えてから、ハインリヒはそのシャツを両手でゆっくりと受け取った。
 丁寧にたたまれているネルのシャツは、ハインリヒの手の中で、くたりと崩れる。広げてしまうのがもったいないような気がして、ハインリヒは、しばらくそのまま、手の中のシャツを眺めていた。
 ありがとう、大事にする。
 やっとそう言ったハインリヒに、ジェロニモが無言でうなずいた。


 小さなアパートメントに、大きなジェロニモのシャツを持ち込んで、部屋のあちこちに置いてみる。
 たかがシャツ1枚、部屋の印象を大きく変えるはずもなく、けれど、どうしてか、部屋の中が、もうひとり分の体温にあたためられたように、少しばかり過ごしやすいような気がする。
 もちろん、そんな気がするだけだ。
 シャツに向かって、おはようと言って、お休みと言う。すべてのひとり言は、もうひとり言ではなくなってしまっていた。
 空がとても青いとか、遊んでいる子どもたちを見かけたとか、買ったトマトがとてもおいしかったとか、せっかく作ったシチューを少し焦がしてしまって残念だとか、ミルクを買い忘れたとか、そんなことをすべて、シャツに向かって話しかける。
 ひとり言に気づくたびに、こぼしていた苦笑が、いつのまにか消えていた。
 何度かそのシャツを荷物に忍ばせて、長い仕事に出掛けてみたら、四六時中微笑んでいる自分がいた。
 ご機嫌だなと、みなに言われて、3度目に気恥ずかしさが勝ってからは、シャツを持ち歩くのはやめてしまった。
 出先で失くしてしまうのが、怖かったせいもある。
 ジェロニモのシャツは、ハインリヒが自分のアパートメントに帰ってくる理由になり、小さなアパートメントは、仕事の合間にただ寝るだけの場所ではなくて、きちんと、ハインリヒの場所になり始めていた。
 ひとりではない。一緒にはいなくても、会いたいと思う誰かがいる。それは、悪いことではない。
 階段を上がる。疲れた体に、荷物が重い。一仕事終わって、次の仕事まで少しの間、短い休暇がある。何をしてもいい。何もしなくてもいい。自分の部屋で、好きなように過ごせばいい。自分の家に帰って来たのだと、階段の上を見上げて、疲れているのに、ごく自然に口元がほころんだ。
 階段を上がり切る、踊り場を過ぎる、また階段を昇る、踊り場を過ぎる、4度繰り返して、上から数えた方が早い、最上階へ近い自分の部屋へ向かって、ハインリヒはきしむ廊下を歩く。鍵を開けて、ドアを開く。薄暗い、静かな部屋だ。けれど、ハインリヒの場所だ。
 目の前に、ジェロニモのシャツが見えた。去った時のまま、何も変わらない。ドアを後ろで閉めながら、ハインリヒは、うっすらと微笑んで、
 「ただいま。」
と言った。
 ジェロニモのシャツの袖の辺りが、まるで応えるように、ふわりと揺れたように見えた。


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