皮膚

 淹れたばかりのコーヒーを両手に持って、ハインリヒはすでに開けてあった裏口から裏庭に出た。長々と足を伸ばせるデッキチェアは空のまま、ジェロニモはその隣りの、コンクリートの床にじかに足を組んで坐り、裏庭の終わりから始まる森の入り口へ、じっと視線を据えている。
 こちらに見えるジェロニモの横顔は、見慣れたそれとは違う。刺青はなく、肌はほとんど銀色のように白い。あごから頬のすぐ下へ伸びたその皮膚は、ざくざくと露わな縫い目に縁取られて、ジェロニモの唇のこちら側の端を歪ませていた。
 自分の肌の色を、他人の顔の上に見ると言うのは奇妙なものだ。ことに人種の違う、肌の色の異なる誰かの顔の上に、自分の皮膚を眺めるのは、どこか夢のように頼りない感触があった。
 こちら側の耳はない。左目もほとんど閉じられたまま、頭頂部にいつもなら丁寧に剃り残されている髪も、その部分は今は元はハインリヒの背中にあった皮膚に覆われて、それがジェロニモだと知らなければ、一体誰かと首を傾げるような様相だった。
 首まで息苦しげにシャツのボタンをとめているのは、今はほとんど体に皮膚がないからだ。剥き出しの装甲を晒すわけには行かずに、長袖のシャツをきっちりと着込んで、いつもならそれがハインリヒの十八番なのに、今はジェロニモが、鉛色の両手を膝に乗せていた。
 全身の皮膚と装甲の表面部分と、耳や眼球が出来上がるのを、ジェロニモは待っている。ギルモアとイワンが必死で作業をしている。応急処置はして、動き回ることに支障はない。けれど、まだらに焼け焦げた皮膚と装甲は取り替えるより他なく、砕けてしまった人工頭蓋骨のせいで剥き出しになったままの脳髄は、今はハインリヒの皮膚にようやく覆われているだけだ。
 家の中から離れるわけには行かず、森へのパトロールもままならない。そこに住む小さな生きものたちのことを、ジェロニモはいつだって気に掛けている。
 ハインリヒはしばらくそうして森の方を見つめているジェロニモを眺めてから、やっと爪先を前へ滑らせた。
 ジェロニモの好みにミルクを入れたコーヒーは、ジェロニモの肌の色ととてもよく似ている。


 一体、どんな原理の爆弾だったのか、イワンの分析によれば、広範囲に被害を及ぼすためではなく、当たった対象だけが効果的に傷つくように設計されたものだと言う。
 ある種の組成や素材に触れると強力に発火する物質が含まれ、発火するとその一点で温度が急激に上がる。その温度の急激な変化は、体のどの部分よりも頑丈に作ってあるはずの人工頭蓋骨を砕いて、穴を開けてしまった。
 不幸中の幸いに、発火性物質は頭蓋内へは入り込まず、重力に従って、ジェロニモの防護服の中へ滑り込んで行った。
 小さな、けれど無数の炎に焼かれて、どれほど苦痛の時間が続いたのか、助けようと駆け寄った誰にも分からない。ジェロニモがかばおうとしたフランソワーズにはかすり傷ひとつなく、けれど、顔の半分を炎と衝撃で砕かれてしまったジェロニモのその姿を目にするのは、フランソワーズには少しばかり酷だったようだ。
 何とか火を消し──消えるのを待つしかなかった、と言う方が正解かもしれない──、気を失ったジェロニモの重い体を引きずって、ドルフィン号へ運び込むにはイワンの助けが必要だった。
 ギルモアは、ジェロニモの様子を見た途端に顔色を変えて、次に施術室から出て来た時には、もっと顔色を失っていた。
 「頭蓋骨の穴を覆わんことには応急処置もできん。」
 ジェロニモのことを心配して、ジョーになだめられても自分のせいだと半ば半狂乱のフランソワーズを気遣う余裕も、その時のギルモアにはなく、見た通りだった被害のひどさに、全員が声を失う。
 そして、一時的に覆うために充分な範囲の皮膚は、ジェロニモには残っていなかった。小さな火に焼かれた人工皮膚はあちこちひどく焦げて、その下の装甲もひどく傷めつけ、高温に巻かれたショックでジェロニモはまだ気を失ったまま、何をどうするにせよ、まずは剥き出しになった脳を保護しなければと、ギルモアは皆の前で狼狽を隠しもせずに頭を抱えた。
 イワンとフランソワーズとジェットは論外、張大人の皮膚は耐火性のせいで空気を通さない、グレートの皮膚はゴム状の性質が強すぎる、ピュンマの皮膚は鱗部分が多過ぎる、ジョーは加速装置を使うためには常に全身に人工皮膚が必要だった。
 消去法で、おずおずとギルモアに尋ねられたハインリヒが、上半身の皮膚をジェロニモに提供することになった。
 「君たちは体の造りが似ておるからな。」
 ハインリヒなら、少しばかり装甲が剥き出しでも大丈夫だろうと、そう思っているのが、そしてそう思うことに罪悪感があるのだと、ギルモアの声音に聞き取れたけれど、ハインリヒは何も言わなかった。
 手術台にうつ伏せになり、痛覚だけを切って、ギルモアに話し掛けられながら、最初は背中の半分だけをと言っていたのに、結局は背中をほとんど全部、そうすると前面の皮膚も剥がれやすくなるから、最後にはシャツでも脱ぐように、上半身の皮膚をすべて剥ぎ取られる羽目になった。
 すまんな。
 マスクの下で、ギルモアが小さく言う。ほんとうに申し訳なく思っているのだとわかったけれど、ハインリヒは微笑み返すことはしなかった。
 さすがに、吹き飛ばされてしまったジェロニモの左目を、ハインリヒ──や他の誰か──が代わりに差し出すわけには行かず、ともかくも頭蓋を覆い、砕けた顔の半分も形だけはそれなりに整えて、そこにもハインリヒの皮膚がかぶせられた。ジェロニモは、まるでつぎはぎの人形のように、顔の半分と頭の半分にハインリヒの白い皮膚を縫いつけられ、縫い目の引き攣れのせいでうまく表情が出せず、まだきちんと笑うことができない。
 内部の機能にはさほど被害はなかったけれど、装甲の傷み具合は重篤で、皮膚も含めてすべて取り替えることになり、何とか自力で動ける程度の処置だけをされて、後は傷んだ体のまま、ジェロニモは自分の全身が元通りになるのを辛抱強く待っている。
 ハインリヒが差し出したコーヒーへ、やりにくそうに首を回して、これも時間を掛けて両手を持ち上げ、熱いカップは問題なく手の中へ収めた。うまく開かない唇を苦労してカップの縁へ添えて、コーヒーを飲む仕草がすべてぎこちない。
 生身の人間ではないから、不自由な体を使う訓練をする必要はない。待てば、新品の体が手に入る。それでもジェロニモは、こんな時でも自分でできることはなるべく自分でするようにしていた。機械部分が露わで、つぎはぎに縫い合わされた自分の姿を、特に悲観しているようにも見えない。むしろ、自分の皮膚を差し出したハインリヒの方が、その色違いのちぐはぐさを申し訳なく思っていて、それは自分のせいではないのに──けれどギルモアを責める気にはならない──、乱暴に縫われた皮膚の接ぎ目を直視できない。
 まるでその申し訳なさを表したように、今はハインリヒも上半身と両腕の人工皮膚はまだ元に戻らないまま、ジェロニモの方が先だけれど、ハインリヒも自分の番を待っている。
 髪も刺青もないジェロニモは、ジェロニモではないように見えた。耳や目がないことよりも、その方がなぜかハインリヒには心が痛む。自分の皮膚の色がジェロニモにはまったくそぐわないことも含めて、ジェロニモのために自分を名指ししたギルモアを、心のどこかでうっすらと恨んでさえいる。
 ピュンマの皮膚なら、もう少し馴染んだろうか。あるいは色合いは違っても、何となくなめらかさが似ているように見える張大人の、東洋人の皮膚はどうだろう。常夏の地に降る雪のように、ジェロニモにハインリヒの皮膚の色は恐ろしいほど場違いだ。皮膚の色の違いが、ふたりの間の隔たり──生まれや育ちや考え方や、その他様々なこと──をこの上ないほど明らかにしていて、ハインリヒは居心地の悪い思いを止められない。
 事情があったとは言え、ギルモアに反駁することもなく自分の皮膚を差し出して、これなら焼け爛れて引きちぎれてしまった皮膚のままの方がましだったと、もしかしてジェロニモは鏡を見るたびに思っているのではないかと、もちろん本人に訊くことはできない。
 だから、罪滅ぼしのように感じて、ハインリヒは黙ってジェロニモの世話を焼いて──そのつもりだ──いる。
 「もり。」
 動かない唇の端を少し曲げて、ジェロニモが小さくつぶやいた。
 ──森は、元気か。
 続けて、通信装置でなめらかな声が聞こえた。
 「変わりはないように見えるが。」
 何とか微笑みを浮かべて、ハインリヒが答える。ジェロニモがこちらを向いて、ハインリヒに穏やかな表情らしきものを返してから、森へまた遠い目を向けた。
 ジェロニモの代わりに、一応毎日森へ出掛けている。ジェロニモのように感じることも見ることもできないし、ジェロニモではない人間がうろつくのを、ジェロニモに馴染んだ森の生きものたちが歓迎しているとは思えなかったけれど、それでもジェロニモの気が済むならと、ハインリヒは気の進まない散歩を毎日繰り返している。
 「俺が行っても、動物たちを怯えさせてるだけかもしれないが。」
 ──そんなことはない。
 またなめらかに、頭の中に声が届く。
 慰めのつもりかと、ハインリヒは少しおかしくなって、それから、ジェロニモが森へ出掛けて行かないのは、もしかすると体のせいだけではなくて、つぎはぎに皮膚を縫いつけられ、片目と片耳のない今の顔のせいかと、ふと思いつく。
 ひどく失礼な考え方だとも思ったけれど、現実に、知らない誰かに会えば怯えられるか目をそらされるか、どちらかなのは間違いなかった。
 俺の体も、同じようなものだ。
 ぬるくなりつつあるコーヒーをもうひと口飲んで、ハインリヒは自嘲気味に思う。
 森へ行かないのは、動物たちを怖がらせないためか?
 心の中で思っただけだった。わざわざ口にして訊くような無神経さはないつもりだった。それなのに、何がどうやって伝わってしまったのか、ジェロニモが恐ろしいほどゆっくりと首をめぐらし、森の端から端を眺めた後で、顔を真っ直ぐにハインリヒの方へ向けて、よく開かない唇を動かして、聞き取りにくい声で言った。
 「どうぶつたち、きにしない。ちがうこと、どうぶつたち、かんけいない。」
 色違いの皮膚を張られた、表情のない顔に、微笑みのような淡い感情が浮かぶ。
 ──自分の体がいちばんいい。けれど、これも別に悪くはない。
 のろのろとカップから片手を外し、その手が、ハインリヒの方の皮膚に触れた。鉛色の大きな手が、顔の半分をほとんど覆い、そうやって刺青のある方の半分だけ見れば、いつものジェロニモに見える。何もかも全部、全身の揃ったジェロニモに、早く会いたいと思いながら、同時に、今自分の目の前にいるジェロニモも、確かにジェロニモなのだと思って、森の生きものたちにとっては、どちらのジェロニモもまったく変わりなく同じジェロニモなのだろうと、ハインリヒはそう思った。
 誰もがそう思えれば、世界はもう少しましな場所になるのかもしれない。いつかそんな心境に、皆がなれればいい。なれる日が、いつか来ればいい。夢のような話だと思っても、心の底から願わずにはいられなかった。
 相変わらず大変そうに、ジェロニモがコーヒーを飲んでいる。濡れた唇をすり合わせるようにしながら軽く上向いて、ジェロニモはハインリヒの頭の中にまた話し掛けて来た。
 ──皮膚をくれて、感謝している。大事なものを、必要な時に差し出してくれる仲間は、とても尊いものだ。
 流暢な話し方は普段と違うけれど、選ぶ言葉がいつも通りだった。ジェロニモの言葉を、まるで音楽のように聞きながら、
 「・・・お互い様だ。おまえさんがたかが皮膚1枚で大仰にそう思うなら、俺は年中おまえさんの前で土下座でもしてなきゃならない。」
 わざと茶化すようにそう言った。
 皮膚以外に、しかも色の合わない皮膚以外に、ハインリヒが何をジェロニモに与えられるのだろう。ジェロニモが、黙って、与えられていると言う感触さえ残さずに、自分たちに浴びせてくれるものの方が、よほど量が多い。それを指摘したところで、ジェロニモはまた黙って肩をすくめるだけだろう。
 今日は、少しゆっくり森の中を歩こうと思った。生きものたちに伝わるように、ジェロニモが元気だと、そう思いながら歩こうと、ハインリヒはそう決める。
 ジェロニモの鉛色の両手はまたカップに添えられ、危なっかしくコーヒーを飲むジェロニモの、刺青のない白い横顔を数秒見つめてから、ハインリヒは自分のカップに唇を近づけて、お代わりはどうだと、声を掛けるタイミングを計り始めた。

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