Somewhere I Belong
声も立てずに、大きなぶ厚い肩が、上で揺れる。
体を支えて、床から伸びた腕に、自分の手を添えて、口元にだけ、静かな必死さを浮かべている、昼間とそれほど変わらない浅黒い顔を、横目に盗み見る。
それほど頻繁に、こんな風に躯を重ねるわけではないから、相変わらず痛みには慣れられず、心配させないために、声を殺すのに苦労する。
大きな体に似合わず、気持ちのこまやかなこの男は、膚を合わせるようになってからは、よりいっそう、ハインリヒの感情の機微に敏感になっていた。
心を読む能力が、隠しているだけで、あるのかもしれないと、ふと思うことさえある。
それは、イワンのように、改造され、人工的に与えられた能力ではなく、彼らの血が伝える、特殊な力なのだろうと思えた。
欲望や、切羽詰った何かに背中を押されたというよりも、たとえば、生き別れの肉親が、出会った瞬間に、途切れていた繋がりを悟り、腕を伸ばし合い、抱き合うような、そんな感覚に近かったように思う。
いわゆるインディアンと呼ばれる種族であるジェロニモと、ドイツ人のハインリヒの間に、血の繋がりのようなものがあるはずもなかったけれど、ふたりの間にあるのは、血の繋がりではなく、古い古い記憶の底に残る、以前の人生の断片のひとつが、互いに魅かれ合うような、そんな感じに近かった。
もちろん、そんなことを、ジェロニモに対して口にしたことはなかったけれど、重ねた膚と、もっと親密な奥深くが、言葉でもなく、皮膚の感覚でもなく、人の原始に近い、古代の記憶を探り出し、ほんとうに、体の奥底で、流れる血が混じり合うような、ああ、やっと会えたのだと、思った瞬間があった。
人ではなく、体に流れるものも、覆うものも、すべて人工物にされながら、それでも、人の背負う運命というものは、人智を軽く乗り越え、科学と言うものを嘲笑う。
こうして、出会うために、過去があったのかと、決して笑って口にはできない記憶を、頭の隅に押しやりながら、今ではなく、昔一緒に重ねただろう時間に、心を馳せてみる。
大きな肩が、我を忘れたように動いて、ハインリヒは、喉を反らして、声を噛んだ。
人工皮膚が、戦車並みの装甲を覆っている体は、普通のベッドでは重すぎて、だからジェロニモは、いつもは床で寝ている。
一緒にベッドに上がると、ジェロニモほどではないにせよ、こちらも丈夫に造ってあるハインリヒの体の重みで、ベッドは、ほんとうに今にも壊れそうに、盛大にきしんだ。
腕を動かしても、足の位置を変えても、恐らく建物中に聞こえているのではないかと思えるほどの、ベッドの音に、ふたりは顔を見合わせて肩をすくめ、目顔でうなずき合って、床に降りた。
床で寝ることに慣れているはずもないハインリヒを気遣って、硬い床を、少しでも寝心地良くしようと、ジェロニモは、何枚も毛布を敷いて、決して自分の体の重みをかけすぎないように、ハインリヒをまるで、ガラスでできた、壊れものでも扱うようにして、そうして、いちばん最初は、ぎこちないまま終わった。
ぎこちなさは、回数を重ねても変わらず、その不慣れさが、いっそうふたりを、親密にするように思えた。
真正面から躯を重ねて、それから、体を持ち上げた。胸を重ねて来ないジェロニモに焦れて、自分から、その太い首に腕を回した。
きしんだ躯の奥が、無理な姿勢に痛んだけれど、かまわずに抱きついて、膝に乗る形で、自分で躯を揺すった。
首筋と、胸と、そして躯の内側で繋がって、そこから伝わる、血の流れる音が、皮膚の上で、きれいに重なった。
繋がっているのだと思い、そして、それは、躯だけではなく、かすかな、古い古い記憶にもたどり着く。
この男を知っている。知っていた。ずっとずっと昔。
こんな姿ではなかったかもしれない。人ですらなかったかもしれない。けれど、互いを、知り合っている。
確信を、もっと確かにするために、そして、余計なことを言ってしまわないために、ハインリヒは、熱に浮かされたように、その唇に、意味すらない接吻を重ねた。
繋がり合って、体液を混ぜ合わせて、皮膚をこすり合わせて、古い記憶を、憶えてなどいない、かすかな意識の澱を、呼び覚まして、重ね合って、ひとつに溶け合ってしまいたいと思った。
自我を失くし、自分ですらなくなって、何か別の物体になって、すべてを忘れてしまいたいと思った。
それはもしかすると、現実ではなく、ただの、苦痛---アルベルト・ハインリヒとしての記憶---からの逃避だったのかもしれない。兵器に改造された体を抱えて、同じ身の仲間に、すがりつきたかっただけなのかもしれない。
それでも、ジェロニモの優しさ---だと、ハインリヒは思う---に甘え、その優しさにつけ込んで、共犯者にしてしまう。心よりも、感情よりも先に、躯の内側を明け渡して、親密さを誤解しながら、けれど、親密さの、本来の意味へ、少しずつずれ込んでゆく。
たとえ、明らかに不自然な繋がりなのだとしても、これは必然なのだと、信じている自分がいる。そのことに、心のどこかで、驚きながら、納得しながら、ハインリヒは、ひとつに溶け合えないことに失望しながら、ジェロニモに、手を伸ばし続ける。
人がふたり、ひとつに溶け合うことなど、物理的に不可能だと知っていながら、それがいつか起こるのだと、信じずにはいられない。夢を見る子どものように、手足を絡ませて、汗を交じりあわせながら、白くなる頭の後ろで、今この瞬間かもと、思う。
そうして、冷えた体を床に横たえて、まだ、別々に在るその大きな背中に、額をこすりつけてゆく。
ハインリヒの、マシンガンの右腕を胸の前に抱え込んで、ジェロニモは眠りに落ちる。
肩だけが、揺れている。それに合わせて、短く息を吐きながら、ふと思いついて、下から、ジェロニモを真っ直ぐに見上げた。
こんな時に、視線を合わせるなど、滅多にない。
細めていた目を見開いて、驚きをわずかに浮かべ、ジェロニモも、真っ直ぐに、ハインリヒを見返して来た。
視線が、揺れながら、重なる。
後ろから繋がってみたこともあったけれど、顔が見えない安堵よりも、自分で取った姿勢の、思った以上のあからさまさにわいた羞恥に萎縮して、それきり、誘うのをやめた。
正面から、確かに、繋がり合っているのだと確かめながら、繋がり合っているのは、他でもないこの男なのだと確認しながら、こすり合わせる熱に溶けて、ひとつになってしまいたいと、心の底で思う。
この男でなくては駄目なのだと、ハインリヒが思っているように、ジェロニモが思っているのかどうかは知らない。
ジェロニモにとって、ハインリヒが、一体どんな意味を持つのかすら、知らない。
ジェロニモと、こうして抱き合うことは、自分の存在に、意味を見つけようとすることだ。
人ではなくなり、兵器にされ、それでもまだ生き続ける自分が、同じ身でありながら、まだ大地の匂いを残すジェロニモに魅かれ---たのだと、思う---、人間らしさの残滓に、すがりつこうとする。
自分の姿を、無様だと思いながら、ただ、そこにあるだけで、人らしくあろうとしているように見えるジェロニモと、繋がり合って、思い出という名の苦痛を分け合って、そうして、いつか、意味すら見つけられないなら、そのまま粉々に砕けて、ジェロニモの中に取り込まれてしまえばいいのだと思う。
歯車とネジと、さまざまなコードの絡み合った、機械の体。
兵器であることに意味があるのなら、そんな意味はいらない。けれど、それがなければ、存在の意味がない。だから、人としての意味を求めなければならない。
存在しているのは事実だから。まだ、生きているから。意味のない人生は、広大な宇宙に漂う、たったひとつの生命体のようだ。どこにも繋がらず、どこへもたどり着かない。
だから、こうして、誰かと繋がっている。
繋がって、たどり着こうとしている。
誰かの、内側へ。
自分を喪っても、誰かの記憶として、そこに残れればいい。
粉々に、砕けてしまいたいと、また思った。
砕けて、散って、ジェロニモの内側へ、"還りたい"。
そう思い当たった瞬間、涙がこぼれた。
動いていた肩が止まり、無骨な指が、目元に伸びる。それから、顔を振って逃れ、ハインリヒは、体が痛むのにもかまわず上体を起こして、ジェロニモの首に、しがみついた。
動きを止めて、ジェロニモの腕が、しっかりと背中を抱きしめる。
抱き合って、胸を重ねて、また、鼓動が聞こえた。
たどり着きたいと思うそこへ、たどり着くために、ハインリヒは腕を伸ばし、ジェロニモを引き寄せ、さっきまでの熱を忘れたように、終わりのない、砂漠の風景を、頭の後ろへ思い描く。
そこにいる、自分の姿が、ひとりぼっちであることに気づくのが恐ろしくて、ハインリヒは、いっそう強く、ジェロニモにしがみつく。
なだめるように、ジェロニモが背中を撫でるのに、涙は、いつまでも止まらなかった。
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