The Kettle



 食事が終わって、デザートも終わって、夕食の後、皆がくつろいでいる間に、ジェロニモは汚れた食器を洗う。
 鍋はもう、張大人とフランソワーズが料理をしている最中に、終わった順に洗ってしまうから、食事の後に残るのは、皿やスプーンや、そんな小物だけだ。
 フランソワーズは、ジョーとふたり、裏庭で星を眺めている。やっと寒さがやわらいで、そろそろ夜の散歩に良い時期になる。
 ジェットはビデオゲームに夢中だし、グレートは外へ煙草を吸いに出ていて、ピュンマと張大人が、フランソワーズのためにイワンを見ていた。
 ジェロニモの隣りで、ハインリヒが、洗われた皿を、流れる水ですすいでいる。
 夕食の後の、いつもの風景だった。
 ジェロニモは、何度か外を眺めて、窓から、フランソワーズの背中を見ていた。
 単調な作業を一緒にしていると、奇妙に、馴れ馴れしい気分になる。ジェロニモは、洗ったばかりの皿を、ハインリヒがいる方のシンクへそっと置きながら、黙って皿をゆすいでいる彼の白い横顔を、ちらりと横目に見る。
 何だか、とても珍しい気分にそそのかされて、ジェロニモは、流れる水音の合間に、ゆっくりと口を開いた。


 壊れてしまったわ、これ。
 フランソワーズが、とても悲しそうに言う。
 その手には、小さな白い、電気のケトルがある。小さく開いた注ぎ口から水を入れて、本体から伸びたコードをコンセントに差し込んで、10分もすれば湯気を立てて湯が沸く。コンセントを抜いて、せいぜいが3人分の熱い湯は、けれど大きなティーポットに注がれることは滅多となく、フランソワーズが自分のためだけにお茶をいれる時にだけ、たいていはマグに直に湯を注いでしまう。
 ぽつんと、そのケトルは、いつもキッチンのカウンターの片隅に置いてあって、フランソワーズ以外の誰も、ほとんど触れることはなかった。
 ジェットが、アメリカから戻って来た時に解いた荷の中に、まぎれていたもののひとつで、ジェット自身も誰のものだったのかわからず、そんな小さなケトルが、こんな大所帯に役に立つわけもないだろうと、ゴミ箱の傍に置いておいたのを、フランソワーズが取り上げたのが最初だった。
 かわいそうだわ、まだちゃんと使えるのに。
 湯を沸かして、フランソワーズがそう言った。
 フランソワーズが持つと、何の飾りもない小さなケトルは、やけに可憐に見えた。
 アメリカ辺りに行けば、どこででも買えるだろう、何の変哲もない代物だったけれど、フランソワーズは何が気に入ったのか、それを捨てずに、キッチンの片隅に置いた。
 古いものは、案外と丈夫なのか、それとも作りが簡単だから、壊れるような部品も中にないのか、日に1度はフランソワーズが湯を沸かすのに使って、一体どれほど経つのか、ケトルはしっかりと仕事を続けていた。
 たまに、しっかりと外側を洗って、中もきちんとゆすいで、けれど長く使ううちに、湯を沸かすためのコイルに水中のカルシウムがぶ厚く付着し、白い砂のような粒が、沸かした湯に浮くようになった。
 そろそろ、買い替えた方がいいんじゃないのかい?
 ジョーが何度もそう言ったのだけれど、フランソワーズは困ったように笑うだけで、そのケトルを手離そうとは、決してしなかった。
 コイルのカルシウムを取るために、あれこれと張大人やグレートの知恵を借り、ジェロニモやピュンマの手を借り、何とかケトルは生き長らえていた。
 けれどやはり、最後の日はやって来る。
 ある日ケトルは、湯を沸かすのをやめてしまった。いくら待っても暖かくならず、熱くなるわけもなく、しんと中の水は冷たいまま、何度コンセントを差し込み直しても、うんともすんとも言わなくなった。
 分解するも何も、どこにもネジも見当たらないような作りのケトルは、修理の取っ掛かりさえなく、とても沈んだ声で、ケトルのことを伝えたフランソワーズの手からそれを取り上げたのは、ジェットだった。
 あきらめろよ、もう。新しいの、オレたちが買って来るから。
 そう言いながら、ジェットが傍にいたジェロニモを振り返った。どうして自分が同意を求められるのだろうかと訝しがりながら、けれどジェロニモはその場でだけ、首を縦に振っておいた。
 ・・・同じようなのが、あるかしら。
 ジェットの手にあるケトルを、半ば潤んだ目で見つめて、フランソワーズが小さな震える声で言った。
 ジェットは、フランソワーズに言ったことは忘れなかったけれど、店まで出掛けてケトルを探すことは、すっかり忘れてしまっていた。結局、その場にいて、オレたちが買って来るからと、ジェットがそう言ったことを律儀に覚えていたジェロニモが、フランソワーズのためにケトルを探す羽目になった。
 探すも何も、ごくありふれたケトルは、台所で使うものを扱っている店でなら必ず置いていたし、後はフランソワーズがとても気に入っていた、あのケトルに似ているのを見つけるだけだった。
 もっとも、似ているもの、というのが曲者だったのだけれど。
 フランソワーズのケトルは、もうずいぶんと古い型になっていたから、今時そんな、湯を沸かすだけのケトルなんてものは案外となく、あれこれと使い方のわからないスイッチがついていたり、入れた水の分量のわかる窓がついていたり、単純な薬缶の形すらしていなかったり、フランソワーズは一体どれを気に入るだろうかと考え始めると、店の棚の前で1時間はたっぷりと過ごせてしまう。
 ジェットがあの時、オレたち、とジェロニモを含んでしまったのは、こういう成り行きを悟っていたからに違いないと、そんなことすら考える。
 ジェロニモは、店を何軒も回って、何日も掛けて、ようやく、木を切り倒すノコギリや、車の修理に使う道具の一揃いや、目の痛くなるほど小さなドライバーや、そんなものを置いている店の片隅で、フランソワーズのためのケトルを、ひとつ選んだ。
 前のケトルとは違い、背の高い、水量の見える窓のついた、ケトルというよりは、ポットという方が良さそうな、蓋が大きく開くから、中がきちんと洗える、前のよりももっとたくさん湯の沸かせるそれを、大事に胸に抱きかかえて店を出た。
 湯が沸騰すると自然にスイッチが切れる、というのも、忙しいフランソワーズにはいいかもしれないと、ジェロニモはそう思った。
 フランソワーズの元に運ばせるのは、ジェットにやらせた。ジェットはちょっと唇をとがらせたけれど、結局は何も言わず、一抱えほどの箱を手に、黙って空に飛び立った。
 ジェットがどうせいろいろと言ってくれるのだろうし、たかがケトルのひとつで、あれこれこちらから言うこともあるまいと、ジェロニモは手紙もメモも、特に言付けることはしなかった。
 ごめんなさい、せっかくわざわざ届けてくれたのに・・・。
 フランソワーズが、沈んだ、とても申し訳なさな声で電話をして来たのは、ジェットが飛び立ってから数日後のことだった。
 ジェットはどうやら、あのケトルを選んだのはジェロニモだと、素直に---あるいは、責を逃れるために---フランソワーズに伝えたらしかった。
 とてもステキなのだけど、でも・・・あの・・・。
 フランソワーズは言い淀んでから、ジェロニモの辛抱強い沈黙に促されて、ようやく本音を滑り出す。
 ・・・大きすぎるの。アタシひとり分だから、あんなにいらないし、勝手に切れてしまって、お湯が冷えてしまうし、前みたいなのは、やっぱり見つからないのかしら。
 ジョーなら、フランソワーズの肩を抱いて、とてもうまく慰めることができるのだろうなと、ジェロニモは思った。
 フランソワーズは、そんなにあのケトルを気に入っていたのかと、わざわざ違う形のを選んだ自分の愚かさ加減に、ジェロニモはちょっとだけ唇を曲げる。
 なるべく前のケトルのままのを探そうと、心に決めた。
 フランソワーズに、気にしないように言って、別のを見つけると伝えてから、重ねてごめんなさいと繰り返すフランソワーズをなだめて、ジェロニモは静かに電話を切った。
 あちら側にいるフランソワーズを、ジョーがきちんと慰めてくれることを祈りつつ、フランソワーズが、気に病みすぎないことを願いつつ、小さくため息をこぼす。
 たかがケトルだ。選ぶこちらの手間を、受け取るフランソワーズが気にすることはない。使うのがフランソワーズなのだから、彼女の気に入るものを、というのは、仲間として当然の気遣いだと、しばらく電話を眺めていた。
 届けるジェットに文句を言わせないのが、いちばん大変そうだと、ジェロニモはちょっと首を傾けた。


 新しいケトルは、すっかりキッチンに馴染んでいる。
 前のよりもほんの少しだけ大きいけれど、相変わらずせいぜい3人分の湯しか沸かせず、湯を沸かす以外の役には立たず、カルシウムの付着を気にしなければならないところまで、前のとそっくりだ。
 最初に送った少し大きいのは、結局ジェットが引き取って、自分のアパートメントで使っているらしい。そちらの方が壊れるのは早いかもしれないと、ジェロニモはこっそり心配している。
 フランソワーズが今日、ジョーに向かって、新しいケトルの話をしているのを、ジェロニモはうっかり立ち聞きしてしまったのだ。
 小さくて、ちょうどいいの。それにあれ、お湯が沸くと音がするのよ。すぐにわかって、とてもいいわ。
 弾んだ声は、とても耳に心地良くて、ジェロニモは足音をさせないように、そっとその場を離れようとする。
 湯が沸くと音がするというのは知らなかった。箱の外側などよく読まなかったし、最初のはジェットの夕食分くらいの値段だったけれど、フランソワーズの気に入ったそれは、せいぜいジェロニモの朝食代くらいだったから、湯を沸かす以外に、何か特別な機能がついているなどとは、考えもしなかった。
 少ししか沸かせなくて不便じゃないのかい?
 ジョーが、フランソワーズにそう訊いたのが、背中に聞こえた。
 だって、アタシひとり分だけでいいんだもの。小さいから良いのよ。
 弾んでいた声が、ほんの少しトーンを落して、まるで心中を告白するような口調で、フランソワーズがそう答えた。
 ジェロニモは、去りかけた足を止めて、一瞬、フランソワーズの言葉の意味を深く考えてから、また足を前に出した。
 ここにいる限り、フランソワーズは、いつも誰かのために、何かをしている。同じ境遇の8人の仲間と、ギルモア博士と、ただひとりの女性というだけで、母親の役を振り分けられている彼女は、何をどうするのも、常にみんなのために、だ。
 だからこそ、彼女ひとり分にしか使えないあのケトルが、とても大事だったと、初めてジェロニモは気づく。
 フランソワーズが、ひとりきりで楽しむための、ひとり分だけのお茶をいれるだけの湯を沸かせる、小さなケトル。
 フランソワーズだけのためのもの。
 とても大事なことだと、ジェロニモは思った。


 ジェロニモが、それだけのことをとつとつと語るのに、ハインリヒは、かすかに相槌を打つだけで口出しは一度もせず、皿洗いが終わってしまった後も、もう少し続いた、そのフランソワーズのケトルの話を、シンクの傍に立って、ジェロニモが話し終わるまで黙って聞いていた。
 「まあ、フランが気に入ってくれたのなら、良かったじゃないか。」
 すっかり乾いてしまった手で、胸の前に腕を組んで、ハインリヒが薄く笑う。そうして、肩越しに、そのケトルを見やってから、
 「・・・しかし、面白いことにこだわるもんだな。」
 そう言って、いつものようにわずかにゆがめたハインリヒの口元は、けれど皮肉笑いなどではなくて、むしろ、フランソワーズの気持ちはよくわかると、そうジェロニモに伝えてくる。
 大袈裟な共感を、そうとは表に出さない彼だからこそ、こんな話もできるのだと、ジェロニモは思った。
 そうして、ほんとうのところは、話の本題はフランソワーズのケトルのことではなく、こんなつまらない話を、黙って聞いてくれる相手がいるという、そのことなのだと、ジェロニモは、すっかりきれいになったシンクに目を落した。
 自分を見失わないように、自分の内側の一部に、滑稽なほど固執することも時には大事だし、同時に、例えば今日は空がきれいだとか、鳥が飛ぶのを見たとか、そんな他愛もないことを口にして、相槌を打ってくれる誰かが傍にいてくれることも、とても大事なことだ。
 フランソワーズが、あのケトルをとても気に入ってくれてるらしい。ああ、そうか、良かったな。
 それだけで終わる会話の中に、どれだけの思いが込められているのか、それを読み取ってくれるだろう誰かが、今自分の傍にいてくれることに、ジョロニモは、黙って感謝している。
 ハインリヒが、外に向かってあごをしゃくった。
 「俺は外に煙草を吸いに行くが、おまえさんどうする? 紅茶でも、またいれるか。」
 空になったばかりのシンクを同時に見て、ふたりで微笑む。
 ハインリヒに向かって、うなずいて、
 「外、一緒に、行く。」
 フランソワーズのケトルを横目に見ながら、みんなで使う大きな薬缶に、ジェロニモは手を伸ばした。


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