Turn My Head Around



 初対面にも関わらず、結局、夕食を呼ばれて、メイヤー教授の自宅を辞したのは、すっかり夜も更けてしまってからだった。
 初めて招かれた家で、夕食を呼ばれるのはマナー違反だと思いながら、メイヤー教授との話は尽きることもなく、ジェロニモは、ふたりの傍で、まれに相槌を打つだけで、ほとんど口を挟むこともしなかった。
 ハインリヒも、メイヤー教授の博識には対抗できず、しっかりとハンガリー訛りの残る英語を必死で聞き取りながら、講義を受ける学生たちの苦労を思って、こっそりと苦笑をもらした。
 夕食の場に集まったのは、その家に住む教授の子どもたち---とは言え、ハインリヒと歳は変わらない---と、その恋人たちで、手製だというラザニアを、皆でつつきながら、メイヤー教授のおしゃべりは、一瞬も止まることはなかった。
 メイヤー教授の妻は、同じ大学で、留学生たちに英語を教え、英語に訛りのないところを見ると、アメリカ生まれらしかった。
 長男の婚約者は日本人で、ジョーよりも、もっと流暢に英語を使い、ふたりで日本で暮らすのだと、微笑みながらハインリヒに言った。
 長女の恋人は、イスラエル人で、国に戻ると死刑になると、まるで、料理を誉めるような口調で、笑った。
 その長女は、ネパールに、英語を教えるために長期滞在をしていたとかで、数種のアジア語と、東ヨーロッパの言葉に通じているのだと、メイヤー教授が、誇らしげに言った時、薄い唇の口元を、恥ずかしそうにほころばせた。
 その場にはいなかったけれど、大学の寮に入っている、オランダ系との混血だという、南アフリカ人の養女がいるのだと、メイヤー教授の妻が言った。
 この家族の中でなら、ジェロニモも、まるで---サイボーグの---仲間たちといる時と同じような気分になれるのかもしれないなと、自分も、同じように感じているのだと思いながら、ハインリヒは思った。
 本棚から抜き取った本を2冊手に、ピアノを一度撫でて、ハインリヒは、ようやくジェロニモのトラックに、また乗り込んだ。
 メイヤー教授は、最後まで、玄関でふたりを見送って、手を振っていた。
 満ち足りた思いで、口数はいつもよりも少なく、少しずつ殺風景になってゆく暗い道を眺めながら、ハインリヒは、何度も何度も、隣でハンドルを握るジェロニモに、微笑みかけていた。


 本から目を上げ、ようやく、決心したように、ピアノの傍へ歩いて行った。
 自分の後姿を、さり気なく、ジェロニモの視線が追っているのを、背中に感じながら、ハインリヒは、ゆっくりと右手の革手袋を外し、鋼鉄の指先で、ピアノのふたを開けた。
 真っ白いピアノに、鉛色の指先はひどく不似合いで、それでも、並んだ白と黒の鍵盤には逆らえず、ハインリヒは、ジェロニモを振り返って、それから、聞こえないように、細く息を吐き出して、指を、鍵盤の上に乗せた。
 かちんと音がして、押さえた鍵盤が、ぽんと音を立てる。
 深い、柔らかな音が、波打つように、静かな空気を揺らした。
 全身にしみ込むような、音。思わず目を閉じて、耳だけを、開いた。
 ゆっくりと指を滑らせ、ぽんと鳴る音に交じる、金属がかちかちと鍵盤を叩く音にさえ、耳を澄ませる。
 悪い音ではない。それほど手入れが悪いようには、思えなかった。
 きちんと、誰かの手で、弾かれ、愛されているピアノだと思って、ハインリヒは、うっすらと浮かべた微笑みにさえ気づかず、静かに椅子に腰を下ろし、やっと両手を、同時に鍵盤に乗せた。
 1曲丸ごとではなく、切れ切れの、頭に浮かんだメロディーを、そのまま指先に流す。曲の断片があふれ、次第に音量を増して、気づかない内に、目を閉じ、軽く頭を振りながら、もう、他のことは、一切忘れている。
 一体、どれほどそうしていたのか、ふと我に返ると、すぐ傍に、ジェロニモが立っていた。
 指を止め、照れたように、肩をすくめる。
 それから、白い鍵盤に乗った、鉛色の右手を、目の前に持ち上げた。
 マシンガンのその手は、ピアノを弾くのにふさわしい手ではなかったけれど、それでも、そこから紡ぎ出される音には、昔と、何の変化もないように、ハインリヒには思えた。
 「ちゃんと、弾ける。」
 ぼそりと、ジェロニモが言う。右手を見下ろしているのだと気づいて、ハインリヒは、慌てたように、その手を膝の上に置いた。
 「昔みたいには、弾けない。」
 また、手を取り出して、肩越しに、ふらふらと振って見せる。
 ジェロニモが、左側から右側に移動して、ハインリヒの頭上から、腕を伸ばして来た。
 浅黒い、大きなぶ厚い掌が、白い鍵盤を覆う。大きな指先は、鍵盤にきちんと収まらずに、ひとつではなく、ふたつ同時に弾いて、和音めいた音を出す。
 ハインリヒは、思わず声に出して笑った。
 「指先を、もう少し、立てて。」
 ジェロニモの右手に、鉛色の手を重ねて、べったりと鍵盤を押さえている指を、軽く持ち上げてやる。
 こういう風にと、右手に、鍵盤を叩く手つきを示して、それを真似て、ジェロニモの大きな手が、鍵盤から浮いた。
 指を曲げ、指先を鍵盤に立てて当て、ようやく鍵盤のひとつひとつに指先を当てはめ、ジェロニモが、ひどくぎこちなく、親指からゆっくりと、鍵盤の上を動き始めた。
 暖かな音が、優しく響く。
 大きさの違う手が、ふたつ並んで、ひとつが、ひとつの動きを追う。動きを真似て、片方よりはなめらかでなく、ばらばらに紡ぐ音は、音楽的というのには程遠かったけれど、愛らしく鳴り続けた。
 親指から小指までで、一気に鍵盤を叩き、そこから先へ、どうやって進むのかわからないジェロニモに、ハインリヒは、笑いながら指の動きを見せた。
 親指と人差し指と中指で、ドとレとミを弾いて、それから、中指を軸にして、親指を掌の下から、ファに向かって伸ばす。今度は、ファの音を出した親指を軸にして、掌を真っ直ぐに戻す。そのまま、また親指から順に、今度は小指まで使って、ソラシド、と弾いてゆく。
 ジェロニモは、ミとファの間で戸惑いながら指を動かし、それでもハインリヒがやった通りを、時間をかけて、そのままやって見せた。
 自分の出す音よりも、稚なく聴こえるその音に耳を澄ませて、ハインリヒは、思わず目を細めて、大きな指が、ぎこちなく動く様を見守っている。
 一緒に、ゆっくりと弾くと、オクターブ違いの音階が、わずかにずれて、可愛らしく響く。
 ふたりは、うまく出来ると、顔を見合わせて笑い、ずれてしまうと、声を立てて笑った。
 「今度は逆だ。」
 うまく音階を上がれるようになると、今度は、下がって見せる。
 上がる時とは、逆に指を動かす。ドシラソファと、小指から親指で一気に弾いてしまい、それから、手首と親指を軸にして、くるりと手を回すようにして、上から、中指を、ミの音に伸ばす。
 そうして、そのまま、人差し指でレを、親指でドの音を弾く。
 上がった時よりもいっそう、ジェロニモの手が、戸惑った。
 困ったようにあごを引き、ハインリヒの手の動きを、真剣に目で追う。
 手と、手首の動きを、丁寧に見せて弾きながら、なめらかに動く、機械の手の隣りで、ジェロニモの、生身にしか見えない大きな手が、鍵盤の上を、迷い、さまよい、何度も失敗した後で、ようやく、まだぎこちなさを残したまま、高いドから低いドまでを、間違えずに、一気に弾いた。
 長い、ベンチ状の椅子に、ふたりで、ふたり分の体重に気をつけながら、並んで腰かけて、右手を動かす。
 低いドから、高いドへ、それから、高いドから、低いドへ、一緒に。わずかに、音がずれたままで。
 何度も何度も、同じことを繰り返して、いつの間にかハインリヒは、その単調な動きの中に、すっかり取り込まれていた。
 何も考えずに、手と指を動かす。ジェロニモに合わせて、いつもよりはゆっくりと、けれど、ほんの少しずつ、動きを速めて。奇妙に真剣な、けれどなごんだ空気の中で、ふたりはいつまでもいつまでも、そうやって、ドレミファソラシドと、同じ音階を、上がっては下がり、下がっては上がり、同じほど何度も何度も、顔を見合わせて笑い合った。
 肩をぶつけ合いながら、右手のことは、すっかり忘れてしまっていた。


 様々な本と、ピアノと、どこへ飛んでも、興味深い方向へ向く会話と、人種の入り混じった顔ぶれと、どこかの、ひどく特殊なサロンにでも迷い込んだようだった。
 あの家で、メイヤー教授と話しながら、ジェロニモがハインリヒを連れて来ようと思ったのは、やはりピアノのせいだったのだろうかと、そんなことを考える。
 滅多と一緒にいることはなくても、大事な仲間として、日常の、ふとした瞬間に、やはり互いのことを考えているのかと、自惚れにも似た考えが浮かぶ。
 ハインリヒが、あの部屋で目を輝かせたのは、ジェロニモの予想通りだったのだろうか。
 ジェロニモの住むこの街を、ハインリヒは、ひどく気に入り始めていた。


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