the way i feel
(6)
何もかもを取り去ってしまうと、後のことは比較的スムーズに進んだ。
ハインリヒは、時間さえあればジェロニモの部屋へ行き、ふたりは、触れ合っていないことに耐えられないように、けれど激しさはなく、肌の熱さを分け合い続けた。
ベッドの音が気になるとハインリヒが言うと、ジェロニモは少しだけ悩んだ様子で、シーツや毛布を何枚も床に敷いた。ベッドから落ちる心配がなくなったのは、正直ありがたかった。
そうやって時間は過ぎてゆき、けれどふたりは、一緒に、そのことに気づかない振りをしていた。
午後、ひっそりとしたギルモア邸のキッチンで、ふたりはテーブルの角を囲むように座り、ハインリヒのいれた紅茶を飲んでいた。
例の如く、ジョーはギルモア博士と地下の研究室にいたし、フランソワーズはイワンの散歩に出掛けていた。
気兼ねなく、額を合わせるような近さに顔を近づけ、テーブルの下では、色違いの指先が軽く絡まっている。ハインリヒの、鉛色の右手が、わりと洒落たカップのデザインに似合わず無骨な眺めなのを除けば、窓から差し込む日差しの暖かさに、ふたりで目を細め、文句のつけようもない、ふたりきりの静かな午後だった。
今日の午後、アメリカから絵葉書が届いた。ジェロニモ宛だ。馬が増えて、仕事が忙しくなったから早く戻って来いと、あたたかな文体で、けれどきっぱりと書いてあった。表の白い葉書は、ジェロニモの手にはとても小さく見えて、少し難しい顔つきで差し出されたそれを、ハインリヒは左手で受け取って、ゆっくりと読んだ。失望を押し隠して、微笑みを浮かべて、
「おまえさんも、忙しい身だからな。」
修理が終わって研究室を出てから、もう3週間になろうとしている。ハインリヒの体は、もうどこも心配はなさそうだったし、ジェロニモだけではなく、ハインリヒも、もういつでもドイツに帰れる状態になっているのに、今までふたりは、それを口にせずにいた。
ジョーたちは、ハインリヒとジェロニモの、予定よりも長い滞在を、不審にも邪魔にも思わないらしく、仲間が半分でも、こんなに長く一緒にいられるのは良いことだと、単純に喜んでいる。
週末が終わったら、いちばん早い飛行機で帰ると、紅茶をいれるハインリヒの背に、ジェロニモが静かに告げた。ハインリヒは、振り向かずに、そうかとつぶやくように答えた。
これが終わりというわけではないのだ。ただまた、別々の土地へ帰って行くという、いつものことだ。いつもと同じことが、今では違う意味を持ってしまっていることに、こんな風に気づかされてしまったことに、ハインリヒはひとりでうろたえている。
またしばらくは会えない。あるいは、会えなくなれば、こんなことはもう起こらないのかもしれない。何かの間違いだったのかもしれない。不快ではない。だからこそ、困るのだ。
会えなくなると淋しいと、そう素直に口に出せるようなハインリヒではなく、そんな間柄とも思えず、ハインリヒは、ただ黙ってジェロニモの指先を掌に収めている。
誰かを求めるということを、すっかり忘れてしまっていたから、たとえひと時とはいえ、別れがこんなに淋しいものだと、久しぶりに思い知っていた。
次に会う時には、こんなふうに時間を過ごしたことなど、おくびにも出さないふたりになっているかもしれない。それならそれでも仕方がない。死なないことを保証された代わりに、ひとらしさを失ってしまったサイボーグたちには、そもそも似つかわしくもないことかもしれなかった。
それでも、もう少しだけ、他の誰かの温かさを、感じていたかった。ひとの体のぬくもりに、触れていたかった。
「おまえさんがいなくなると、フランソワーズとイワンが淋しがるな。」
また微笑みを浮かべて、わざと早口に言う。ジェロニモが、どういう表情を浮かべるべきか迷った末のように、かすかな苦笑を刷いて見せた。
淋しがるのは、フランソワーズでもイワンでもない、他の誰でもないハインリヒだと、ちゃんとわかっていると、そう言いたげに、濃い茶色の瞳がゆっくりと細まる。
ジェロニモも、口には出さずに、同じことを考えていた。
こんなことを、さらりと始めて、さらりと終わらせてしまえるほど、冷淡な人間ではない自覚はあったし、終わらせるも何も、始まってさえいないと、アメリカへ戻ることを、こっそり躊躇していた。
けれどそれを口にしても、ハインリヒの人となりを侮辱するだけのように思えて、唐突に始まってしまったことだからこそ、ほんの少し距離を置いて、自分のことを冷静に眺めた方がよいのかもしれないと、言い訳のように考える。
飢えを満たすような関わりは、けれど躯の飢えだけではなかったのだと、そう思っているのが自分だけなのかどうか、ジェロニモは確かめるのが怖かった。ずっと誰かを求めていて、その誰かが、突然わかったのだと、そんなふうにこの関係を理解するのは、正しいことなのかどうか、触れることから始めてしまった性急さゆえに、どうしても確信が持てないままでいる。
誰かを大事に思うということが、こんなに難しいことだったかと、まるで不器用な少年に戻ってしまったような自分自身に、ジェロニモは戸惑っていた。
永遠に会えないというわけではないのに、ただ、いつものように、それぞれの場所へ戻るだけだと言うのに、地球を半周する距離に、背中の辺りがうそ寒くなる。ひとりというのは、こんなにも胸の辺りを空っぽにしてしまうものだったろうか。たった数週間だと言うのに、ふたりに慣れ過ぎてしまった肩の辺りに、これから感じるのだろうひとりの軽さが、憂鬱にのしかかってくるように思えた。
この手を、ずっと離さないままでいられたらと、不意に思った。ハインリヒの手を強く握り返して、ジェロニモは、もう冷めてしまった紅茶を、一気に空にした。
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