Typewriter
グレートの、古ぼけたタイプライターを、ジェットは大っぴらにバカにしているし、ジョーは口に出さなくても、今時そんなものを使わなくてもと、肩をすくめて苦笑をもらす。
フランソワーズは、文章を、タイプで打ち出すことにはあまり興味がないのか、肩越しに覗き込むことをもっぱらとしている。
張大人は、よほど必要がない限り、英語で手紙を出すことなど、中国人としての信念にもとると思っている節がある。
ギルモア博士は、古き良き時代を、グレート以上に愛しているけれど、科学の進歩に、少しばかり乗り遅れた年代物のタイプライターでは、今時論文の下書きさえできないと、仕方なく---案外、ふりだけかもしれないけれど---、コンピューターを使っている。
グレートがタイプを使うのは、もっぱら脚本だの、小説の切れっぱしだのを打つ時で、額にしわを寄せて、うんうんうなりながら、3行打っては紙を破り捨て、3ページ進んではまた最初から書き直し、けれどいまだ仲間の誰も、彼の完成作品をその目で見たことはない。
それでも、紙の無駄遣いだとフランソワーズが眉をしかめる以外は、誰もそんなグレートと、古ぼけたタイプライターを、微笑ましく眺めている。
ハインリヒはたまに、そのグレートのタイプライターを使うことがあった。
私信は、たいてい仲間に宛てたものだから、万年筆やボールペンを使った手書きだけれど、ギルモア博士に頼まれたメモの整理だとか、どこかの学会宛てに出す論文の上書きだとか、あるいは、少しばかり改まった先へ出す手紙だとか、そんなものを、いつもハインリヒは、グレートのタイプライターで打っていた。
コンピューターを使えば、もっときれいに速くできるとわかっていて、どうしても、自分の右手では、プラスチックのキーボードを叩き壊してしまいそうな気がして、触る気になれない。
それに、かたかたと、懐かしい音を立てるタイプライターのキーの感触の方が、耳にも指先にもしっくりするような気がする。一文字一文字、つづりを間違えないように注意しながら、頭の中で文章を練るスピードと、それはちょうど良くもあった。
少しざらざらした、淡く黄色がかった白い紙を差し入れ、さて、と手をキーの上に置く。最初の数語が浮かんだら、もう少し辛抱強く、きちんと文章が浮かぶのを待つ。ゆっくりと、かたかたぱたんと、キーから打ち出される文字と、自分の指先を交互に見ながら、そうとは知らずに、そこに浮かび上がる文章を、ゆっくりと音読している。
1ページ打つのに、午後中かけて、その間に、紅茶を3杯ほど---運が良ければ、自分でいれなくてもすむこともある---お代わりして、きれいに打ち上がった文字の並びを、満足そうに眺めてから、椅子から立ち上がる前に、そっとタイプライターを撫でる。
真っ黒なタイプライターは、指の跡も見せずに、つやつやと輝いている。
誰にも見せたことはないけれど、ハインリヒは、気に入った詩や文章を見つけて---この場合は、英語のものに限られるけれど---、自分でタイプして、こっそりとコレクションしている。
昔は、ドイツ語の作品ばかりで、粗末なノートに、粗悪なインクのペンで、必死に手書きで書き写していた。
BGに誘拐された時に、もちろんそのノートは失くしてしまったままで、長い間、自分がそんなことをしていたことすら、忘れていた。
改造されたおかげで、言葉に不自由がなくなって以来、古今東西、手に入る本や文書なら、ほとんど苦労もなく読めるようになり、おまけに、紙もペンも、自由に手に入るようになっていた。
贅沢な習慣を、また呼び戻して、しかも今度は、こそこそ人目を忍ぶ必要も、書き写したノートを必死で隠す必要もなく、人間であることを失った代わりに、奇妙な自由を享受する羽目になった自分の運命を、小さく笑った。
少しずつ増えるノートの中から、特に気に入ったものを、今度はタイプで打ち直す。手書き文字ではなく、活字になった文章は、そうやって改めて読み返すことによって、よりいっそう、心の中に、深く刻み込まれるような気がする。ちょうど、紙にインクで、字が、叩いて刻まれるように。
キーを叩く。かたかたと音を立てる。その原始的な機械は、ハインリヒに、同類嫌悪を呼び起こさない。代わりに、暖かな親近感を抱かせ、目の前に現れる文章を、声に出して読みながら、一緒に、同じことをしているのだと、どうしてか思う。
古ぼけたタイプライターは、どこか自分に似ているのだと思いながら、またノートを読み返して、タイプした紙の束を広げて、ハインリヒは、小さな宝の山に、ひとりで埋もれる。
「今時、メールってもんもあるってのに、よくあんなもん使うよな。」
ギルモア博士から受け取った資料をまとめて、紅茶のマグを抱えて出て行こうとしたハインリヒに、ジェットがそう憎まれ口を叩く。
諌めるように、ジョーがジェットの方を見たけれど、ジェットの言ったこと自体には同意しているのだと知っているから、ハインリヒはふたりの方をちらりと見て、苦笑をこぼしただけで、何も言わなかった。
次の論文のアウトラインをまとめておいてくれと言われ、簡単に下書きした、自分の手書きのメモと、ギルモア博士からの資料を眺めて歩きながら、熱い紅茶を一口すする。
ほとんど、グレートの書斎のようになっているダイニングに近づくと、かたかたとタイプを打つ音が聞こえた。
グレートは、近頃公演の準備で忙しくて、彼が言うところの創作どころの話ではないはずだがと、ノックはせずに、そっとドアを開けた。
タイプの乗った小さな机を覆い隠す、大きな背中が、これも小さな椅子を、壊してしまいそうに見えた。
「ジェロニモ?」
思わずその背に、不躾けな声を掛けた。
動いていた肩が止まり、タイプの音も止み、ゆっくりと、刺青の入った横顔が、無表情にこちらを振り返る。
「おまえさんが、創作とやらか、まさか。」
我ながら、意地悪な言い方だなと、言ってから思い、こほんと、ごまかすために咳払いをする。
ジェロニモは、表情をまったく変えずに、違う、といつものように言葉短に首を振って、またタイプライターの方へ向き直る。
誰かが、何かをしている時に、肩越しに覗き込むのはマナー違反なのだけれど---フランソワーズだけは、例外だけれど---、ペンを持っているところさえ、滅多に見ないジェロニモの、タイプライターに向かう姿に好奇心をそそられ、ハインリヒは、邪魔をしないように足音を抑えて、けれど、後ろから近づいていると、はっきりわかるほどには音を立てて、今にもぽきりと折れてしまいそうな椅子の背に向かって、爪先を滑り出した。
タイプライターのかたわらに、葉書が一枚。裏が写真になっていて、表の半分に私信を、もう半分に宛先を記すタイプの、どこにでもあるものだ。
右上の、小さな切手に押された消印が、アメリカからのものであるのを見て、私信の内容も、宛先も読まないようにしながら、ジェロニモの、あちらからの友人からだろうかと見当をつける。
「手紙か?」
答えてくれるだろうかと、机の横に、少し距離を置いて立って、訊いた。
両の人差し指を、ぎこちなく動かすのは止めずに、ジェロニモは、声には出さずにうなずいて見せた。
「自分で、書かないのか?」
真剣な横顔と、けれど明らかに慣れない様子の手つきに、余計なことをと思いながら、重ねて訊く。
「おれ書く、ともだち受け取る、おれの字読めない。」
思わず胸の前で、書類を抱えたまま腕を組み、ふうんとうなずく。
字が読めないというのは、英語がわからないということではなくて、単に書き癖で読み取れないということなのだろうと、それ以上は質問せずに、ハインリヒは、ひとりで納得することにした。
そう言えば、ジェロニモの手書きの文字は、どんなだったろうと、思い出そうとして、ネイティブ・アメリカンというバックグラウンドのせいなのか、字を書くということを、そう言えばほとんどしないようだと、右手であごを撫でながら考える。
「用あるなら、すぐすむ。もう少し。」
そう言って、少しだけ打つスピードを上げたのを見て、ハインリヒは慌てて首を振った。
「いや、急ぎじゃない。ゆっくりやってくれ。」
邪魔にならないように、机の角に、紅茶のマグを置いた。
「キッチンに、紅茶が残ってる。おまえさんもどうだ?」
「今いい、終わってからにする。」
視線は、一瞬も紙と指先から離れない。ジェロニモの必死な様に、ハインリヒは、思わずうっすらと笑みをこぼす。
人差し指だけで、一文字一文字、確かめながら打っている。タイプライターは、かたかたと、慎ましやかな音を立てて、ジェロニモが心に浮かべた言葉を、そこに写す。
そこに刻まれた言葉の連なりを、読んでみたいと思った。
言葉を使うところを、あまり見せない彼の、そうやって真摯に紙に乗せた心の内側を、見てみたいと、ふと思った。
思ってから、今まで、誰にも見せたことのない、ハインリヒが集めた様々な詩や小説の切れ端を、ジェロニモなら、同じほどの興味を持って眺めてくれるかもしれないと、何の根拠もなく、突然思う。
そう思った自分に照れて、書類の束を抱えた腕に力を入れて、まるきり別のことを口にする。
「今時手紙なら、電子メールって手もあるだろう。」
わざわざタイプすることをしなくてもと、心底思ったわけではないけれど、ハインリヒに茶々を入れるジェットの気持ちを、ほんの少しだけ味わってみる。
指を止めて、紙に手を添えて、そこに打ち出された文章をためつすがめつして、スペースキーを2度叩いてから、ジェロニモがハインリヒに顔を向けた。
「誰もが、それを受け取れるとは限らない。」
別に、思慮のなさを咎めるようでも、責めるようでもなく、さらりと、日頃に似ない流暢さで言われて、ハインリヒは、自分の浅慮を恥じるように、すっと肩を後ろに引いた。
またタイプライターの方へ顔を戻して、指を動かしながら、ジェロニモが言葉を続けた。
「それに、おれさわると、こわす。多分。」
ちらりとこちらを見たジェロニモの目元には、どこかいたずらっぽい笑いが浮かんでいた。
同じことを考えていたのかと、坐りの悪い、ギルモア博士のコンピューターのキーボードのことを思い出して、ハインリヒも、つられて思わず笑った。
ジェットやジョーが、いつも小さな携帯電話を片手に、指先を忙しく動かして何か打ち込んでいるのを、ジェロニモや自分にすり替えてから、似合わないなと思う。
第一と、自分の右手を見下ろして、壊すこともありそうだけれど、あんな小さなキーを、こんな指先で打てるわけがないと、タイプライターのキーからもはみ出しているジェロニモの手に、視線を移した。
「今度ジェットに、タイプライターのことをからかわれたら、おまえさんが言った通りに返してやることにする。」
ジェロニモはもう、ハインリヒの方を見ないまま、そっとうなずいただけだった。
ハインリヒは、紅茶のマグを取り上げ、肩を回してドアへ向かった。
「終わったら声を掛けてくれ。リビングにいる。」
ん、と、背中に隠れるほど大きく、ジェロニモがうなずいた。
ジェロニモのために、紅茶は残しておこうと心に決めて、そっとドアを閉めて、ハインリヒは、またリビングに戻りながら、ドイツに帰ったら、古いタイプライターを探してみようと、ふと思った。
ジェロニモに、そのタイプライターで打った手紙を出したら、手書き文字の手紙を返してくれるだろうかと、思ってひとりで笑う。
その手紙の中に、お気に入りの小説の一節を紛れ込ませることを、忘れないようにしようと、ハインリヒは、微笑みを浮かべたままで、頭の隅に書きとめた。
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