Unexpected



 夏の終わり、ハインリヒは相変わらずトラックに乗ってドイツ中を走り回り、時には国境を越えて、何週間も家に戻らないことも珍しくなかった。
 特に景気がいいというわけではなくて、そうやって以前よりも熱心に働かなくては、以前と同じだけの収入を手にすることができず、何かあればイワンに助けを求められるとは言え、家族を養うために文字通り骨身を削っている、60に手の届きそうな同僚たちを尻目にひとり楽をする気にもなれず、ハインリヒは他の皆と同じように、取り憑かれたように一心不乱に働いていた。
 埃まみれになってやっと家に戻ったある日、フランソワーズの声で留守番電話が残されていて、
 「急ぎではないのだけど、良かったら電話を下さい。」
 日本に長く居過ぎて、すっかり日本人流の控え目が身についてしまっているフランソワーズの、それが電話を寄越せという意味の遠慮がちな言い方だったと、その時疲れ過ぎていたハインリヒは思い当たらずに、緊急でないならまた近いうちにと、そう思ってベッドに倒れ込んだその日以来、フランソワーズのそのメッセージのことなど、ころりと忘れてしまっていた。
 世界の一部がクリスマスで浮かれ始める少し前、暑さもすっかりやわらいで、1年のうちでいちばん空気の匂いの落ち着く季節になった頃、フランソワーズから電話を受けて、ハインリヒはやっと以前残されていたメッセージのことを思い出していた。
 決まり悪げに、折り返し電話しなかったことを詫びて、まだ遅くないなら話を聞くがと、あくまで下手に出ているつもりで先を促すと、苦笑の気配を消さずに、フランソワーズが意外な名前を口にする。
 「ストリンドナー氏って、アナタのピアノの先生だった人よね。」
 なぜここでその名前が出るんだと、訝んだまま、眉間にしわが寄る。
 「ストリンドナー先生がどうかしたのか。」
 彼はとっくの昔に亡くなっている。雪山の雪崩の事故だった。ハインリヒも、ちょうどその現場に居合わせた。
 今もその名を聞けば、懐かしさよりも先に、その偉大さをきちんと世間に受け入れられないまま逝ってしまった師の、その才能ゆえの痛々しさの方が胸を刺す。思わず胸の辺りを撫でながら、ハインリヒはフランソワーズが先を続けるのを待った。
 「あのねハインリヒ、ストリンドナー氏のレコードを見つけたの。」
 「レコード?」
 稀代の変人音楽家として、世間から遠ざけられてしまう前に、ストリンドナーは何枚かレコードを出していた。幸いなことに、それのどれも、今もきちんとハインリヒの手元にある。
 どのレコードのことだと、自分のステレオの方を振り返った。
 「ラジオ放送用に演奏したものなんですって。売るためではなくて、保存のために、当時のスタッフがレコードにしておいたものの1枚らしいの。」
 「ラジオ?」
 そんな話は聞いたことがない。ほんとうにストリンドナーのことなのだろうか。
 「どこのどいつがそんなものを持ってるんだ。」
 「アメリカ人の男性よ。おじいさまがドイツ人で、やっぱり音楽をやってた人だったんですって。」
 少しばかり話に信憑性が増してくる。
 それにしても、今頃になってストリンドナーの、きちんとレコーディングされたわけではないらしい音源が出て来るなど、出すところに出せばコレクターどもが目の色を変えるだろう。
 とは言え、そのコレクターたちも、今ではもう生きているかどうかわからない。
 ストリンドナーの、恐ろしげな外見に似合わない、優しい音を思い出す。柔らかで、熱っぽくて、いい香りのするあたたかな飲み物のように、耳の奥から全身へ流れ込んで来る、あの音。シルクのなめらかさと、ベルベットの重厚さと、心地良さばかりを思い起こさせる、彼の音。それでも、心を波打たせずにはいない、熱い塊まりが喉元へこみ上げて来る、あれはつまり感動という感情だ、それで全身を揺すぶって、身内の深い深いところへ、引きずり込まずにはいない、あの懐かしい音。
 フランソワーズがしゃべり続ける声を聞きながら、ハインリヒは、ストリンドナーの音を耳の奥で聴いていた。
 「──それでね、アナタのところへそのレコードを送りたいの。」
 突然、我に返る。
 「何だって?」
 「インターネットのオークションで見つけて。ジョーが落札したの。ちゃんと聞いてる?」
 少しばかり、フランソワーズの声が尖った。慌てて赤くなった頬を押さえて、ハインリヒは今度こそきちんとフランソワーズの声に心を振り向けた。
 「落札?」
 「そう、ワタシたちが落札したの。きっとアナタが欲しがるだろうって思ったから。もっとも、落札したのはもうずいぶん前の話なのだけど。」
 なるほど、連絡をくれというあの電話は、そのことについてだったのかと合点が行く。
 「そのままそっちに置いといてくれればいい。どうせそのうち日本に行くんだ。」
 下手に誰ともわからない人間の手に渡って海を越えるくらいなら、自分で抱えて持って戻りたい。そう思っていたら、ちょっとフランソワーズが次の言葉を惑わせた。
 「・・・ここにあるんじゃないのよ。」
 「落札したんだろう?」
 「したの。でも、ここにはないの。オークションに出した人は、アメリカ国内でしか取り引きしないって言って。」
 また話が見えなくなって来た。
 レコードを見つけた。ジョーとフランソワーズがそれを手に入れた。けれどレコードの現物はフランソワーズたちの手元にはない。じゃあ誰がそのレコードを持っていて、ハインリヒにどう受け取れと言うつもりなのか。
 「だからジェロニモに頼んだの。ちゃんと受け取って、あなたのところに送ってくれるんですって。」
 もうひとりのアメリカ人、ジェットではない理由は言われずとも悟った。もっともジェットなら、そのまま空を飛んで自力で届けるという芸当ができる。けれどあの勢いで空を飛ぶなら、きっとそれだけで薄いレコードなど無事では済まない。
 あれこれ考えても、やはりジェロニモの方が、迷惑を掛けるのに気が引けるにせよ、こういうことには適任だと結論して、
 「ありがとう。じゃあ届くのを楽しみにしてよう。」
 「きちんと受け取れるように、仕事が2、3日休みの時をジェロニモに教えてあげて。」
 もっともだと思ったから、素直にうなずいて、それでやっと電話が終わった。


 フランソワーズの電話の後で、ジェロニモと打ち合わせをして、そして2週間ほど過ぎた頃、確かにレコードがハインリヒの手元に無事届いた。
 空気の詰まった梱包材にきちんと包まれ、ダンボールでさらに二重にくるまれて、ガードのつもりだとでも言うように、ジェロニモがそれを携えて、ハインリヒの元へ届けにやって来た。
 「・・・スペシャル・デリバリーもいいところだな。」
 ドアの枠に少し納まらない巨漢を見上げて、ハインリヒは思わず腰に手を当てる。
 「包みがちゃんと届かなかったら困る。」
 アメリカの南部に比べればここはずっと寒いのだろう、少し頬を赤くして、ネルのシャツの下にはちゃんとタートルネックのセーターを着ているようだったけれど、冬用のぶ厚いジャケットは見当たらない。レコードの包みの他は、小さなかばんひとつのジェロニモを中に招き入れて、ハインリヒは今年はまだ点けていなかった暖房を、その時初めて入れた。
 「コーヒーでいいか。それとも手っ取り早く酒でも入れるか。」
 「酔っ払いは飛行機の中で散々見たからいい。」
 そこへと示されたソファの隅の方へ腰を下ろす。膝にレコードを置いて、ハインリヒがコーヒーを持って来るのを黙って待った。
 「なんでわざわざおまえさんが届けに来たんだ。」
 ジェロニモにコーヒーを手渡し、ソファの別の端にハインリヒは腰を下ろす。それと同時に、レコードが膝の上に移動して来て、ごく自然に、ハインリヒはそれを左の掌でそっと撫でた。
 「大事なものだとフランソワーズが言っていた。だから、直に届けに来た。」
 「酔狂なこった。」
 茶化すように言って肩をすくめながら、目の前に包みを持ち上げ、それを検分している振りで、ハインリヒはやっと小さな声で言う。
 「わざわざすまなかった。ありがとう。」
 今度はジェロニモが大きな肩をすくめ、膝に両肘を置いて、コーヒーのカップに両手を添える。
 ハインリヒはやっとレコードの包みに手を掛けて、ぐるりと貼ってあるテープを剥がし始める。ダンボールを外して現れたビニールの梱包材を、左手のナイフでそっと切り、後は乱暴に中身を取り出した。
 何の印刷もない、ただ薄黄色いレコードジャケットと、透明なケースに入ったCDも一緒に現れる。CDの方も何のしるしもなく、自分で焼いたもののように見えた。もしかすると、今時レコードプレイヤーもないだろうと、レコードの中身をわざわざCDにして一緒に出品したのかもしれない。
 CDの中身は後で確かめることにして、とりあえずはレコードを取り出した。
 馴染み深い、かさかさと音のする半透明のビニールに入った、黒く艶光りのするレコード、レーベルはジャケット同様ただ薄黄色いだけで、A面B面と手書き文字で記してある以外には何も印刷されていない。ジャケットの中には、レコード以外は入っていなかった。
 両手にそっと持ったレコードに、自分の顔が映っているのを数瞬眺めて、そんな自分をジェロニモが見つめているのをちらりと横目で見て、ハインリヒは勢いをつけてソファから立ち上がる。
 壁際に置いてあるステレオの電源を入れて、プレイヤーにレコードを置く。年代物のシステムだ。今では、もっと良いものが安く手に入るけれど、買い換える気にもならないまま、引越しのたびに連れ歩いている、同居人のような存在だった。
 何となくスピーカーを撫でて、レコードに乗る針の動きを目で追った。
 そうして聞こえたのは、針が溝を引っかくプツプツという雑音、そして始まる、まずはとても優しいピアノの音だった。
 春だ、と思って、匂いと色さえ伴って部屋中に広がる音を、ハインリヒは思わず目で追う。やわらかくあたたかく、空を見上げてその青さに微笑みのこぼれるような、そんな音だ。
 ストリンドナーの音だ。深い深い慈しみが底に流れる、その上に悲しさと淋しさと切なさが乗り、そこへ重なって聞く人間を圧倒する、彼の、音楽へ傾ける情熱と憧憬。
 ステレオの前に立ったまま、ハインリヒは、自分がひとりではないことを忘れた。
 優しさを伴った激しさが増す曲の中に身を投げ入れて、まるで指揮者のように、ごく自然に両手が顔の前で動く。
 少しずつあたたまる部屋の中で、ジェロニモは音楽に没頭しているハインリヒを眺めていた。
 ハインリヒにとってはとても大事なもののはずだからと、そうフランソワーズに言われた時にはもう、ドイツまで自分が届けに行くことに決めていた。送る途中で行方不明になったらという危惧もあったけれど、それ以上に、数年に1度会えるかどうかの大事な仲間に会いに行く口実として、そしてとっくに過ぎてしまっているけれど、誕生日のつもりもあるのだとフランソワーズが言ったから、それなら直に手渡すべきだと、そう思ったのだ。
 音楽のことはよくわからない。それでも、心を打たれるということはよくわかる。夕焼けの鮮やかさに魂を吸い取られそうになるのと同じに、耳を傾けずにはいられなくなる音だと感じた。ハインリヒが明らかに心を奪われている風なのが、余計にこの音楽を魅力的に思わせる。ここへわざわざ届けに来た甲斐があったと、ジェロニモはそう思った。
 コーヒーがややぬるくなった頃、レコードの針が持ち上がり、回転がゆっくりとおさまった。
 「レコードが波打ってる様子もないし、保存状態が良かったんだろうな。」
 B面には変えずに、ハインリヒはそのままソファに戻って来る。
 「ありがとう。」
 もう一度、ジェロニモにそう言った。今では口元から微笑みが消えず、それを見て、ジェロニモも同じように微笑みを浮かべた。
 「続きも聞けばいい。」
 ステレオの方を振り返り、2拍間を置いてから、
 「いや、いい。またゆっくり聞くことにする。」
 きっとひとりきり、思う存分聞きたいのだろうと思ったから、ジェロニモは強いてそれ以上は何も言わない。それならさっさとここを去ろうかと、腰を浮かしかけたのを、慌てたようにハインリヒが止める。
 「コーヒーを淹れ直そう。しばらくこっちにいるんだろう?」
 客らしい扱いもしていなかったことに初めて思い当たったように、ジェロニモの大きな手からカップを取り上げて、振る舞えるような何かがあったかと、冷蔵庫の中身を思い出そうとしていた。
 「いや、もう、明日帰る。」
 「おいおい、冗談だろう。ほんとうにあれを届けるためだけに来たってのか。」
 何かおかしいのかと、真顔のままジェロニモがうなずく。
 「やれやれ、とんだスペシャル・デリバリーだな。」
 「3年分の誕生日とクリスマスプレゼントだと、フランソワーズが言っていた。」
 言った途端、ハインリヒがばつの悪い表情を浮かべて、頬の辺りを薄く染めた。
 「・・・メンテナンスでしか、近頃日本に行ってないからな。」
 仕事が忙しいと言って、確かにここ数年、クリスマスも新年も顔を出していない。誕生日に1度くらい皆に会いに来ないかと誘われたのも、笑って聞き流し続けていた。
 平和であれば、顔を合わせる必要のない仲間たちだ。会わないことこそ平和の証拠だと、避けている節がないでもなかった。それに慣れ、自分の生活が落ち着けば、常に心の片隅にあるにせよ、それほど頻繁に懐かしく思うわけでもない。
 それでも確かに、誰かが家族同然に自分のことを気に掛けているのだと、今改めて思い知る。
 ストリンドナーが、相変わらずこんなにも深く自分の中に食い入っていることを思い出し、そして、だからこそフランソワーズも、その名をきちんと憶えていてくれたのだと思ったから、今度の新年は少し無理をしても日本に行こうと、ハインリヒは突然決心した。
 日本に行く前に、もしジェロニモがそこへいるなら、何かプレゼントを持って、クリスマスの頃にアメリカに寄ろうとも思う。今度はハインリヒからのスペシャル・デリバリーだ。
 こんなことは、思いついた時と考えている時がいちばん楽しい。
 「夕食くらい、一緒に食って行けるだろう。」
 淹れ立てのコーヒーの匂いを思い出しながら、微笑んだまま元に戻らない唇を隠すように、キッチンの方へ向いた。
 これはきっと、フランソワーズの計略だ。
 ここまですれば、きっとハインリヒの心が動くだろうと読んだ、フランソワーズの策略に違いない。ジェロニモを寄越したのも、黙っていても自分の意図を読んで行動してくれるに違いないと、そう踏んだからに決まっている。
 誰かの掌の上で転がされるというのも、たまにならそう悪くはない。
 それなら徹底的に悪乗りして、もうジェロニモとクリスマスの計画を立ててしまおうかと、そんな先走ったことも考えた。
 ジェロニモを連れて、ギリシャ料理の店へ行こう。フェタチーズとオリーブ油を使った料理を、ジェロニモは気に入るだろうか。夕食の席で、クリスマスの話をしよう。そして、そのまま新年に日本に一緒に行って、フランソワーズに何か贈る話を持ち掛けよう。
 考えるだけならただだ。フランソワーズにまんまと踊らされた仕返しに、ふたりで何かしないかと、悪巧みに声をひそめるギリシャ料理の夕べだ。
 いきなり何もかも楽しくなって、酒を飲みたくなった。
 クリスマスと新年に休むなら、今から必死に働かなければならない。それすら楽しみになって、ハインリヒはもう笑みの浮かんだ表情を隠さずに、ジェロニモの方を振り返った。
 「後で、一緒にフランソワーズに電話をしよう。無事にレコードが着いたってな。」
 何もかも心得ているという風に、ジェロニモがただうなずく。
 最初から、ジェロニモもこの計画に1枚噛んでいたのかもしれないと、ちらと思ったけれど、今では感謝する気持ちしか起こらずに、さてこの男とフランソワーズに何を贈るべきかと、心はすでにそちらに飛んでいる。
 コーヒーの香りがキッチンから満ち始めているのにかすかに鼻を鳴らして、ハインリヒはまたステレオに近づいた。
 久しく聞いていなかったストリンドナーのいちばん最初のレコードを探すために、棚の前に膝をつく。
 長い間鍵盤に触れてはいないけれど、その感触を片時も忘れたことのない指先が、探し当てたレコードを取り出すためにそこへ伸びる。マシンガンのその指先を慈しむように、ハインリヒは知らずに微笑んだままでいる。


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