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Layne Staley >>
酔っ払いの妄言
- 2010/02/10(Wed)
Stone Temple PilotとScott Weilandに対して病的に理不尽な言い掛かりがあるので、ファンの人は読まないが吉。
去年、AちゃんSが14年ぶりのアルバムを出した。Layneが逝ってから7年半。
新譜以前に、Jerryがソロを出したり、メンバーそれぞれ活動があったり、同時に、新しいVoを入れてAちゃんSらしきライブもあったり、まったくバンド自体が死んだというわけじゃなかった。
もしかしたらという希望は、多分世界中のファンの心の中にあったと思うし、たとえLayneがいなくても、バンドとして続いてくれるなら、少なくともLayneをずっと覚えていられる、そう思ってた部分もあった。
そしてもちろん同時に、どんなAちゃんSであれ、LayneがいないAちゃんSはもう多分AちゃんSにはなれないのだと、正直に思いもする。
新譜に対する反応は良くて、まさしくこれがAちゃんSだという評判で、Layneもきっと喜んでるよと、そういうコメントも見かけた。
うん、そう思うよ、Layneはきっとどこかで喜んでるよ。メンバーみんなが元気そうで、自分が死んだ後も、とにかくも前に進んでるのを見てきっと、"オレがいなくても大丈夫だろう?"って、あの笑顔で笑ってるんだろう。
新譜発売を横目に見て、2010年になった今、もしかしたら聞けるかもしれないと思って、でもやっぱりだめだろうと思う。
あれは、LayneのいないAちゃんSだ。新しいVoのWilliamが頑張ってて、それをすごいと素直に思って、聞くことはできても、心の中でやっぱり拒んでる。あれは、AちゃんSだけどAちゃんSじゃない。少なくとも、まだ。
AちゃんS以来、基本的にAちゃんS以外はOut of 眼中、Layneが逝って以来、まともに入れ込んだバンドが全然ない。AちゃんSに出会う以前の音楽を新たに聴き直したり惚れ直したり、そういうことはあったけど、相変わらずDOOMもVow WowもGluelegも、こいつの中では真っ直ぐAちゃんSに繋がってしまって、聞けないまま。
ようつべで検索すらできない。怖くて聞けない。痛くて聞けない。Layneがいないということを思い知るのが怖い。Layneのことを語るメンバーの声を聞くのが怖い。JerryやSeanが、Layneいう名を口にするのを耳にするのが怖い。
Layneが逝った時に、ずるいと思った。先に、ひとりで逝って、ずるいと思った。
決して気楽でも楽しいだけでもなかったはずのLayneの34年は、きっと普通の人の90年にも匹敵するくらいに長かったろうと思う。それでも、Layneが逝けたことを心のどこかで喜びながら同時に、やっぱり逝って欲しくはなかった。どんな姿になっても、生きていて欲しかった。でもやっぱり、そんなLayneを見たくはなかったろう。
だから、Layneは2002年の春の始まりに、ああやって死ねて、よかったんだろうなやっぱり。
Layneはいない。どこにもいない。Layneはもう歌わないし、笑わないし、ステージから飛び降りたりもしないし、薬のやり過ぎで死に掛けて、みんなに心配掛けたりもしない。
やっと逝けてよかったねと思う。そして、ひとりで先に逝ってしまって、ずるいと思う。
Layneが死んだ後で、時折Stone Temple PilotのScottの名前を耳にするたびに、彼に対する憎悪が募るようになった。
同じように重度の薬中で、同じようにリハビリ施設に出たり入ったり死に掛けたりで、それなのにどうしてScottは生きてるんだろう、Scottは生きて歌ってるのに、どうしてLayneは死んじゃったんだろうと、Scottにはまったく関わりのないところで、彼を憎んだ。
AちゃんSや他のバンドの焼き直しとしか思えない(個人的意見)アルバムを出すSTPに対して、実のところずっと以前から何となく気に食わないものを感じてたけど、Layneが死んだ後で、彼らと特にScottに対する理不尽な憎悪は、いっそう深まる結果になった。
どうして、ScottじゃなくLayneだったんだろう。何が、Scottを救う結果になったんだろう。完全に救われたとはとても思えないけど、少なくとも死なずに、いまだに歌い続けてるScottと、Layneは何が違ったんだろう。
きっと何か、責めても心が痛まない対象を探してたんだろうと思う。
Scottに対する憎悪を理不尽と自覚していて、今も彼を憎まずにはいられない。アルバムを出すとか、誰かと組んで何かやるとか、聞くたびに、怒りに眉が吊り上がるのがわかる。
誰かがScottとSTPの話をするたびに、心の中が怒りで煮えくり返る。まるで彼らのせいで、Layneが死んでしまったみたいに、AちゃんSが手足をもがれてしまったように、そんな風に感じることで、きっと自分の中の痛みをごまかそうとしてたんだろう。
ScottもSTPも、AちゃんSとは何の関わりもないのに、どうしてもこいつは、誰かを憎まずにはいられなかった。死んでしまったLayneが恋しくて恋しくて、それがLayneの選択だってちゃんとわかっていても、まるでLayneを奪い去られたみたいに、そう感じるのを止められなかった。
新譜のプロモ用か何か、15分ほどの動画を見た。
何かのチャリティに参加した時か、KISSのメイクをしてるAちゃんSのみんな、Williamは、JerryのことをCantrellと名字で呼んでることに、なぜだかほっとする。
以前ほどの猛々しさやトゲトゲしさの和らいで、あれから14年も経っているのだとしみじみ感じる。
Mikeyは決して口にしないけれど、JerryとSeanが言う。"Layne has passed away."
彼らの口から、多分あれ以来初めて聞く、Layneという名。"死んでしまったLayne"という、そこでいつも、口元の辺りの動きが一瞬止まる、彼らの表情。
「大事な友達を失くしたんだ、今でも大事に思って愛してる」、Jerryが、メイクで無表情にされながら言う。
生きて残された人たちは、食べて寝て笑って泣いて、そうやって変わらずに生きてゆくしかない。Layneが逝ってしまったことで、世界が終わったと感じたとしても、世界は相変わらず何もなかったように続いてゆく。
30半ばでLayneを喪った彼らは、今では40を過ぎて、JerryはRoosterに出てたお父さんにそっくりになりつつある。
Layneがいたら、それを笑ったろうか。
2002年の初夏、Layneが逝った直後、偶然Linkin Parkのアルバムを手に入れて、その時はそれがLayneの追悼アルバムになった。
それでも結局、Linkin Parkにはそれほど夢中にならないまま、Dokkenを聴き直したりJudasに惚れ直したりVandenbergにハマり直したり、Layne周辺の音は慎重に避けてた。DOOMもVow WowもGluelegも、今もほとんど封印状態のままだ。
それを、何を一体どう間違ったのか、今Type O Negativeに溺死中。
Layneよりももっと象徴的に、死を語る。明らかに死という概念に魅せられて、神に対して疑問を投げかけて、それでもどうやら、それをすべて冗談と言い捨てられるだけの余裕を持って、Pete Steeleが低い声で歌う。Layneよりももっと囁くように、語るように、もっと強い感情をあからさまに、それでも音楽という点においての表現力は抑えて、Peterが、もっと垢抜けない、もっと粗い音に乗せて、死にたいと叫んで、自殺はひとつの表現の形に過ぎないと歌い吐く。
Layneよりも体の大きな、Layneよりも表面上は愛に満ちた家庭に育って、とりあえずは恵まれているように見えるPeteは、酒と薬に溺れて、両親を失くした後に、姉たちに刑務所に送られる羽目になった。
犯罪歴のついてしまった彼について、他のメンバーたちは、国外ツアーが困難になったと淡々と語る。当のPeteは、50にもならないのに、痛めつけてしまったせいで60近くにも見える外見で、以前よりもずっとのろのろと、言葉足らずに話す。30代初めの頃の、カミソリのような鋭さが失せたのは、単に年齢のせいか、それとも酒と薬で足りなくなった脳細胞のせいか。
あれはきっと、Layneの姿だ。
死なずに生き延びてしまった、Layneそのままの姿だ。
醜悪と思うわけではなくて、ただ単純に、早くに老い過ぎてしまったPeteの姿を見て、そこに、彼よりは少し年下のLayneの姿を重ねる。そして、そのあまりの早さに、心を痛める。Peteの痛々しさを冗談に紛らわせることができずに、せめて彼がこのまま、薬と酒から遠ざかってくれますようにと、心底願わずにはいられない。
Layneよりももっと先に、銃で頭を撃ち抜いてしまったKurtに、Peteは敬意を抱いてると言う。自分ができないことをやって、彼は先に逝ったから、だから彼を尊敬していると、Peteは冗談なのか本気なのか、いつもの仏頂面で言う。
そのKurtの後を追うように逝ったLayneはどうだろう。家族も見分けられない腐乱死体で見つかったLayneはどうだろう。
死にたがって、どうやら生来欝気質で、酔わないとステージに上がれない、世界から人間すべてが消えれば地球が平和になると言い放つ(正論だと思う)、何が理由か女性とまともに関係の結べない、TONのPeteの声と曲に、なぜかLayneを失ったという傷が癒されるような気がする。
Layneと言う、いまだ血を流し続けてる傷を、慰撫されてるような気がする。
癒えなくてもいい、そのままでいい、血を流し続けていてもかまわない、そう言われてるような気がする。Layneという傷ごと抱え込まれて、その血に汚れることも厭わない、なぜかそんなPeteの姿が思い浮かぶ。
溺死の最中に、腹に抱え込んだ大きな石が暖かくて柔らかいような、そんな感じ。死にたがりの自分の丸ごとを、ただ無言で受け入れられてるような気がする。
Peteの、生きてゆくことの苦痛と悲しみに、自分のそれをさらに背負わせて、きっと自分だけ楽になろうとしているんだろうと思う。
誰かの苦しみを通してでしか、Layneについての悲しみを語れない。酔わないと、泣けない。泣いても泣いても、足りない。
飲み終わって、とりあえず涙が止まったら寝よう。眠ってしまったまま、そこから戻って来なかったLayneのことを考えながら寝よう。
いつまでも涙が止まらない。ボトルは空になった。Layneのことが相変わらず痛い。地下室でうずくまって体を丸めて泣いてるみたいだった、Layneの声が耳から離れない。
酔っ払ったこのまま寝よう。
Love ya, Layne, miss ya, Layne. I love you Layne, I still love you deadly. Will I ever get it over? I love you, Layne, I love you too much. I love you, I really love you, Layne.
酔っ払って
- 2009/04/02(Thu)
Is anybody there?
Why did you go there by yourself? Why did you go there by yourself?
Why did you do that? Why did you do that?
I miss you, I wanna see you, I wanna talk to you
I deadly miss you
You went there all by youself, you didn't take anybody, that was what you did
Why did you go there all by yourself, why did you?
It was much harder than you thought, harder than I thought to get over it
you are not here, you are not there, you are not anywhere
I miss you, I dearly miss you
I wanted to go with you, I didn't wanna let you go by yourself
It is too hard to stay here all by myself
I miss you
I miss you baby, Layne Baby, I miss you deadly
I rather die without you here
I wanna see you , I wanna talk to you, I miss you baby
I miss you Layne Baby
I really do
Layne
- 2004/04/11(Sun)
英語版の009がお気入りの回なので、録画のために、空テープを買いに、久しぶりの外出。滅多と外に出ないので、靴下探したり、靴探したり、けっこう大騒ぎ。
お目当ては、ビデオテープと、出たばかりの「The Commitments」のDVD。
残念ながらDVDは見つからず、つい出来心でAちゃんSのDVDを見る。見つける。買う。心臓バクバク。
さらについでに、Stingの「It's Probably Me」(Eric Claptonとの共演バージョン。ちっ、そうでないのが欲しかったのに)の入ったベスト盤らしい、「Field Of Gold」を買う。
午後のちょっと遅く、外は明るくて、少し暖かくて、人も車もいっぱいで、ぼさぼさの髪に、浮浪者のようなずるずるの格好で、家まで、収穫を抱えて、歩く。
歩きながら、泣きそうになる。何度も、何度も。
外は明るくて、春がそこまで来てて、人はみんな、すっかり薄着になってて、ああ、春だなあと思って、泣きそうになる。
そこに、Layneが混じることはないのだと、思う。
こうやって、AちゃんSのCDだのボックスセットだのDVDだの、たとえ同じものを持っていようと、構わずに手に入れる。そうやって、少しでも、Layneの思い出を、増やすために。できるだけ長く、鮮やかに、Layneのことを憶えているために。
買ったDVDの中に、「Unplugged」があって、その中でLayneが、「ここ最近で最高のライブだ」と言ったら、Seanが「ずっとライブなんか演ってなかったろうが」とツッコミが入る場面がある。
そんなことを思い出して、泣きそうになる。
逝ってしまった人が、画面の中で、動いて、喋って、笑って、歌っている。逝ってしまう前と、変わらずに。
その中で、Layneは、永遠に変わらない。
93年のロラパルーザで、ふわふわと頼りなく歩くLayneを見た。警備のにーちゃんに囲まれ、意外と身軽に動きながら、「またオーバードーズで入院したらしい」という、コンサート前の噂をこちらに確認させてくれるような、ひどく影と生気の薄い姿を、今も憶えてる。
あの頃まだ、Layneは20半ばをちょっと過ぎたくらいだった。
あれから、10年も経ってなかったね、Layne。
以前買ったボックスセットも、封も開けずに、しまったままで置いてある。今日のDVDもきっと、同じことになるんだろう。見るのが怖い。聞くのが怖い。歌うLayneに、会うのが怖い。
世界は動いているし、人たちは、歩いているし、車は走っていて、時間は一時も止まらない。でも、Layneはもう、凍結された過去の中から、動いて、抜け出すことはない。
歩きながら、外が明るすぎたせいなのか、Layneがいないことが、とても痛かった。
自分を茶化すために、「イノセンス」のことを思い出して、バトーがJerryで、少佐がLayneなら、トグサは茂吉ことMikey(Mike Inez)で、イシカワはSeanかな、とかそんなことを考えつつ、実際に映画を見たら、もっと落ち込むかもしれないなあと、またそんなことを考える。
・・・オーバードーズで死んじゃったなんて、全然シャレになってないよ、Layneちゃん。何もかもが、あーたらしいと思うけど、でも、後に残されて、痛いよ。とても。
ほんとうに、体を半分吹き飛ばされたみたいに、空っぽで、痛いよ。
どうして、こんなに涙が出るんだろう。どうして、今もこんなに痛いんだろう。
まるで、自分の傷をえぐるように、聞きもしないCDと、見もしない映像と、しまったままで、手も触れられないのに。
「Unplugged」を、開けてみようかと思った。プレイヤーに入れてみようかと思った。決心が、まだつかないけど。
2000年以来、仕事の都合で、家にばかりいる生活をしていて、外で人に触れることがない。外の世界と繋がるのは、もっぱらネット越しで、だから、生身の人間を見ると、何だかひどく眩しくて、戸惑う。
AちゃんSの、暗い世界が、今はちょうどいい。
Stingの「It's Probably Me」も、歌詞がLayneとJerryみたいだ。
・・・Eric Claptonが、トロントに来るらしい。コンサートに行こうと言ったのが同居人なのは、とりあえず置いておくとして、Claptonを見て、Jerryを思い出すのもいいかもしれない。
AちゃんSから、かけ離れた音楽の方がいい。似てるとこなんか、どこにもなさそうなのが、今はいい。
Layneに会いたい。
イノセンスとAちゃんS
- 2004/03/31(Wed)
士郎正宗という名前を、こいつは、かの極悪HRパロマンガ(大苦笑)「バスタード」で、まだ日本にいる時に知った。知っただけで、識ることもないまま時間は過ぎて、映画の「マトリックス」も未見のまま、いきなり「攻殻機動隊」という、士郎氏の作品を手にすることになる。
読み込まないと、まったく理解のできないこの作品の第一印象は、「いちばん苦手なタイプ」。
ゲームもやらない、機械類は、ソフトはともかくハードには無知、戦争ものは好きだけれど、傭兵については知識はなし、SFは自分からはほとんど読まない、というわけで、カルトな人気があるらしい「攻殻」の良さが、こいつには今ひとつピンと来ないまま、それでも読むうちに、何となく魅かれるポイントもあったりして、これはこれで面白い世界観だなあと。
幸い、たまたま周囲にコアな(日本人)ファンがいて、「攻殻」の面白さというのを、その世界観を説明しつつ説いてくれたおかげで、ああ、なるほど、そういう作品なのかと、何となく納得をして、もっとも今も、特にファンだというわけではなく。
そんな時に、「うる星やつら」の「ビューティフル・ドリーマー」(未見)を撮った押井監督の作品である「イノセンス」が公開中。北米ではまだ公開日時が未定なので、こいつはもちろん未見。
原作1冊しか知らないこいつにとっては、ネットで得られる情報、コアなファンからの感想、特別予告編の動画という、極めて限られた、偏向した情報の断片を繋ぎ合わせて自分なりに、今組み立てた「イノセンス」に対する印象というのが、どうしてか、とても痛い。
ここ2、3日、狂ったように、特別予告編の動画を、1日中流しっ放しにしてる。理由のひとつとしては、「イノセンス」そのものに対する興味より先に、これに使われた曲が、昔バンドで演ったアル・ジャロウの「Spain」と、原曲を同じにした、別アレンジの曲だったせいだったりして。
元はクラシックの曲だというのは、今回初めて、調べて知ったのだけれど、「Spain」を(必死で)コピーした当時は、歌のない曲に、とにかくアル・ジャロウが無理矢理歌詞をつけて、キーボード(ピアノ)ソロをスキャットで煽る、とんでもねー曲、という認識だった。
苦労して歌ったのと同じ曲を、もっと陰鬱な曲調で、しかも妙にかっきりした英語の発音の女性が、もの悲しく歌ってるというので、「なんだ、これ?」となったわけで。
おまけにピアノの音は泣きが入るし、後ろで時々鳴るベースの音は、DOOMの諸さんっぽいし。
泣けって言うのか、大声で泣けって言ってるのか?!とかモニターに向かってケンカ腰になってどうする、自分。
でもって、この「イノセンス」、主役のバトーさんの声が、今こいつが明夫タン呼ばわりしてる、平成009のジェロたんの声の大塚さん・・・これでもこれでもかの、クリティカルヒットの波状攻撃(意味不明)。
曲のせいで、一応まともに、動画の方も見る(ひでえ)。バトーさんは原作でももちろん嫌いなキャラじゃないし、どうやら、原作ではまだ新米扱いのトグサさんらしい人もいっぱい出てるっぽい。
それから、人形が、いっぱい。
「彼は(バトー)、生きた人形である」「腕も脚もつくりもの」「残されたのはわずかな脳と、そしてひとりの女性の記憶だけ」「おまえ(バトーさん)と組んで遜色なかったのは、少佐(草薙素子)だけだったな」(←この台詞、違うだろ〜と心の中で突っ込み入れつつ)うんちゃらかんちゃら。
「ヒトは、人であることを忘れた。それでも自分が人間でありたいと願い続けた男の、孤独な魂の乱交」。"魂"は、ここでは"ゴースト"と読み仮名が振られてる。
あの原作をベースにして、どこをどうしたら、こういうバトーさんになるんだろうなあと、こいつは頭をひねりつつ、絵はきれいだし、音楽もアレだし、お金がかかってて、しかもアジアの匂いのする、映画。
大きな劇場で見たいなあと、思った。
魅かれているのではなくて、でも、どうしても、目が離せない。どうしてなのか、わからなくて、動画を繰り返し繰り返し再生して、「Spain」とはまったく違う「Follow Me」を、聴く。
そのたびに、どうしてなのか、自分の内側が、泣きたいとわめく。
痛くて、痛くて、一体どこがどうして痛いのか、わからなくて、この5分強の動画が、いろんな意味で自分の好みにぴったりだということ以外の部分で、こいつの内側をつついていて、それが何なのかわからなくて、わからないまま、また繰り返し繰り返し、再生する。
夕べ、夢を見た。映画館で、大きな画面で、AちゃんSのLayneの歌う姿を見た。傍にいた誰かの腕にすがって、泣いた。夢の中で流れてたのは、キャメロン・クロウが監督した、「Singles」に使われた「Would?」だった。
目が覚めて、やっと、「イノセンス」が、こいつのAちゃんSと言う傷口を覆った、まだやわらかいままのLayneというかさぶたを、剥がそうとするのだと気づいた。
「イノセンス」の、「大事な人を失って、その失意の中、飼い犬を心の支えにしている」らしいバトーさんは、そのまんまJerryになる。白い長髪を後ろでくくってる仏頂面も、こいつにはJerryを思わせる。
おまえはバカかと、色んな人から言われそうなのだけれど、こいつにとっては、「イノセンス」は「攻殻機動隊」とも士郎氏とも関係なく、いきなりAちゃんSに直結する。
AちゃんSは、こいつにとっては、傷痕ではなくて、今も傷のままだったりする。新しい皮膚が出来なければ、かさぶたを剥ぎ取るわけにはいかない。血を流したくないなら、おとなしく、新しい皮膚が出来るのを待つしかない。
「イノセンス」をきちんと見た後でも、まだAちゃんSがどーのとわめくかどうかはともかく、今、Layneの命日を目の前にして、ひどく自虐的に、予告編の動画を繰り返し見てたりする。
泣きたいのは、Layneのせいだったのだと気づいて、Layneはもうこの世界にはいないのだという絶望に、また襲われる。
Layneは、もう年を取ることはないし、これ以上、彼にまつわる思い出が増えることもない。動いて呼吸する彼に会うことは、二度とない。
それが、死んでしまうということなのだと、こいつの内側で声がする。
こいつにとって、「イノセンス」はAちゃんSであり、Layneなのだと気づいたら、涙が出た。
Jerryは、きっと今も、Layneを恋しがってるんだろうと、思った。世界のあらゆるところに、Layneの痕跡を見つけてるんだろうなと、思った。こいつが、ずっとそうしてるように。
AちゃんSの匂いのまったくしない原作から、こんな作品をひねり出した押井監督の感覚っつーのは、一体どんなもんかと思いつつ、傷口を、またえぐってくれてありがとうと、皮肉を残しつつ。
でも、いちばん皮肉なのは、傷(AちゃんS)の範囲が広ければ広いほど、深ければ深いほど、Layneというかさぶたは、こいつの体の上に、長い間残ることになるという部分なのかもしれない。
そのかさぶたを、こいつはきっと、失いたくないんだろうな。いつまでも、傷が治らなければいいと、思ってるのかもしれない。だから、世界のあちこちに、Layneを見つけて、また傷から血を流す。
いるはずのないLayneを、探してる。もしかすると、いつかまた、どこかで会えるのかもしれないと思って、何もないところに、腕を伸ばしている。
・・・もっとも、映画をきちんと見たら、AちゃんSだと思ったことなんて、すっかり忘れてしまうのかもしれないけど。
自虐と自傷と絶望の世界。薬物中毒とその禁断症状の描写。「死ぬことを諦めてしまったからこそ生き続けるしかなかった」ひとりの男と、彼を支えて、失って、今は空っぽになった自分を必死で癒そうとしているもうひとりの男と、そんなLayneとJerryの物語を、「イノセンス」の世界の断片に見出して、こいつはひとりで、ああ、Layneの命日だと、首をくくりたい気分の中にいる。
こんなにも、Layneを失ったことで、自分が傷ついているのだと自覚するたびに、時間がこれを解決してくれるはずなら、そのために、一体どれほど時間が必要なんだろうと、思う。
今は、ほんとうに何も手につかない。ヒマさえあれば、頭を抱えてる。Layneが目の前をちらついて、他の思考の邪魔をする。「Follow Me」が流れれば、それがもっとひどくなる。
早く脱け出してしまいたくて、とりあえず吐き出してみた、おそらく誰も賛同も納得もしないだろう、呆れられるのは覚悟の上のたわ言。
「イノセンス」のファンにも「攻殻機動隊」のファンにもケンカ売る気は、全然ないです。ただ、吐き出して、少しでも楽になりたかっただけ。
Layneが恋しい。Layneに逢いたい。あれは彼自身の意志だったのだろうと、納得しながら、同時に、ボロボロになっても、生き続けていて欲しかったと、思う自分がいる。
「イノセンス」の断片の中に、Layne(とJerry)の姿を見つけて、「Follow Me」と歌う声を、Layneの声にすり替える。Layneは、どこかに、今は人の形をせずに生きているのだろうと、そんなことを思って、そう思いながら、Layneのいない世界で生き続けることが苦痛でなくなるのは、一体いつのことだろうかと、少しだけ、こわくなる。
とらわれて生きるなら、それはそれで仕方のないことなのだろうけれど。
いつか、Layneから自由になれる時が、来るんだろうか。
まだ、血を流し続けている。傷が痛む。色んなことが、LayneとAちゃんSに繋がる。繋がる先のLayneは、もうどこにもいないはずなのに。
原曲が同じはずの「Spain」と「Follow Me」、こいつの痛みを増幅するのが「Follow Me」の方なのは、アラビア語の編曲にインスパイアされたという、アジア色の強い背景のせいかもしれない。
「Spain」は、バンドで演ると楽しい曲だった。「Follow Me」は、ひとりで歌いたいと思った。
人見さんに歌ってもらいたいと思ったけれど、諸さんのベースに、(VowWowの)厚見さんのピアノで、Layneに歌ってもらうのも、悪くはないかもしれない。
それともJerryが、また泣きたくなるようなGソロを入れて、死にたくなるほどいいアレンジをしてくれるかもしれない。
とてもとても、Layneが恋しい。春は、痛みを運んでくる。「イノセンス」は、Layneのいない世界を浮き彫りにする。
Layneのいない世界で、こいつは、「Follow Me」を、きちんと歌えるようになりたいと、つまらないことを考えている。
Layneの逝ってしまった春は、その後に、諸さんの命日もある。失墜感。瞑目。黙祷。流れる自分の血の海の中。その暗い海の上に、手足を伸ばして漂っている幻想。
Layneに逢いたい。
痛い
- 2003/07/22(Tue)
自分がどんなに、AちゃんSとLayneを愛してるか、思い知る瞬間がある。
痛くて、泣きたくて、先に逝ってしまったLayneを思って、彼の、胸の内の痛みを想像して、死にたいほど、苦しくなる。
何がそんなに、良かったんだろうかと、自分に訊いて、答えられないまま、泣きたくなる。
愛してたし、愛してるし、もう、どこへも行けない想いなのだと知っていて、それでも、想うことを止められない。
Layneに結びつく、すべてのことが、自分の世界のそこここに転がる、Layneのかけらが、痛みを思い起こさせる。
Layneが、存在しないのだという、痛み。
どこを探そうと、どれだけ待とうと、もう、とりあえずは、2度と会うことはないのだという、痛み。
自分だけが、生き続けてしまうのだという、痛み。
泣きながら、まだ、Layneの声を聞けない自分の臆病さを、情けないと思う。
聞くのが怖い。生きているLayneを感じるのが、怖い。逝ってしまったLayneを、そこに見つけてしまうから。
死にたかったのだと、わかる。生きたくなんかなかったのだと、わかる。わかるから、だから、責めたくはない。止めたくもない。でも、求めてしまう自分がいる。
やっと死ねて、良かったんだよねと、多分それが、正しい言い方---極悪な言い草であっても---なのだと、自分で信じていても、自分の中の、ぽっかりと空いた穴を、泣かずには見下ろせない。
そこにいたLayneが、今はどこにもいない。
この世界の中で、同じ空気を吸って、同じ空を見上げていたはずのLayneが、今はどこにもいない。
世界の半分が、崩れ落ちてしまったような、そんな感覚。
灰色の世界の中で、まだ色を見つけられずに、Layneの色を視線が探す。あるはずも、ないのに。
こんなにもこんなにもこんなにもこんなにも。
愛しているのだと思って、失った痛みを、こうやって抱え込んだまま、必死で、回復の時間を待っている。
1年が過ぎて、まだ、Layneの気配は、あちこちに残っていて、もう、存在しないというのがうそのように、ゆらっと、影を見せる。
心臓と呼吸が、止まる。
そのまま、永遠に、止まってしまっても、いいのに。
会いたいと、言うべきではないのだろうか。戻って来て欲しいと、叫ぶべきではないのだろうか。あの声が、もっともっと聞きたいと、願うべきではないのだろうか。
死にたがる、すべての人間が不幸だとは思わないけれど、生きたいと、積極的に思えないことは、不幸かもしれない。
死ぬという希望に絶望して、屍のように生き続けることを、選択せざるを得ないという生き方を、痛々しいと思うのは、傲慢なのだろうか。
Layneに、日本で会ってから、もうすぐ10年になる。
DOOMの諸さんも逝った、Layneも逝った。みんな、先に逝っちゃう。
・・・30半ばで死ねるのは、それでもある意味、幸せなんだろうか。
死にたいと、思うわけではないけれど、取り残されたのだと思う。人の死を通して、擬似死を体験して、今は、ひとりで、死を考えている。
死ぬ理由がないから、とりあえず生きている。
生きてて良かったと、たまに思う。
幸せだと思いながら、幸せであるということが、頭でよくわからない。
猫が、こいつを見上げて、触って触ってと言いたげに、頭を寄せてくる。求められているのだと、思う瞬間。
そんな瞬間が、重なって、とりあえずは、死にたいと思う気持ちを、逃れてる。
色々と、言葉にならない想いがある。
愛してると、何度繰り返そうと、もう、届かないのが、痛い。
1年
- 2003/04/16(Wed)
Layneの命日も過ぎて、色々、悲しかったり痛かったり、それでも日常は、勝手に流れてゆく。
こいつの中で、Layneはりっぱな鬼畜サドだけれど、でも、Jerryと優しいキスをしたりしてる、彼もいる。
抱き合ったり、キスしたり、そんな軽い触れ合いは、寝ることよりも、ある意味もっと親密で、意味深長で、そんなふたりを思い浮かべて、もう、2度と触れ合うことがないってのは、どんな気分なんだろうなあと、ちょっと思ったり。
あのふたりが、そういう関係だった前提で話をするのもなんだけれど、でも、せめて、Layneのために、誰かが彼を愛してたし、愛してるんだと、信じたい。
Layneの人生に、何か救いがあったとすれば、少なくとも彼の才能を信じて、待っていた仲間がいたこと。彼らさえ、Layneを救えなかったけれど、それでも、彼らは、Layneの仲間だった。
Layneを救えるのは、Layne自身だったから。彼は、自分を救いたいと思ってはいても、きっと、それよりもずっと、死にたいという気持ちが、強かったんだろうと、思うから。
死にたくて、消えてしまいたくて、それでも、毎日何か、未練があって、もしかしたら明日は、いい日かもしれないと、そう信じる気持ちを捨てられなくて、惨めに生き延びて、そうして結局、いい日なんて、もう来ないんだと、やっと思えたんだろうか。
いい日は、あった。過去に。未来がまた、そんないい日の集まりだなんて保証はなくて、だから、Layneは、やっと、あちら側に、飛んだ。
生きてて欲しかった。歌い続けて欲しかった。JerryやSeanや茂吉と一緒に(みっちぇるさまも、多分)、ずっと笑ってて欲しかった。
それでも、生きることが苦痛だった彼には、逝けて良かったねと、泣きながらでも、言いたい。
生き続けることは、必ずしも幸福ではなく、死にたがって、果たせなくて、自己嫌悪まみれの人生を送る人間もいる。
だから、34歳で、逝けたLayneは、もしかすると、少しは幸せだったのかもしれない。
命を粗末にするなと言われても、生き続けることが苦痛でしかない人間にとっては、それは、拷問を耐えろと言われることに等しい。まるで、毛細血管を、ひとつひとつ切り開いて、どんどん血を流し続けるような、そんな人生。生き延びれば生き延びるだけ、先に待っているのは、より長引かされた苦痛。命も人生も、必ずしも、優しいものではないから。
それでも、歌ってて良かったと、仲間といて楽しかったと、そう思ってくれてると、信じたい。
天国でも地獄でも、Layneが今いる場所で、こちら側を見ながら、いいこともあったなと、そう思ってくれてると、信じたい。
苦痛だらけの人生を、這いずり回って生きて、まるで自分から生き埋めになるように、そうして、彼は逝ってしまったけれど、それでも、幸せだった瞬間があったのだと、信じたい。
あの、顔一杯で笑う、大きな笑顔が、忘れられない。無邪気で、まるで世界すべてを信じきっているような、ひどくナイーブな笑顔。
今、Layneは、こいつの中で、天使の姿でいる。天使の笑顔と、天使の声と、多分、天使の心と。
ねえ、胸が痛いよ。会いたいよ。声が聞きたいよ。寂しくて、悲しくて、泣きたくなる。
あーたのことを考えると、自分のどこかが、音を立てて割れるような気がする。
ねえ、Layne、今も、誰かが悲しんでる。あーたは喜ばないだろうけれど、今も、誰かが淋しがってる。
もう一度だけでも、あーたの声が聞きたかった。もう一度だけでも、会って、笑うのが見たかった。
1年過ぎても、まだ、あーたの声が聞けないよ。あーたの声は、胸の中にあるから、いつでも聞けるけど、耳では聴けない。こわくて聴けない。
こんなにも空っぽで、まだ、自分の一部が死んだままでいる。
Layne Baby, I still miss you. Love ya, Baby.
追悼その6
- 2002/07/09(Tue)
Layneに遭った。テレビで。歌とビデオのクリップと、素顔の映像と、死亡のニュース。
丸々3ヶ月。考えて見れば、今まで全然彼に遭わなかったのが、不思議なくらい。
再放送の時間探して、また見ちゃった。自虐的。
Layneがもう、この世にいないと、何より感じるのは、"1967-2002"っていう、数字の並びを見る時。彼がそこで終わったのを、まざまざと自覚する。
また、コリもせずに、泣いた。
彼が、ひとりで死んだのを、悲しいと思う。彼が望んだことかもしれないから、それはそれでいいんだと思いながら、同時に、やっぱり、それは淋しいと思う。
Layneは誰かを愛してたんだろうか? Layneは誰かに愛されてたんだろうか?
多分、答えは、"NO"だろう。悲しいけど。
愛されてはいたろうけどさ。もっとも、La;yneの愛されたいやり方ではなかったろうけど。
それでも、幸せなこともあったよね、きっと。
痛いよ、Layne。淋しいよ。あーたがここにいないから。
あーたが、そこで幸せであること以外、望んじゃいけないんだろうけど、それでもわがままで、もう一度だけでも、あーたの声が聞きたかったな、と思う。もう、聞けないから、そう思う。
せめて、俺はここで幸せだぜってメッセージだけでも、送ってくれないかなあ(苦笑)。
あの時、大丈夫?って訊いたこいつに、おまえが俺だぜって、歌うように言ったのは、一体どういう意味だったの? あーたも、こいつと同じように、感じてたのかな。もしかして。
いつか、ひとりだったんだよね。以前、どこかで、ひとりだったんだよね。一緒にいたんだよね、ひとりで。
同じことを感じて、同じことを経験して、同じことを愛して、今回は別々にいたけどさ、でも一緒だったよね。いつも、一緒だったよね。
だから、痛い、こんなにも。
愛してる、そういう陳腐な言い方しかできないのが悔しいけど、それしか言えない。
あーたが先に逝ってしまったのを、正直ずるいと思うよ。でも、仕方ないね。心中は気にならないけど、薬で死ぬのは、こいつのやり方では、多分ないから。
また会えるかなあ。いつかどこかで。今度はまた、ひとりになれるかなあ。会いたいよ。
追悼その5 そしてザジがやって来た
- 2002/06/25(Tue)
猫がうちに来ました。
少々奇形があって、どうやら母猫の飼い主に見捨てられたようです。生後3ヶ月くらいの濃茶のトラ。男の子です。
すでにオス1匹、メス3匹の身では、とてもとてもオス猫なんて、と思ったんですが、まあ、境遇があんまり惨めなんで、うちで仮預かり、と言いつつ、結局うちで引き取ることになるようです。
色々言ってましたが、ザジと名づけました。Zazie、1960年のフランス映画、地下鉄のザジ、のザジです。
彼がうちに来る前、猫が欲しいとは、いつのもようにわめいてたんですが、その頃は、実は名前をLayneにしようかと思ってました、実は。まだ、彼が逝ってしまう前だったので。
彼が来て、最初に浮かんだのはそれでしたが、あんまり痛くて、ボケてごまかしました。その時の候補が、ジェット(大笑)。はい、例の、裏の反則コンテンツ系のキャラです。それもあんまりなんで、よしました。日本語と英語で、あんまり発音も違い過ぎるし。
それで、ザジ。フランス語の名前なんだと思いますが、不明です。勉強不足だし、フランス語習うなんて、業腹だし(笑)。
同居人のひざに、気持ち良さそうに寝てる彼を見て、ふと、浮かんだ疑問。
「ねえ、ザジって、3月生まれくらいだよね。」
計算する一瞬前、もしかして、Layneの生まれ変わりかと、ふと思ったわけで。
ちょっと時間が合わないやね。生まれ変わりかと、思った瞬間、涙が出て、そう思った自分が、けっこう不憫だった。
まだ、痛いっす。
Jerryのとこに、きっと電話して、最期に話くらいしたよね、とか、そんなことを考えながら、自分が痛いのを、どうしても止められない。
Layneのための現実逃避で、けっこう長期に渡ったウツの根っこの辺りが、少しばかり軽くなって、表面はまだウツだけど、頭のどこかは、わりと昂揚してたりする。悪い傾向ではない。少なくとも、自分の好きなことをやらなきゃ、と思う。他人のために、自分の楽しみを全部犠牲にするんじゃなくてさ。
こいつにとって、ザジは多分、ある意味での、Layneの代わりになるんじゃないかと思う。出来損ないで生まれて来て、そのせいで捨てられて、でも本人は、この上ないほどみんなのことが好きで、とりあえず元気に育ってる。
まだ、聴けない。歌詞カードを目にして動揺するくらいだから、まだ、痛くて聴けない。ふと、自分で歌うことはあるけど。でも、それも痛い。
Layneに会いたい。もう、会えないから、会いたい。
無理して、長生きしてもらおうとは思ってなかったけど、もう少し、普通の死に方でも良かったかもね。改めて、彼のヤク中度を、ああいう風に思い知るってのは、ファンとしては痛い。いいけどさ、別にヤク中だろうと。死体がきちんと確認できる辺りで発見されたのは、ある意味では幸福だったのかも。ほんとに、路地裏で身元不明死体とかさ、そういうのも、Layneなら有り得たろうし。
自分の死にたがりの部分は、Layneによって癒されてた部分はある。彼の歌で、彼の人生で、こいつは擬似の死にトリップできた。今は、Layneがほんとに逝っちゃって、これからは自分で、死にたがりの部分をなだめなきゃならないんだけどさ。それとも、また別のLayneを見つけるか。
死ぬ気は、今はない。とりあえず。やりたいことを、少しだけでもやりたいようにやってるので。
ねえ、Layne、今幸せ?
追悼その4
- 2002/06/13(Thu)
数の少ないAちゃんSの本(同人誌)など、ちょっと広げてみる。ギャグなのが救い。
まだ10代のSilver Chairなんかのネタもあって、しみじみ、時間の流れを感じる。
さり気なくウツってたりするんだけど、どうしていいのか、よくわからない。もっとも、ここ5年くらいで、こんな量、こんな期間に書いたことないので、それはまあ、良しってことで。
いかに生活に追われて、物書きをサボってたかがわかる。
脳みその半分が、壊疽を起こしてる自覚症状がある。ただでさえ、働きの悪い頭なのに、一体どうしろってんだ。
Layneが恋しい。頭の中で、今日Them Bonesが流れて、心臓発作が起きるかと思った。まだ聴いてない。他のものにウツツを抜かしてるふりをして、現実から、目をそらしまくってる。後ろ向き。
LayneをかばうJerryとか、ありだよね。Jerryのことも、しみじみ愛しい。
こいつの人生は、すっかり暗転して、呼吸をきちんとしてるかどうかも、けっこう怪しい。他にコケてるのは、まあ、生きてる証拠なんだが、しかし、自分の動向が、よく掴めてない。自分が何をしてるのか、よく分かってない。
わかってるのは、ひとりになりたいってことである。ひとりきりになって、だらだら下らないことだけ書き散らしてたい。他のことは、今は忘れたい。面倒見なきゃいけないヤツのことなんか、放ったらかしにして、旅にでも出たい。猫と一緒に。
いいかげん、Linkin Parkだけ聴いてるのにも、ウンザリし始めてはいる。でも、代わりの音が見つからない。今Vow Wowなんか聴いたら、本気で首でもくくりたくなる。
ひとりきりは、痛いよ、Layne。半分、空っぽだよ。まだ、もう少し、頑張ってみるけどさ。
安全地帯なんか聴いてみたいけど、尾崎豊は泣くからダメ。痛い人の人生についての歌なんか、今はとても聴けない。
うーん、安全地帯は、安全かもしれない(<-シャレではない)。
井上陽水の、リバーサイドホテルは、AちゃんSにトリップしちゃうからダメって言ったら、両方のファンに殴られるんだろうか。だって、ジャンキーの歌だもん。それにあれは、LayneとJerryなんだもん。痛い。
愛する対象を失くすと、やっぱり生きる気力が失せる。お酒も薬も、逃避にハマる趣味はないので、お手軽ではなく、立ち直るしかない。このウツは、徹底的に中途半端で、井戸の底はまだ遠い。落ちきってしまえば、そこで這い回るもよし、這い上がるもよし。でも、宙ぶらりんはつらいよう。痛いよう。
何て言うか、体中の末端の血管を、一本一本引き抜かれてるような感じ。痛い。でも、致命傷ではない、まだ。
今コケてる最中の、サイボーグ009のキャラ、004は、Layneに似ている。外見が、なんだけど。仲間の中で、いちばん機械じみた体の彼は、自己嫌悪から来る機械アレルギーがあって、自己否定が人一倍激しい。機械の体の自分を、出来損ないだと思ってる。りっぱな人殺しでもある彼は、けれど自分がいちばん死んでしまいたいのかもしれない。
かっこいい彼は、実は、キャラの中で、一番痛々しい。こいつは、彼の、そういう出来損ないだと自覚してるところに、魅かれてたりする。Layneだ。
死にたい時に、自分を殺してくれる誰かがいるのは幸せだ、ってのが、こいつの人生観だけれど、これはつまり、自分を殺したい程度に憎んでくれる誰かか、またはそのくらい理解してくれて、愛してくれてる人がいるっていうことなんだけど。自分で死ねないこいつは、とことん弱虫。
どうして命ってのは、分配とか相続とかが可能じゃないんだろう。ほんとに生きたい人に、ほらって上げられたら、いいのに。
死にたい気分ではないけど、頭の上に黒雲がいて、うっとうしい。しばらく太陽を見てない。
そしてこいつは、こんな代物を、部屋に閉じこもって、つらつら書いてる。
Layneに逢いたい。
追悼その3
- 2002/06/01(Sat)
まだ、聴けない。自分から進んで、彼らに触れようと、まだ思えない。
たかが一月で素面になれるほど、彼らの対する想いは浅くはないらしい。もちろん、深いのは自覚してたけど。
昨日の新聞で、いつものようにコミックのページに辿り着いたら、上から3番目くらいの、作者がバンドを演ってる4コマが、Layneだった。彼に対する追悼。
まさか彼が、AちゃんSのファンだとは思ってもみなかった。
要するに、偉大なミュージシャンであると同時に、あがき続ける苦痛の人だった、Layne Staley、安らかに、そんな感じの代物で、こいつは、この不意の遭遇に、あやうくまた泣きそうになった。
泣かなかったのは、自分で、それなりに大丈夫になりつつあるって、信じたかったからだと思う。
もちろん、大丈夫なんかじゃないんだけどさ、全然。
レインって、言葉の入った歌はけっこうあって(日本語ね)、雨って意味なんだけど、もちろん、それは。でも、我々には、音的には両方同じだし、そういうとこでも、こいつはなんだかこう、背骨の辺りが痛くなる。
雨の歌って、悲しいのが多いし、涙に通じるとこでも、こいつには全部Layneに繋がる。
彼がこの世にいないってのが、ひどく痛い。痛くて、その痛みを忘れるために、現実逃避ばっかりしてる気がする。
VowWowも聴けない、Doomも聴けない、Panteraも、Gluelegも、Mad Seasonも、何にも聴けない。あれからずっと、ほんとうにLinkin Parkしか聴いてない。
NirvanaのKurtが死んだ時、Jar of Fliesばっかり聴いてた。あれが、Kurtへの、追悼アルバムだった。今回は、何故だかLinkin Park。詞の内容も、ヴォーカルのタイプも、AちゃんSに似てるようで、あんまり似てないのがいいのかもしれない。後ろにモタるDrは似てるかもしれないけど。でも、Gソロは全然ない。ありがたい。今、とてもJerryを思わせるようなGソロなんて、聴く気になれない。
愛しいから、痛い。
自殺だろうと何だろうと、人間、死んだ時が寿命なんだと思う。自殺だってさ、成功しなきゃ死ねないでしょ。まあ、好きで死ぬ人は、そうそういないとしても。
不思議だね、死にたくなくて、あがいてる人もいっぱいいるのに、死にたくてあがいてる人もいっぱいいる。どっちがどうなんて、わからない。こいつはいつも、死にたくてあがいてる方だから。
死にたいってのは、そんなに、忌むべき感情なんだろうか。もちろんこいつだって、友達が死ぬだなんて言えば、慌てふためくんだろうけどさ。矛盾してるけど、でも、そう思うにはそう思うだけの理由があるんだろうし、それを下らないこと言ってんじゃねえよ、なんて、言えない。
まあ、自殺の仕方を一緒に考えるほど親切でもないけどさ。心中くらいは、ふと考えるかもしれないけど。
死にたい気持ちを否定するのも、死にたがるのを止めようとするのも、どちらもそう親切だとは思わない。放っとけば、とももちろん言わないけど。まあ、もっとも、ホントに死ぬ気でいる人間は、その前に誰かにその決意を打ち明ける、なんてことは、実際しないと思うから、死にたいっていう台詞が出るのは、そのくらい苦しいから、助けてくれって、要するに言ってるってことだろうから、まあ、普通の神経なら、まず、死にたいなんてダメだよ、って言うべきなんだろうな。聞いてる方には、どんなに虚しく響く台詞だろうと。
こいつはそうだな、死ぬなって言われるより、そっか、じゃあ、まあ決行する時は一言電話くらいちょうだいね、なんて言われると、嬉しくなって死ぬ気が失せるような気がする(笑)。
こいつ、神経切れてるのかもしれないけど、誰かが死にたいって言って来たら、そっか、試して失敗すると、やる気が失せるだろうから、試してみたら、とかって言っちゃいそう。極悪かも。
自殺の何がいやって、死体の始末のことを考えるのと、失敗した時の後味の悪さ。まあ、傷も痛いしね。この程度で自殺に歯止めがかかってるんだから、こいつの死にたがりも、年季は入ってても、根性も入ってなければ、性根も全然座ってない。だからこいつは、まだ生きて、あがいてる。
生きてて良かったと思うことは、まれにある。AちゃんSに出会った時が、そうだった。下らないのかもしれないけど、こいつにとっては、ああいうハイが、幸せに欠かせない。彼らに出会うために生きて来たんだって、本気で思った。そして今も、心からそう思う。
Layneに出逢って、彼の声に惚れ込んで、彼の苦しみを見て、彼の死に遭遇した。それがこいつの人生の目的だったんなら、それはそれでいい。納得する。Layneは、こいつに出来ないことを、いっぱいした人だから。Layneを通して、こいつは、色んなことを見たから、感じたから。そしてこれからも、こ いつはLayneを通して世の中を見てゆくんだろうと思う。
Layneはもう、こいつの自我の中に組み込まれてしまっていて、彼のものではない感覚で世の中を見ることは、出来ないような気すらする。
色んな人が、色んな形でLayneの死を悼んでるのが、単純にうれしい。少なくとも、それだけLayneは愛されてたってことだから。もっとも、それはLayneが欲しがった愛の形では、なかったのだろうけど。
ただのLayneとして愛されるには、彼の音楽は巨大過ぎたし、彼自身が、ひどく難しい存在だったんだろうと思う。愛って何?って、そう彼は問い続けて、結局、答えを見つけられなかった。
愛されることがすべてではないけれど、それを求めている時に、見つからないのは、ひどく虚しい。
愛の代わりが、薬だったってのは、あまりに陳腐過ぎるけどさ。
愛って何だろうって、こいつは自分自身に問い続けてる。薬に手を出す勇気も機会もなければ、自分を消せる度胸もないこいつは、それでも死にたがりながら、愛って何?って、考え続けてる。自分のためと、そして先に逝ってしまった、Layneのために。