ARMSとLayne
- 2003/07/06(Sun)
ARMSという、週刊サンデーに連載されてたらしいマンガを、一気読み。
原作者が、サイボーグ009ファンに違いない!というので、読み始め・・・うん、納得(笑)。
原案者がいるので、どこまでが、絵の方の思想なのか、ストーリー上の演出なのかはちょっとわかりませんが、まあ、確かに、009を読んでハマって育った人だろうなあと。
絵柄的には、かの極悪マンガ、「バスタード」の影響が濃いような気が・・・ストーリー的にもある意味、「バスタード」現代版って感じで。
でも、女の子の裸満載の「バスタード」と違って、ほとんど人の裸すら出て来ないARMSは、ある意味、ほんとうに作品勝負というか。
人間てのは悲しいもんで、やっぱり、性的描写に反応しちゃうわけで〜。
「バスタード」では、作者自身も、今いち自分で言葉ではきっちりわかっていないんだろう思想というのが、ARMSでは、説明くさくなくきちんと表現されてる感じだったし、何しろ、女の子の裸が出て来ないので(笑)、物語そのものに集中できるというか(笑)。
映画の「シザーハンズ」とか、同じサンデー連載だった(時代は全然違うが)「うる星やつら」なんかの影響も見えて、ああ、同じもの見て育った人たちだなあと。
説明せずに通じる、共感とでもいうか。
最初に強調されるのが、まず、「化け物」。人でありながら、"普通の"人ではない、人たち。体の一部が変形するとか、超能力使えるとか、遺伝子操作で脳みそ早熟にされちゃったとか、あるいは改造されたサイボーグたちとか・・・まあ、普通の人は、あまり前面には出て来ない。主要なキャラは、おしなべて「化け物」。
優れた人種になりたくて、自ら望んでそうなった人もいれば、そういうふうに"造られて"、生まれてしまった人たちもいて、あるいは、本人の意思は関わりなく、実験体として改造されたとか・・・まあ、すべての、そういう人は、実験体ですが。
・・・ほんとうの「化け物」は、異形の彼らなのではなく、さまざまなエゴで、心を歪めてしまった、"普通の"人たち。
人が、人であることの意味、理由、その弱さ、強さ、もろもろを、その「化け物」たちが、見せてくれる。
普通であること、平凡であることが、どれほど大変なことか、どれほど貴重なことか、異形にならなければわからない。普通であることから排除された人間は---「化け物」は---、排除されてるからこそ、普通というものを、くっきりと浮き彫りにする。
重厚な物語(暗くて、救いようがなく見える)の中で、しつこいほど繰り返されるテーマは、「人の足を停めるのは、絶望ではなく、諦観(あきらめ)であり、人の足を進めるのは、希望ではなく、意志である」。
不思議の国のアリスのモチーフを、物語の核の部分に散りばめてるせいで、もちろんこいつが思ったのは、「もしかして、AちゃんS好きですか?」(爆笑)。
う〜ん、どうだろう。物語の、救われるけれども、後味の苦い進行は、確かにAちゃんSを思わせる・・・。
前述のテーマで、極悪にも、Layneを思い出して、ひとりしみじみ考えたことなんかあったり・・・。
Layneが、とにもかくも34まで生き延びたのは、死ぬことを諦めた(絶望した)からだったのかと。死ぬことを諦めれば、そこで選択は、「生き続ける」しかなく、Layneは緩慢に、「いつか死ねるかもしれない」という希望に向かって、やっぱり歩いていたんだなあと。
彼の死は、彼の意志で、「希望として」選択されたものだったんだろうと。
ARMSは、どんなに絶望へ誘われようと、「希望を捨てない」という意志を選択する、とにかく前向きな物語(のーてんきなわけでは、まったくない。物語自体は、救いようもなく暗くなる)なのだけれど、こいつは読みながら、「死ぬことを諦めた、生き続ける人生」というのを、ずっと考えてた。
生き続けること、それに向かって前進すること、生きたいという意志を持つこと、それはものすごく大事なことなんだろうと思う。
けれど同時に、「死ぬ」という選択もあるのが、人生なのかなと。
Layneは、ある意味、「化け物」だった人だと思う。こいつは、彼のそういうところに、非常に魅かれていたし、魅かれているけれど、それゆえに彼が苦しんだ(絶望して、死ぬことすら、諦めてしまうほど)というのは、それもまたよくわかる。
死んだ方が幸せだって言い草は、人としてすべきでないと思っても、Layneに関しては、「やっと、ここから去れて、幸せ?」と聞いてみたいと思う。
Layneが、「死ねないから、絶望しながら生き続けるしかない」という人生を通して、さまざまな人に、生きる力を与えたというのは、かなりな皮肉だし、Layneが絶望すればするほど、その絶望の深さが、他の人に安らぎを与えるっていうことは、非常に、キリスト的とも言うか。
世界の絶望を背負って、生きて、やっと死ねた。
実際にAちゃんSが売れた頃は、Layneは救世主(苦しんでる人たちにとっては)的フィギュアだったし、まつり上げられればまつり上げられるほど、普通からは、遠ざかってゆく。
Layneは、ごく平凡に、普通の人になりたかったんじゃないかと、思ったり。
Layneにとっては、自分の長い友達であるJerryが、キリスト(救世主)だったんじゃないかと思うけど、Layne自身が、外の世界では、救世主だったっていう・・・。
そんなことを考えながら、読み終わって、少し泣いた。
また、ARMSを、最初から読み直してる。Layneが、この中にいる。合掌。
プリミティブな音楽
- 2003/07/11(Fri)
いわゆるスポーツの種類に、貧富の差が関わってるのはまあ、一目瞭然ですが、音楽の世界にもそれがありなのを、改めて感じた映画2本。
かのEminemの「8Mile」と、大学の吹奏楽団のお話、「Drumline」。後のは日本公開されてないのかなあ、もしかして。
ラップは元々あまり好きじゃないし、アルバム買うこともないし、誰がナニってのも知らないんですが、まあ、Eminemは何となく耳に引っ掛かるので、ちょっと見てみました。
ラップって、そう言や、あんまりお金のかからない音楽だねと、初めて気づいた。
もちろんDJやるのは大変なんだろうが、いわゆる歌を歌う分には、機材いらないし・・・必要なのは、自分の喉だけ。非常にプリミティブだ。
昔、アイスキューブが、ものすごいリズムで何やら歌ってるのを聞いて、ビビったことがあるけど・・・普通の歌なら歌うが、ラップは挑戦する気にもならない。とてもじゃないけど、あんなリズム感で、知らない言葉の歌を「歌う」なんて、無理に決まってる。
音楽として高尚かどうかは、まあ置いておいて、でも、歌を歌う人間が、自分の紡ぎ出す言葉(とリズム)で勝負してるってのは、ある意味、非常に「正しい」音楽かもしれないと思った。
こいつは、歌詞(日本語でないものは)は、サウンドとしてしか聞かないので、歌詞カードでも読まない限りは、滅多と内容なんか聞き取りませんが、まあ、聞き取らない方が、音楽そのものの音を、純粋に楽しめて良いかもと、思うこともあったり。
歌詞知ってがっかりとか、まあ、ないわけではなし。非常に下らない歌詞と知っても、なおそれを音のすごさが凌駕する場合も、もちろんあるとして。
作中、Eminemが、必死に歌詞を考えてるとこ(小さく折りたたんだ紙に、ちっちゃな字が延々・・・左利きな彼)で、ちょっと目の奥が痛くなった。
日本語のラップなら、冗談でちょっと挑戦してみたいなと思った(笑)。
まあ、とりあえず、ラップと言うのが、基本的に黒人の音楽だと言うのに、貧困、というキーワードを引っ掛けて、初めて納得した。
お金がなくても、とりあえず始められるジャンルなんだよね。必要なのは、自分の喉だけ。
プリミティブだ。
黒人の方が、リズムに優れてるのが、ほんとうなのかどうかは、まあ、ともかく、地味なパートに黒人が多いのは、機材と練習と教育にお金がかけられるかどうかってのは、非常に関係があるんだろうなあ。
こいつが知ってるハードロック系(典型的な白人の音楽)だと、いわゆる花形パートのギターをやってる黒人は、金持ちで、大学ちゃんと出てるとか(ひとりなんかハーバードだ。あんなきれいな英語、普通にはニュースでも聞けない)だし、まあ、あまり「普通の」黒人ではない。
「Drumline」は、大学に行って、フットボールチーム応援のための吹奏楽団に入る、ドラム(小太鼓?)の男の子の話なんだけど・・・これは黒人映画なんだろうなあ。
吹奏楽団の花形的に、ドラムパートを扱ってたんだけど・・・音は気持ちよかったなあ。
打楽器も、のめり込めば、お金のかかるパートだけれど、始める時には、プリミティブに始められる類いの音楽だったりする。
叩くこと、歌うこと、音楽の、原始の部分。
ある意味、対照的なのは、アラン・パーカーの「ザ・コミットメンツ」かもしれない。映画の質はこっちの方が断然上だけど、比較すると、貧しい黒人、貧しい白人、這い上がろうとする黒人、這い上がろうとする白人、その違いが、何となく見える。
アイルランドのダブリンで、ソウルバンドを結成しようとして、楽しみながらも、色々挫折したり(音楽に関わることだけではなく)、ちゃっかりうまく行ったり、「アイルランド人は、ヨーロッパの黒人だ、ダブリンの人間は、アイルランドの黒人だ」と、話の中では冗談めかして言われる台詞が、実のところ、重くて、痛い。
黒人であること、白人であること。アジア人であり、日本人であるこいつには、絶対にわからないけれど、部外者として、膚で感じることのある、どこかぴりぴりとした、関係。
そう言えば、白人に対する侮蔑語で、「white trash」(白いクズ、ゴミ)ってのがあったな。
差別されるからこそ、自分たちのテリトリーで、「白い野郎にラップがわかるもんか!」「白人は、(俺たち、黒人みたいには)高く飛べないんだぜ」と、時には憎悪を込めて、あるいは冗談めかして、言う。
音楽もスポーツも、肌とか国とか人種とか、そういうものを、越えさせてくれる瞬間のあるものだと思う。
その瞬間がもっと増えて、もっと長く続けばいいなあ。
と、アジア人の、チビな、女にすら見えないらしいこいつは、思う。
自分が差別されるのはいいんだけどね、人が差別されるのを目にするのは、痛いよ。
違いは、膚の色だけではない。何かもっと、他のものがあるのだと、映画を見終わって思った。
ウツとホームシック
- 2003/07/12(Sat)
もしかすると、思ったより事態は深刻かもしれないと、思い始めた。
この時期のウツは、毎度のことだと思うのだけれど、症状が、段々とそれらしくなくなってて、自分で自分の状態が、ヤバくなるまで、よくわからない。
夏は、いつも帰国の時期だから、また日本に帰れないのかと、そう思うせいなのだと思うけれど、それにしても、何となく、ヤバい感じがする。
体調が元に戻らないことはもちろんだけれど、体では感じるのに、一応体がきちんと機能してることを知らせてくれることが、なかなか起こらないとか、食欲がまったくないこととか、(たとえお腹が空いてると感じてても)何を食べたいとも思わないとか、食べても全然おいしくないとか、幸せになるのに、ものすごく努力が必要だとか、すべてがうっとうしいとか、すべてを投げ出してしまいたいとか、何もしたくないとか、したって無駄なのに、どうしてしなきゃいけないよだとか、無気力、投げやり、無力感、笑って誰かと話しながら、天井からロープを吊るすところを探してるとか、そんなことはないから、まあ、大丈夫なのだろうとは思うけれど、自分がわりと冷静で、大丈夫なんだろうと、思ってるところがまた怖かったり。
大丈夫だと、信じ切れない。
中耳炎らしい耳は、1ヶ月薬を飲み続けた(抗生物質)にも関わらず、まだ完治せず、これもまた、「日本にいれば、耳鼻科にほいっと行って、それで終わりなのに」と思う理由になる。
こっちだと、まあ、医者(専門医)に予約を取って、その医者に会えるのは早くて1月先になる。救急病院は、抗生物質は処方してくれる(副作用でおそらく死にそうになるおまけつきは、まず間違いなしだけど)けど、治療はしてくれない。
周りにいる人間たちの話すことと言ったら、誰かの悪口か、お金の話か、フカシばっかりだし・・・読んだ本の話とか見た映画の話とか、好きな音楽の話とか、できる相手がいない。
どうして、借金抱えてる人に限って、楽にお金の儲かる話しかしないかなあ。そんなうまい話、あるわけないじゃんと、こいつは夢がないから真っ先に思うのだけれど、こうしたらこれだけ(何もせずに)儲かる、こうできたら、(これだけお金が入って)こうなるって、そんな話ばっかり・・・何百万も借金のあるその人は、自覚はないんだろうが、かなりの浪費家だったりする。
金銭の問題抱えてる人って、それはお金だけの問題じゃないって、わかってないんだろうなあ。
欲しいものがあるなら、買えばいいじゃないかと言われるけど、欲しいものを、即座に買わないから、こいつは借金がないんだよと言っても、多分わからないんだろうなあ。
もっとも、ほんとに欲しいものなんて、何もないんだけどさ、ここじゃ。
品質を考えれば、とてもそれだけのお金を出す気になんかならないものばかりだし、基本的には何を買っても、安物買いの銭失いになるし、高いお金を出したところで、求める品質は絶対に得られない。
買い物でストレス解消もできない(苦笑)。
映画見てる時は、話しかけられたくないんだよ。最初の瞬間から、字幕が流れて、完全に終わってしまうまで、意識を逸らしたくないんだよ。字幕が終わって、ほんとうに終わってしまうまでが、1本の映画なんだよ、その間、できるだけ集中してたいんだよ。面白いと思った映画は、何度も見返したいんだよ。ほんとなら、映画館でちゃんと見たいんだよ。でも、とてもじゃないけど、ロクな場所じゃないから、仕方なくテレビで見てるんだよ。映画好きな人の集まる、そういう映画館で、好きな映画を見たいんだよ。こいつが見たいのは、アメリカ映画じゃないんだよ。ヨーロッパとかアジアの、字幕じゃないと見れないような、そういう映画なんだよ。
だから、うるさい、話しかけるな。申し訳ありませんが、「グレイト・ブルー」を見て泣いてたこいつに、「主人公が死んだからって、泣かなくてもいいだろう」と言ったあなたと、映画の話をする気はございません。
あの映画が、ただのメロドラマにしか見えないあなたと、映画の話をするのは、巨大な無理です。
・・・だから、頼むから、放っておいて。
楽しみたいことが、色々あっても、邪魔が入ると思っただけで、萎える。映画を1本、1時間半、一言の邪魔も入らずに見切ることさえできないと思うだけで、見る気が失せる。
アルバム一枚、雑音入れずに聞き込もうとしても、どこかで必ず一度音を止めなきゃならなくなると思うだけで、聞く気が失せる。
何か書こうと、机に向かっても、集中してる時に限って、5分置きに邪魔をする。
うるさい。放っておいてくれ。
あなたが不幸になりたいなら、ひとりでやって下さい。こいつは幸せになりたいんです。
ああ、めんどくせ。
何をしても、無駄だと思う。やり遂げたという、満足感へはたどり着けないと、始める前から思う。
自分を幸せにするのが、また少しずつ、難しくなる。興味が失せたわけではなく、ただ、無気力で、自分のやることなすことがすべて、虚しい。
自分が明日消えたところで、何が変わるわけではなく、少なくとも自分の見渡せる周囲では、世界はまったく変わらないと思うと、それが現実なのだと、いきなり気づく。
自分が大事だと思うことが、あまりにも現実感がなくて、膚に感じる現実は、すべてが気の滅入ることばかりで、心地よい方を信じたいのに、そちらがあまりに自分から遠くて、そのギャップに、落ち込む。
関わりたい人たちは、手の届かない場所にいて、そちら側には、そちら側の、こいつにはわからない現実がある。
人と、関わりたい形で、関わりたい。
電源を切れば、ぷっちり切れてしまう繋がりが、時々ひどく悲しい。常に繋がっているのだと自覚できない繋がりが、時々嫌になる。
そう自覚できないのが、自分の問題だとわかってるから、よけいに、痛い。
声を聞きたい人たちと、その形で繋がることは滅多になくて、まれに繋がれば、病的にはしゃぐ自分がいる。ガキだなあと思う。声が途切れた途端、落ち込む。
話したいことは、山ほどある。でも、大半が、聞くことの苦痛なグチになるのがわかってるので、口を開けない。
グチにならないために、共通の話題を探すと、でもその話題を共有できる人たちと、どう繋がっていいのか、よくわからない。
繋がってるんだろうとか、そもそも思う。
優しい会話をしたいのだけれど。けらけら笑ってばかりいるような、そんな会話が欲しいのだけれど。右から左へ流すのではなくて、必死に耳を傾ける会話がしたいのだけれど。相手の内側が見えて、それに対して、敬意を持てる会話が欲しいのだけれど。
人の話を、意識して聞かない、というのも、ひどく苦痛だったりする。聞けば、一言一言に腹が立つから、意味を遮断して、音だけを聞き流すというのも、これはこれで非常に神経の立つ作業だったりする。
ごく自然に、流れてくる言葉を、自分の中に滲み込ませることのできる、そんな会話をしたい。
自分が思うところの、人間らしいすべてのことに、飢えている。
お腹が空くこと、ゴハンをおいしいと思うこと、生きていて良かったと思うこと、家族に会えること、友達だと思ってる人たちと、繋がっていると、きっちり常に自覚できること、したいことをやって、満足感を得ること、何かについて、優しさと敬意を持って、語り合えること・・・。
孤独は、今はいらないけれど、ひとりになりたい。
また、簡単に幸せになれなくなってる。幸せな気分を味わうのに、ものすごい努力が必要になってる。
死にたいとは思わないから、大したウツではない(と思う)けれど、こういう、普通の気分のウツは、何となく怖い。致命傷ではなくて、じわじわと、失血死してゆく感じ。
死なないけれど、いつか死ぬのかもしれないと、根拠もなく、漠然と思う。
そんな感じで、1日が始まって、終わる。何もしないまま、また眠ることになって、落ち込む。
早く、元に戻りたい。早く、些細なことで、幸せになれるようになりたい。ホームシックはめんどくさい。
好きな人たちと、大事な人たちと、生で関わりたい。自分の中が満たされる、そういう繋がりが、生で欲しい。
贅沢なだけだと、わかっちゃいるが・・・。
早く日本に帰りたいよ。英語の生活はもういいよ・・・。
痛い
- 2003/07/22(Tue)
自分がどんなに、AちゃんSとLayneを愛してるか、思い知る瞬間がある。
痛くて、泣きたくて、先に逝ってしまったLayneを思って、彼の、胸の内の痛みを想像して、死にたいほど、苦しくなる。
何がそんなに、良かったんだろうかと、自分に訊いて、答えられないまま、泣きたくなる。
愛してたし、愛してるし、もう、どこへも行けない想いなのだと知っていて、それでも、想うことを止められない。
Layneに結びつく、すべてのことが、自分の世界のそこここに転がる、Layneのかけらが、痛みを思い起こさせる。
Layneが、存在しないのだという、痛み。
どこを探そうと、どれだけ待とうと、もう、とりあえずは、2度と会うことはないのだという、痛み。
自分だけが、生き続けてしまうのだという、痛み。
泣きながら、まだ、Layneの声を聞けない自分の臆病さを、情けないと思う。
聞くのが怖い。生きているLayneを感じるのが、怖い。逝ってしまったLayneを、そこに見つけてしまうから。
死にたかったのだと、わかる。生きたくなんかなかったのだと、わかる。わかるから、だから、責めたくはない。止めたくもない。でも、求めてしまう自分がいる。
やっと死ねて、良かったんだよねと、多分それが、正しい言い方---極悪な言い草であっても---なのだと、自分で信じていても、自分の中の、ぽっかりと空いた穴を、泣かずには見下ろせない。
そこにいたLayneが、今はどこにもいない。
この世界の中で、同じ空気を吸って、同じ空を見上げていたはずのLayneが、今はどこにもいない。
世界の半分が、崩れ落ちてしまったような、そんな感覚。
灰色の世界の中で、まだ色を見つけられずに、Layneの色を視線が探す。あるはずも、ないのに。
こんなにもこんなにもこんなにもこんなにも。
愛しているのだと思って、失った痛みを、こうやって抱え込んだまま、必死で、回復の時間を待っている。
1年が過ぎて、まだ、Layneの気配は、あちこちに残っていて、もう、存在しないというのがうそのように、ゆらっと、影を見せる。
心臓と呼吸が、止まる。
そのまま、永遠に、止まってしまっても、いいのに。
会いたいと、言うべきではないのだろうか。戻って来て欲しいと、叫ぶべきではないのだろうか。あの声が、もっともっと聞きたいと、願うべきではないのだろうか。
死にたがる、すべての人間が不幸だとは思わないけれど、生きたいと、積極的に思えないことは、不幸かもしれない。
死ぬという希望に絶望して、屍のように生き続けることを、選択せざるを得ないという生き方を、痛々しいと思うのは、傲慢なのだろうか。
Layneに、日本で会ってから、もうすぐ10年になる。
DOOMの諸さんも逝った、Layneも逝った。みんな、先に逝っちゃう。
・・・30半ばで死ねるのは、それでもある意味、幸せなんだろうか。
死にたいと、思うわけではないけれど、取り残されたのだと思う。人の死を通して、擬似死を体験して、今は、ひとりで、死を考えている。
死ぬ理由がないから、とりあえず生きている。
生きてて良かったと、たまに思う。
幸せだと思いながら、幸せであるということが、頭でよくわからない。
猫が、こいつを見上げて、触って触ってと言いたげに、頭を寄せてくる。求められているのだと、思う瞬間。
そんな瞬間が、重なって、とりあえずは、死にたいと思う気持ちを、逃れてる。
色々と、言葉にならない想いがある。
愛してると、何度繰り返そうと、もう、届かないのが、痛い。