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10/15に轢き逃げに遭遇 - 2007/11/19(Mon)
 10/15午後7時ちょっと前、正確には6時52分頃、仕事場から20分、家まで15分辺りの交差点で、轢き逃げに遭った。
 高速のすぐ傍の、わりと交通量の多い場所で、青信号を自転車で漕ぎ出した瞬間、左側から赤信号を105kmで突っ込んで来た車に跳ねられて、そこから20m跳ね飛ばされた。自転車は30m飛んだらしい。
 たまたま市バスを降りた女性が事故を目撃、車はそのまま走り去って、1時間後くらいに、すぐ近くに乗り捨てられてたのを警察が発見。
 救急車がやって来て、その場でこいつを裸にして、首と頭と背中を固定。それに30分くらいかかって、それからすぐに、そこから車で数分の病院に運ばれた。
 初見では、内臓出血(破裂)、背骨や首の骨折、頭の傷はかなり重傷という見た目だったらしく、CATスキャンとレントゲン、それからあれこれ検査をされて、結局怪我は、
 
 ☆ 肋骨の右側にヒビ(これは怪我のうちには数えない)
 ☆ 恥骨(骨盤)の、右腿との関節近くに3ヶ所の骨折
 ☆ 背骨の、肩甲骨の間辺りの柔らかな組織が押し潰されてて5割減
 ☆ 顔に範囲の広い擦過傷(見た目は、やたらと爪で引っかかれたみたいな感じ。いくつか深いえぐれ)
 ☆ 両足膝下にひどい打撲と擦過傷
 ☆ 左肩から腕全体に打撲
 ☆ 頭に切り傷(縫われなかった)

 90km以上のスピードで対生身だと、まず間違いなく死亡に近いのが普通だとかで、手術もギプスも必要ない程度の怪我ですんだというのは奇跡だと、医者を含めてあらゆる人に言われた。
 路上で1度、救急室にいる間に数度ショック状態(低体温)があったようで、医者としてはそっちの方が心配だったらしい。
 目が覚めたのは翌日の早朝4時頃。何だか目の前で、人やら手やらががちゃがちゃ動いてるなあとぼんやり思ってたら、医者らしい人(覚えてないけど、アジア系だったらしい)が、
 「これから唇を縫うから、麻酔をするから。」
と言って、ああ唇に麻酔の注射なんて痛いなあ、いやだなあと考えてたのを覚えてる。実際には注射の痛みは全然記憶にない程度のもので、事故後の痛みと比べたら無痛だったと言ってもいいくらい。
 その直後に同居人がふらっと傍に現れて、車に轢かれたんだと教えてくれた。ああそうなんだ、としか思わなかった。

 事故のことは、本人は無自覚にショックだったらしく、その日自転車に乗っていたという記憶すら消し去りたかったらしくて、その日の午後から記憶がない。仕事場を出て、ドアの鍵を閉めた記憶もなく、もちろん自転車にまたがって、そこから離れた記憶もない。そして、事故の記憶も一切ない。目が覚めたら、唇を縫われて、事故に遭ったと言われて、寒さに震えてるこいつを見て、お医者さんが毛布を持って来い、早く!と看護婦さんに怒鳴って、その毛布はとても温かかったけど、重くて表面がざらざらしてて、擦り傷やら打撲やらに当たってやたらと痛かったことだけ覚えてる。
 目が覚めてからは、とにかく両足が痛くて、体は両手以外動かせなくて、何度か痛みに耐えられずに、看護婦さんを呼んだ。モルヒネを点滴で入れられた。喉が渇いてたけど、唇を動かせなくて、ストローで吸う力もなくて、スポイドみたいに、口の中に注いでもらった。
 背骨の傷をいちばん心配されて、足のどこかに麻痺がないかと、何度も訊かれた。
 午後には、Observation(観察)と呼ばれる場所に移されて、同居人の家族とか、仕事先のオーナーとか、友人とかと対面。顔が傷だらけだったのと、体が動かせないのとで、見た目はかなり悲惨だったらしい。鏡をやっと見せてもらって(家族には拒否された)、顔の傷を確認。確かに見た目はひどかった。口の中も血まみれ。これは鼻血なのか口の中の出血だったのか不明。でも、頬の内側には傷はなかったし、歯も全部揃ってた。包帯もなし、唯一、左の爪先や足首の辺りに、湿潤治療用の透明なシールが数ヶ所貼ってあるだけ。唇を2、3針縫われたのが、いちばん深い裂傷だった。結局ちょっとだけ剥がれた皮膚と、ちょっとだけ流れた血が、見た目のダメージの全部。
 そこで事故の状況を聞いて、日本で買ったばっかりだった真新しい下着も、お気に入りでまだ数えるほどしか来てなかったカーキ色のダウンのベストも、普段着で重宝してたパーカーも、全部治療のために切られて脱がされて、警察が証拠として押収したと言われた。道理で手術着の下は、まったくの裸なわけだ。
 それから、買ってから14ヶ月ほどだった自転車は、とても修理というような状態ではなく、現場で自立できた程度には原型を留めていたけれど、あちこち折れ曲がって、サドルも吹っ飛ばされて(これが恥骨骨折の原因)、もちろん証拠として警察へ。ちなみに現場での写真。
 そろそろ新しいのを買わないとなあと、そんなことを考えてた厚底のサンダルは、原形を留めていたのかどうか不明のまま、これも証拠として押収。
 2005年の帰国時に買った眼鏡は、幸いにこいつより先に地面に放り出されたらしくて、少しレンズに傷らしきものがあったのと、フレームが少しだけ歪んでたのと、それだけで破壊は免れて、警察に押収されたけど、2週間くらい後で、自転車のバッグに入れてたこいつの持ち物と一緒に、こちらに戻って来た。
 Obsevationでは少し元気になってて、わりと元気に喋りもしたし、それなりに食欲もあって、クッキー&クリームのアイスクリームが食べたいと言ったり、アイスカプチーノが欲しいと言ったり、事故にショックを受けてる周囲に比べると、死ななかったからラッキー、この程度の怪我ですんだのは、同居人の亡くなったおばあちゃんと、今年6月に死んだ実家猫のらんまるが守ってくれたからだと、こいつはずいぶんと能天気だった。
 夜8時頃に、最上階のひとり部屋へ移された。基本的に、体を動かせない人たちのいる階だったらしくて、こいつは電動ベッドの背が持ち上がる振動にさえ耐えられないくらいの痛みに、それから4日ほど泣き喚くことになった。

 何しろ入院なんて、物心ついてから初めて。期間も不明。日本の親には、日本人の友人が連絡を取ってくれて、事故直後にわざわざお見舞いに来てくれた後に、見たそのままを再度連絡してくれた。5日目くらいには痛みもやわらいで、モルヒネも必要なくなって、少しは動けるようになったからと、自分で親に電話した。やっぱり心配してたらしくて、電話の終わりには、お袋の声には涙が混じってた。
 事故2日目には、すでにリハビリの話をされ、5日目くらいには、背骨の保護のためのBraceと呼ばれる固定器具を胸周りに着けて、とにかく動けと言われた。きれいに折れてる骨折ばかりだから、心配せずに動けと言われた。無理だっつーの。
 1週間目辺りで、リハビリの人が来るようになって、無理矢理ベッドから起こされて、まず車椅子に坐る練習。これが、右足がまったく動かせなくて、立ち上がると眩暈がひどくて、さらに坐ってるととにかくお尻が痛くて、15分ともたない。それでも毎日、同じことをやらされた。とにかく坐っていられるようになりなさいと言われて、何とか必死で頑張った。でも眩暈がひどい。お尻も、死ぬかと思うほど痛い。お尻に関しては、こっちの人と比べれば、東洋人の女性の腰というのはとても肉が薄いからだという結論で、車椅子にはぶ厚いクッションを敷いてもらい、ベッドの背を立てて、そこに坐ってることもできないくらいだったので、マットレスの上にジェルのシートを敷いてもらった。それでも痛かったけどさ、マシにはなった。
 2週目には、一応ひとりで食事もできるし、助けなしで清拭もできるようにはなって、さらに歩行補助器を使って、数歩なら何とか歩けるようにもなってて、そうなると欲が出て、まだ血だらけで汚れたままの頭が気になり始める。シャワーを浴びたい。
 事故からちょうど1週間過ぎたところだったか、自力で起きられるならシャワーを浴びてもいいと、看護婦さんから許可が出る。そして導尿も取ってもらえると言われた。自力とは言っても、起きるのに手を貸してくれるんだろうと思ってたらとんでもない、そこに立った看護婦さんは、
 「自力で起きられないのなら、シャワーは無理ね。」
と、冷たく言い放ってくれた。起きたよ、必死でベッド両脇のレール掴んで、動かない足を滑らせて、必死の形相で、ひとりで起き上がったよ。ハレルヤ。看護婦さんが鬼に見えたけどありがとう。坐ったままで浴びられるシャワーへGo!
 翌日くらいに、自力で動けるようになったせいか、4階へ移される。そこは短期入院が基本の、手術前後の患者さんの階で、階の一部は、隔離病棟にもなってた。隔離が必要なわけはないし、手術もないので、実際どうして4階なのかこいつも首をひねったんだけど、こいつの担当医が外科医さんだったので、恐らく自分の身近に置いておこうということだったんだろうと思う。
 残念ながらこの階には、椅子に坐ったまま入れるシャワーの設備がなくて、入れられた4人部屋のトイレも、椅子ごと入るには少々狭くて、まだ歩けないこいつにはひどく不便なところで、挙句導尿のせいで膀胱炎を起こしてたこいつは、抗生物質を飲まされることになって、これが後々副作用でひどい目に遭う原因のひとつになった。
 入院の最初から血圧が低いということ、やたらと眩暈と失神寸前が多いことを、この段階で心配され始め、担当のお医者さんには一度も会わなかったけど、内科のお医者さんが毎日顔を出してくれるようになった。
 血圧が低いのは昔から、ストレスのせいの自律神経失調症で、子どもの頃から思春期辺りにいろいろ症状が出たけど、今は基本的には健康と言うんだけど、かかりつけのお医者さんがいないので、こいつの言うことは基本的にあまり信用されず、何だかえらい大事(おおごと)な検査をいろいろされた。心臓の病気まで疑われたよ!ストレスで熱なんか出ないとか、断言されたしな! さすが37度が平熱の国だ!
 ここで過ごすことになった入院2週目は、それでもきちんと回復してるのがわかったし、本格的に歩行器で歩くリハビリも始まって、眩暈さえなければ順調な感じだった。
 3週目、やっと再びシャワーを浴びる話になったけれど、問題はこの階ではシャワーが浴びられないこと、この階には隔離病棟があるので、他の階に行くのは少々問題があること、というわけで、看護婦さんに話をしたら、6階に交渉してみてもいいと言われた。6階に交渉しに行ったら、たまたま最初の1週間、ずっとこいつの面倒を見てくれてた看護士の人がいて、婦長に当たる人に話を通してくれ、すんなり許可が下りた。ハレルヤ!
 でもこのシャワーがまずかった。このシャワーの前週から、排便がまだきちんとないということで下剤を飲まされ始めてて、それでも効果がなくて、下剤を数種いっぺんにということになって、それでやっと事故後初めての排便があって、同じ日にまたさらに下剤を飲まされて下痢を起こして、脱水症状を起こしてたことに気づかなかった。
 38度越えの熱が、シャワーの直後から約1週間続いた。また点滴と導尿に逆戻り。胃が痛くて、水すら飲めなかった日が4日。やっと何か食べても全部吐く、食べなくても胃液を吐く、痛み止めのせいだと思うと言ったら、前述の内科の先生が、膀胱炎の抗生物質も痛み止めもやめなさいと言ってくれた。そしたら途端に、眩暈がなくなった。
 この辺りから、骨折の痛みが突然消えて、4階の廊下を、ぐるっと一回りできるようになった。足を動かすのも、ずいぶんと楽になった。
 4週目は、熱も下がって楽になって、何より食欲が戻って、1週目の終わりにはすでに転院を打診してたリハビリ施設に、一体いつ移れるのか、そればかりを気にしてた。

 4週目の木曜日、やっとリハビリの施設に転院。通ってた大学のすぐ隣りにある病院。細身のストレッチャーに移され、シーツでミイラみたいにくるまれた上から、しっかりストラップで固定されて、まるで羊たちの沈黙のあの殺人鬼みたいだと思いながら、緊急ではない救急車(?)で運ばれた。
 リハビリの病院は、明るくてきれいで、今度はふたり部屋。電話はそれぞれにある。部屋にあるトイレも広い。でも隔離病棟のある階から来たということで、検査を2種類パスするまでは部屋から出れない。部屋に出入りする人たちは、みんなマスクを着けて、手袋をして、体を覆う長袖の手術着みたいなのを着る。ああめんどくさい。
 5週目が終わる今現在、Braceはひとりで着脱できるし、自力で歩こうと思えば歩けるし、歩行器つきならかなりの距離行けるし、トイレもシャワーもひとりで大丈夫、服の脱ぎ着(下着とか靴下も含)も助けはいらない、床のものも自分で拾える、階段も監視つきなら心配なく上り下りできる、少なくとも病院と言う環境でなら、基本的にすべてのことはひとりでやれる。
 と言うわけで、週末の帰宅が許された。外ではまたいろいろと大変で、その大変なことを今から学んで、退院した時にはすでに対応できる状態になっているために、いろいろやっている最中。
 外出は2時間が限度。まめに横になって、背中の痛みをあんまり我慢しないように。ソファは案外と、坐ってるのも立ち上がるのも大変。横歩きは右足の痛みがひどい。車の乗り降りは、4回目くらいから右足の痛みが増す。寝る時は、右膝の下にクッションを入れると楽。右足が滑ってベッドから落ちると、自力で元に戻せないので、あまりそちらの端には寝ないように。左腕を使う時は気をつけて。
 まだもう少し、退院には時間がかかりそう。

 加害者について。
 32歳で前科持ち、以前にも事故で前科があるそう。警察には、非常に悪い意味で有名な家族のひとりだそうで。
 今回の轢き逃げでは、それぞれ10年求刑されるだろう罪状がふたつ、事故の時には別件で保釈中で免停中で保険もなくて、さらに友人に偽のアリバイを頼んだというおまけつき、現在刑務所で裁判待ちという状態。こいつが証人として呼ばれるかどうか知らないけれど、とりあえず裁判が始まったら、あちらの弁護士が何を言うのか、ぜひ聞きたい。
 こいつの自転車もすごい有様だったけど、彼の車も相当なダメージだったらしい。よくやった自転車。105kmの勢いをほとんど引き受けた形になって、こいつを救ってくれた自転車、どうもありがとう。警察から万が一面会を許してもらえたら、ぜひ直接お礼を言いたい。
 彼の家族の悪名のせいか、こいつの個人名はきっちり伏せられて、新聞で一面を飾る、ローカル外でもニュースになるという不名誉にも関わらず、年齢と自転車だったという情報以外は一切流れなかった。もちろん、彼の家族だとか知人だとかいう人たちが、こいつと連絡を取ろうとした形跡は、一切ない。逆恨みがないようでありがたいと思うか、謝罪もなしかと憤慨すべきか。
 こいつが死ななかったということで、過失致死にはならない彼は、とても幸運だと思う。彼が轢いたのが、お年寄りとか妊婦さんとか子どもとかでなくて、彼は幸運だったと思う。彼はそうは思ってないだろうけれど、こいつと同じくらいに、彼も運が良かったことは間違いない。

 事故の記憶がないせいで、死んでも気づかなかったなあと、何だかしみじみと思った。最初に心配したのが、まあ日本への連絡とサイトのことだったっていうのは半分笑い話で。
 死ぬというのは、わりと簡単にあっさりと起り得る、痛みの心配すら必要ないかもしれないのだと、身を持って知った。苦痛のない死というのを、ある意味常に夢見てるこいつには、ひどく驚いた発見だった。だから今日をきちんと生きようってのは、まあ今さらわざわざ思うことでもないけれど。
 事故前と事故後の自分が、もう同じ人間でないのだという自覚(思い込み?)はあるらしくて、病院で見る夢では、いつも事故後の自分だった。
 背骨の組織が5割減というのは、もう一生このままだし、足も顔も、ひどくはないけれど傷跡だらけだし、打撲は今もアザのまま、脚の筋肉がずいぶんと落ちた。個人ではなくて、入院患者という個性のない存在として扱われるということで、少々削げてしまった尊厳というものもある。一時的とは言え、いわゆる健常者ではないという状態になって、それがどれほど不便で大変なことか、そういう状態で普通に生きている人たちのバイタリティの凄さとか、そういうことは身に染みた。事故は一応トラウマになってるらしくて、車に乗って外に出るのは少々怖い。まだ事故現場には行ってない。自転車に乗れるようになるには、まだまだ時間がかかる。入院中に、何度か悪夢も見た。これから忙しくなるクリスマス前に、仕事はもちろん休職。ほとんど寝たきりで過ごしたひと月だった。
 事故後の自分という、傷跡だらけの自分に、慣れるだけという問題だとは思う。それには、思ったよりも時間が掛かりそうだと、今は思う。

 多分11月中には、リハビリも一段落して、完全に退院できると思う。完治はまだまだ先だろうけれど、ひとまず普通の生活には、近い内に戻れると思う。
 仕事に戻れるのは春先か。1月には両親がこっちに会いに来てくれる予定。その頃には、歩行器なしで普通に歩けるようになってたい。
 退院直後は、同居人のお母さんのところへしばらくいる予定。自宅の階段が不安なので。猫たちとの生活は、もう少しお預け。今のところ、そんな日々。


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