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追悼その3
2002/06/01(Sat)
 まだ、聴けない。自分から進んで、彼らに触れようと、まだ思えない。
 たかが一月で素面になれるほど、彼らの対する想いは浅くはないらしい。もちろん、深いのは自覚してたけど。
 昨日の新聞で、いつものようにコミックのページに辿り着いたら、上から3番目くらいの、作者がバンドを演ってる4コマが、Layneだった。彼に対する追悼。
 まさか彼が、AちゃんSのファンだとは思ってもみなかった。
 要するに、偉大なミュージシャンであると同時に、あがき続ける苦痛の人だった、Layne Staley、安らかに、そんな感じの代物で、こいつは、この不意の遭遇に、あやうくまた泣きそうになった。
 泣かなかったのは、自分で、それなりに大丈夫になりつつあるって、信じたかったからだと思う。
 もちろん、大丈夫なんかじゃないんだけどさ、全然。

 レインって、言葉の入った歌はけっこうあって(日本語ね)、雨って意味なんだけど、もちろん、それは。でも、我々には、音的には両方同じだし、そういうとこでも、こいつはなんだかこう、背骨の辺りが痛くなる。
 雨の歌って、悲しいのが多いし、涙に通じるとこでも、こいつには全部Layneに繋がる。
 彼がこの世にいないってのが、ひどく痛い。痛くて、その痛みを忘れるために、現実逃避ばっかりしてる気がする。
 VowWowも聴けない、Doomも聴けない、Panteraも、Gluelegも、Mad Seasonも、何にも聴けない。あれからずっと、ほんとうにLinkin Parkしか聴いてない。
 NirvanaのKurtが死んだ時、Jar of Fliesばっかり聴いてた。あれが、Kurtへの、追悼アルバムだった。今回は、何故だかLinkin Park。詞の内容も、ヴォーカルのタイプも、AちゃんSに似てるようで、あんまり似てないのがいいのかもしれない。後ろにモタるDrは似てるかもしれないけど。でも、Gソロは全然ない。ありがたい。今、とてもJerryを思わせるようなGソロなんて、聴く気になれない。
 愛しいから、痛い。

 自殺だろうと何だろうと、人間、死んだ時が寿命なんだと思う。自殺だってさ、成功しなきゃ死ねないでしょ。まあ、好きで死ぬ人は、そうそういないとしても。
 不思議だね、死にたくなくて、あがいてる人もいっぱいいるのに、死にたくてあがいてる人もいっぱいいる。どっちがどうなんて、わからない。こいつはいつも、死にたくてあがいてる方だから。
 死にたいってのは、そんなに、忌むべき感情なんだろうか。もちろんこいつだって、友達が死ぬだなんて言えば、慌てふためくんだろうけどさ。矛盾してるけど、でも、そう思うにはそう思うだけの理由があるんだろうし、それを下らないこと言ってんじゃねえよ、なんて、言えない。
 まあ、自殺の仕方を一緒に考えるほど親切でもないけどさ。心中くらいは、ふと考えるかもしれないけど。
 死にたい気持ちを否定するのも、死にたがるのを止めようとするのも、どちらもそう親切だとは思わない。放っとけば、とももちろん言わないけど。まあ、もっとも、ホントに死ぬ気でいる人間は、その前に誰かにその決意を打ち明ける、なんてことは、実際しないと思うから、死にたいっていう台詞が出るのは、そのくらい苦しいから、助けてくれって、要するに言ってるってことだろうから、まあ、普通の神経なら、まず、死にたいなんてダメだよ、って言うべきなんだろうな。聞いてる方には、どんなに虚しく響く台詞だろうと。
こいつはそうだな、死ぬなって言われるより、そっか、じゃあ、まあ決行する時は一言電話くらいちょうだいね、なんて言われると、嬉しくなって死ぬ気が失せるような気がする(笑)。
 こいつ、神経切れてるのかもしれないけど、誰かが死にたいって言って来たら、そっか、試して失敗すると、やる気が失せるだろうから、試してみたら、とかって言っちゃいそう。極悪かも。
 自殺の何がいやって、死体の始末のことを考えるのと、失敗した時の後味の悪さ。まあ、傷も痛いしね。この程度で自殺に歯止めがかかってるんだから、こいつの死にたがりも、年季は入ってても、根性も入ってなければ、性根も全然座ってない。だからこいつは、まだ生きて、あがいてる。
 生きてて良かったと思うことは、まれにある。AちゃんSに出会った時が、そうだった。下らないのかもしれないけど、こいつにとっては、ああいうハイが、幸せに欠かせない。彼らに出会うために生きて来たんだって、本気で思った。そして今も、心からそう思う。
 Layneに出逢って、彼の声に惚れ込んで、彼の苦しみを見て、彼の死に遭遇した。それがこいつの人生の目的だったんなら、それはそれでいい。納得する。Layneは、こいつに出来ないことを、いっぱいした人だから。Layneを通して、こいつは、色んなことを見たから、感じたから。そしてこれからも、こ いつはLayneを通して世の中を見てゆくんだろうと思う。
 Layneはもう、こいつの自我の中に組み込まれてしまっていて、彼のものではない感覚で世の中を見ることは、出来ないような気すらする。

 色んな人が、色んな形でLayneの死を悼んでるのが、単純にうれしい。少なくとも、それだけLayneは愛されてたってことだから。もっとも、それはLayneが欲しがった愛の形では、なかったのだろうけど。
 ただのLayneとして愛されるには、彼の音楽は巨大過ぎたし、彼自身が、ひどく難しい存在だったんだろうと思う。愛って何?って、そう彼は問い続けて、結局、答えを見つけられなかった。
 愛されることがすべてではないけれど、それを求めている時に、見つからないのは、ひどく虚しい。
 愛の代わりが、薬だったってのは、あまりに陳腐過ぎるけどさ。
 愛って何だろうって、こいつは自分自身に問い続けてる。薬に手を出す勇気も機会もなければ、自分を消せる度胸もないこいつは、それでも死にたがりながら、愛って何?って、考え続けてる。自分のためと、そして先に逝ってしまった、Layneのために。



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