鬱と恋と死体
2005/02/16(Wed)
淋しかったり切なかったり人恋しかったり、2月の半ばは冬の真ん中で、軽く鬱を挑発する。
あとひと月もすれば、こんな気分はすっかり忘れて、またへらへらしているのだろうなと思う今日この頃。
死にたがり病が少し顔を覗かせていて、アメリカの暴力映画(苦笑)を見ながら、柘榴みたいにはじけた、自分の頭を想像する。死体の後始末が大変だよなあと冷静に考えて、そんな死体を、身元確認させられる人たちにも激しく迷惑だなあと、へらへら笑いながら思う。
信頼なく、過保護に育てられてしまった人間と、信頼があるからこそ放置され、けれどきっちりと庇護されていた人間と、結局人生が噛み合うわけもなく、それでも何とかほころびを繋ぎ合わせて、けれど終わりなく続くそんな作業に、近頃疲れ果ててもいる。
猫の方が、よほど人を見る目は確かだ。先に逝ったCoalに、しょーもねーヤツと、嘲笑われているような気がする。
Whitesnakeの、「Is This Love?」をリピートで。
アルバムとはまったく違う当時のメンバー、Adrian VandenbergとVivian Campbellに夢中で、東京と横浜で6回くらい見たのか。よくわからない英語の歌詞を、必死に覚えて一緒に歌った。
David Coverdaleに、3日間だけ恋をして、Neil Murrayはその後Vow Wowで再会して、至上のベーシストになった。
John Sykesは、今も大好きなギタリストのひとり。Blue Murderも大好きだったんだけどな。今どうしてるんだろう。
この曲は、歌詞も声もメロディーラインも、ギターのリフもベースラインも、ドラムの音もギターソロも、何もかもが切ない。
あの頃、この曲だけを60分テープに入れて、そのテープを、ウォークマンに入れっ放しにして、何万回聞いたのか、自分でもよくわからない。好きで好きで、聴くたびに切なくて、あの頃、一体どんな恋をしていたのか、相手の顔も状況もきっちり思い浮かぶけれど、自分のこととして、この悲しいラブソングを聴いていたわけではなかったりもする。
誰と誰が、どんな恋をしていると思って、ひとりで切ながっていたのか、それはともかく(苦笑)。
今聴いても、同じ切なさが甦る。
今は、誰と誰の恋を思い浮かべているのかは、内緒で(笑)。
少なくとも、自分のことではない。恋に縁のない今は、こんな切ない曲を聴いても、自分の胸は痛まない。むしろ、恋をしていないからこそ、いっそうこの曲が、切ないのかもしれない。
泣くほど、生身の誰かを好きだとか、その人と一緒にいたいとか、離れていると死にそうにつらいとか、思い出せる感覚はあるけれど、今その状況には、自分はいない。
恋の機会もなければ、あったところでそれは一応ご法度なわけで、人を恋うることが、今とても懐かしい。欲しいとは思わないけれど、あってもいいとも思っているわけではないけれど、人を恋うることのできるだけの心の余裕というのか、瑞々しさというのか、そういうのが、とても懐かしい。
最後に生身の恋をしたのは、いつだったろうかと、ある人の顔を思い浮かべる。
今、どこにいるのかは知らない。何をしているのかも定かではないけれど、ここにこうしている限り、いつかまたここに戻ってくるのかもしれないと、ぼんやりと思う。
指先が触れることだけに、24時間を費やせる、そんな想いだった。
恋をすることが許されないというのは、恋することを忘れてしまっている自分への、ただの言い訳なのだろうか。
恋するというのは、自分の幸福を夢見ること。
愛するということは、相手の幸せを願うこと。
夢を見るには少しばかりすれすぎてて、愛というものは、もう信じられなくなっている。
生身の恋は、もうないかもしれない。生身の人間は、自分の思い通りにはならないから、時々、とてもめんどくさくて、怖い。
恋するよりも、恋というものを、掌に乗せて眺めている方が楽しそうな気がする。別々の存在が、魅かれ合って、関わり合おうとするそれを、ただ眺めていたい。そこから生まれる、悲しみや切なさや暖かさを、外側の視線で、眺めていたい。
恋をするにも、それなりの資格はいるわけで。それなりに可愛いとか、それなりに気に入られようと努力できるとか、それなりにそれなりであるとか。それなりにさえ疲れてしまっているから、それなりになる努力さえ、今は鬱陶しい。
生身の恋をする資格は、だからない。
Jerryに恋をしている。もうずっと、長い間。間に、Layneを置いて。
Layneがいなければ、多分ずっと前に風化してしまっているに違いない想いだけれど。
誰かを愛することが、いつかできるんだろうか。恋らしきものは、昔いくつもしたけれど、生身の誰かを愛したことが、あったのだろうか。
恋愛が、対人でしか語れないのなら、誰かを愛したことはないと、言ってしまうしかないんだろうな。
愛って何だろう。求めても求めても、どこにもないような気がする。
すべての人に手に入れるチャンスはあるにせよ、そのチャンスが見つかるかどうかすら怪しい。必要ない気もするし、けれど、せめて知ってはみたいとも思う。
愛って何だろう。愛って、一体、何なんだろう。
恋愛は、するものではなくて、眺めているもの。そんな気がする。自分でするには、資格が足りない。
恋する気分を、再生する。「Is This Love?」をリピートするように。
会いたい誰かがいるのは、きっと幸せなことだ。
一緒にいたい誰かがいるのは、とても幸せなことだ。
そんな幸せを、生身で味わいたいと思いつつ、でもちょっと資格が足りない(笑)。
誰かのする恋を、眺めていたい。その人の感じる、ぬくもりや淋しさや切なさを、想像して、自分も恋をしているのだと、わざと勘違いするのが、今はいちばん平和かもしれない。
恋をしたいわけではなくて、ただ、恋という存在が、恋しい。
人を恋うることができるのは、きっと、人が人らしいという、あかしでもあると思うので。
恋をする資格がないなら、いっそ、人をやめて猫になって、優しい誰かに飼われたいと思うのは、恋の変形なのだろうか。
「Is This Love?」のギターソロを、自分で弾いてみたいと、何となく思った。弾けないけどさ。
2月の鬱は、3月には終わるだろう。きっと。自分の死体を想像して、世間への迷惑を思い知ろう。死体は恋をしないし。多分。