らんまるという猫がいた
2007/08/02(Thu)
太陽を浴びない時間が長くなったせいか、鬱が悪化して、シャレにならない状態に陥ってた95年の終わりから96年の初め、少しでもマシな状態になるために、猫の世話でもするしかないかなーなんて、そんな軽口を叩いてた、96年の春先だった。
我ながらひどい状態にうんざりして、現実逃避のために、久しぶりに長期の日本滞在をお袋に打診したら、あっさりいいわよと言われて、喜び勇んで飛行機に乗ったのが4月の終わり。9月の新学期まで戻らない、久しぶりの長期休暇としゃれ込んだ、そんな状況だった。
日本ではGWの始まり、そろそろ暑くなり始めの頃、バイト先へ自転車で走る路上に、大きなゴミを見つけたのは、確か散髪屋さんと喫茶店の前。
誰だよこんなデカいゴミ放置したのはーと、ペダルを止めて顔をしかめたのを覚えてる。近づいて、それがゴミではなくて、汚れた子猫だとわかった背後で、中学生だか小学生だか、数人がちゃがちゃ近づいてくるのが聞こえた。
近づいても、逃げる様子もない。このまま放っておいたら、目の前の道路に出て行くか、お店の人に見つかって保健所送りになるか、今近づいてくる子どもたちに何かされるかも、あれこれ一瞬のうちに考えて、結局、自転車のカゴの中に、その猫を取り上げて入れた。そのままバイト先へ走った。
前の年に、バイトの上司が猫を拾って飼い始めたというのを知っていたので、あわよくば彼女に押し付けようという算段だった。
片手に乗る大きさしかない子猫は、鳴いても声も出なくて、目は汚れてぐちゃぐちゃにつぶれたままで、ほんとうに憐れな姿だった。
上司は、薄汚れた子猫を抱いて現れたこいつの思惑を先読みしたのか、
「獣医さんに連れて行かないと。連れて帰るのに箱がいるわね。」
と、さっさと押し付けられないように、あれこれとこいつのために世話を焼いてくれた。この段階で、うわーどーしよーと、後に引けずにちょっと青くなるこいつ。
財布には、お袋からもらった4千円。野良子猫だし、もしかしたら請求に手心を加えてもらえるかもと、拾ったものをまた捨てるわけにも行かず、上司が教えてくれた獣医さんに、すぐ電話を入れた。
「野良猫拾っちゃったんです。見てもらえますか。」
「じゃあ、すぐ連れて来て下さい。」
面倒見の良い先生だと聞いたのは、後で猫絡みで親しくなった、バイト先関係の別の知人からだった。
色黒の、丸四角い顔をした男の先生。獣医は生まれて初めてのこいつ。銀色の診察台の上で、何だかおとなしい子猫。
「目、大丈夫ですか。」
「治ればね、ちゃんと開くから。ひどい風邪だね、これは。」
「母親に捨てられたんでしょうか。」
こんな子猫を、誰かが捨てるとは思えなくてそう言ったら、先生は言下に否定した。
「母猫は子ども捨てたりしないよ。」
優しそうな先生が、その時だけ、厳しい顔になった。
衰弱が心配だから、ブドウ糖を打っておこうと言って、小さな注射が出て来る。かわいそうな子猫を押さえて、ちょっと怯えてるのに声を掛けながら、大丈夫だから大丈夫だからと、主に自分に言い聞かせてた。
「ちょっと元気になったみたいに見えるかもしれないけど、それはブドウ糖のせいだから。」
先生が笑いながら言った。
受付で、子猫の名前を聞かれて、いや捨猫拾っただけなんでと言ったら、看護婦さん(?)に笑われた。
「・・・すいません、今手持ちが4千円しかなくて・・・残りは後でもいいですか。」
よくあることなのか、特に困惑と言う反応もなく、いいですよーとあっさり言われ、3千円だけ払った後で見たら、請求書の初診料のところが2重線で消されて、合計が安くなってた。ありがたやありがたや。
先生がそう言った通り、診察が終わってバイト先に戻ってみたら、まあ動く動く。路上でさっきまで死に掛けてたのは演技だったのかよ!と言うくらい、何だこの元気なの。
でも目がつぶれてるせいで、無残な見かけは相変わらず。もらった目に塗る薬を、嫌がられながらさっそくぬりぬり。元気になれよ。
夕方遅く、家に帰る。
こいつが抱えた箱を見て、お袋が怖い顔で、玄関で、
「何それ。」
「・・・猫。」
親父が2階から降りてくる。
「そんなものどうする気だ。」
でもなぜか、そのまま捨てて来いとは言わず、2階に戻ってしまう親父。母親も、勝手にしなさいと言っただけで、奥に引っ込んでしまった。
とりあえず、仮の宿の了解は得たということかと、ちょっと安心して、自分の部屋もすでにないこいつは、本棚ばかりの部屋へ、猫と一緒に閉じこもる。
小さな箱を持ってきて、いらないタオルを敷いて、牛乳パックの下の部分を切り取って、即席の皿を作る。猫に食べさせられるものはないし、財布の残高は0に等しいので、今夜はミルクだけで我慢してもらう。ごめんよ甲斐性のない拾い主で。
とりあえずミルクは飲んだ。粗相をされると困るので、一晩つききりのつもりになる。抱えて帰った箱には、汚されても心の痛まないこいつのシャツを入れて、匂いがあれば安心してくれるかと、そんなことを思う。
数年前に、初めての同居猫(ホームステイ先の)を撮るために買ったカメラで、写真を撮りまくる。何しろこんな子猫が手元にいるなんて、そんな機会は滅多とない。
元気になれよと思いながら、あれこれ里親探しのことを考える。まあ何とかなるさと、案外元気そうな子猫を見て、ちょっと安心した。
一晩過ぎれば、目も少し開いて、ずいぶん元気になって、部屋から出てちょこちょこうろつくようになる。
「飼い主見つかるまでだから。」
と本気で言って、ついでに、獣医さんの支払いがまだ残ってることと、猫のゴハンを買いたいことを伝えて、お袋のちょっと厳しい顔にひたすら頭を下げて、何だか鬱のことなんか、すっかり忘れてた。
そのまま3日、目は汚れてはいるけれどすっかり開いて、毛並みもまあまあそれなりになって、薄汚れた感じはずいぶんなくなった頃、でもまだウンチもオシッコも出ない。ゴハンちゃんと食べてるのに、全然そんな様子がない。
さすがに心配になって、獣医さんに電話をした。
「すいません、この間の捨て猫、全然ウンチとかオシッコとかないんですけど。」
「ああそう、えーとね・・・」
猫の様子だのを詳しく聞こうとしてくれる獣医さんに、こいつは半分涙目であれこれ説明してて、その前を、肝心の本人はうろちょろ元気にうろついて、ふっと目の前の床をふんふん嗅いで、ちょこんとおしりを落としたと思ったら、ちーっとやらかしてくれた。
でっかい水たまり。さすが数日分だ。
「・・・すいません、たった今オシッコしてくれました。」
向こうで大笑いする獣医さん。あーもー恥ずかしいー!とか言いながら、どこ吹く風の子猫を避けて、オシッコの水たまりをきれいにするこいつ。でもうれしかったなあ。
ところで子猫は、拾われた翌日には、理由も何もなく、単なるこいつの直感で、"らんまる"という仮名を与えられてて、お袋も特にそれに異議を申し立てるわけではなく、足元をうろちょろする小さな毛玉を、すでに愛しげに眺め始めていた。
親父の方は、早くどうにかしろということも言わず、とりあえずらんまるを邪魔扱いしつつも、追い出そうとはまったくしなかった。
お袋が後で言ったところによると、最初の夜に追い出せと言わなかった段階で、すでに飼うということには同意したに等しかったということらしい。
結局、憐れな薄汚れた子猫の、あまりの可愛さに、うちの親たちは最初からメロメロだったってことか。
それでもしばらくは、飼い主を探すと言う話は、きちんとこいつの中では本気だった。
運悪くGW中、まだ仮宿という状態にも関わらず、こいつは泊まりの出張が入って、らんまるを置いて出掛けることになり、不本意ながらお袋に世話を頼むことになり、お袋はこいつに怒りつつ、ちゃんと面倒を見てくれると言った。
驚いたことに、こいつが出張から戻って来た時には、お袋の手でトイレの躾もできてしまっていて、1度、親たちが昼間出掛けた間に粗相はあったものの、それを笑い話として語るお袋の顔は、間違いなく母親の顔だった。
厳しく優しく、らんまるはお袋に躾けられ、それを見ながらこいつは、自分もこうやって育てられたんだなあと、言葉には出さずに、お袋(と親父)に、深く深く感謝してた。
らんまるはお袋が大好きで、そして親父のことも大好きだった。
わかりやすく愛情を表すと言うことを、基本的には一切しない親父が、らんまるを邪険に扱いながらも、膝に乗られてもそのまま、傍に寄り添われてもそのまま、おもちゃを投げて遊んでやったり、何気ない仕草を笑ったり、親父も丸くなったなあと、こいつはただただ驚くばかり。
結局、夏の終わりに、こいつは本気でらんまるをこっちに連れて戻るつもりでいたのに、
「いや、置いて行っていいから。うちにいるから。」
というお袋の一言で終了。らんまるは、めでたく親たちの飼い猫となった。
こいつは、思い出深い夏が終わり、らんまるに後ろ髪引かれながら、ひとり大学に戻った。
らんまるは元気?というのが、しばらくは電話での会話の大半で、拾った時には体重450g、推定2ヶ月(でも後で考えたら、まだ1ヶ月くらいだったのかも)だったらんまるが、すっかりふわふわの成猫になり、躾の行き届いた、ご近所に恥ずかしくないりっぱな飼い猫になっているというのを、お袋が送ってくれた写真を眺めながら、ひとりにまにまするこいつ。
らんまるに救われたなあと、ほんとうに、心の底から思った。
軟禁生活の約8年間、らんまるに会いたくて会いたくて、こいつのこと覚えてるかなと、そればかり訊いてたような気がする。
病気らしい病気もなく、海苔に目がなく、お袋が飲み終わった後に丸めた薬包紙に目がなく、親父が朝食に用意したメザシを、テーブルから盗んで行って叱られたとか、友達がくれたキーホルダーのマスコットを気に入って、あちこちに連れ回してるとか、相変わらず親父と仲良くしてるとか、そうして、いつの間にか拾ってから10年が過ぎ、このまま順調に行ったら、親たちとの同居生活は、らんまるの方が長くなるなあと、高校で家を出されたこいつが、思い始めたこの頃だった。
ほんとうに、賢い猫だった。少々利かん気なところもあったし、やんちゃで手を焼いた時期もあったけど、子猫の頃から聞き分けのいい、ほんとに手の掛からない猫だった。
季節のいい頃には、夜のパトロールの後に、ベランダにぽつんといて、それを親父が寝る前に迎えにゆく。親父に抱かれて、たまには冗談で、頭を下に逆さに抱かれて、家の中に連れ戻される。冗談は好きでも、それをわざわざ態度に表すということはしない親父の、珍しい仕草だった。らんまるも、それをわかっていて、おとなしく親父に抱かれてた。
親が、こいつが高校の頃から住んでた家を出て、老後の住処にとマンションを飼い、一応ペット禁という建前のために、外歩きは禁止され、人の出入りがある時はケージに入れられた。それでも、それなりに、居心地良く暮らしてたように見えてた、らしい。
でもやっぱり、ストレスだったんだろうな。
しばらく前に肺炎をやらかして、危ない状態だったけど、獣医さんのおかげできちんと完治し、やれやれと思ってたところに、急性糖尿病の発作。
エサを食べなくなって、お風呂場に横たわって、動かずにぜえぜえ息をしてたのを、お袋は一晩ずっと傍にいたらしい。
入院して、大丈夫でしょうとは、今回は言ってもらえず、その夜そのまま息を引き取った。6月27日のことだった。
11年とちょっと。今時の猫の寿命として、決して長い方ではなかったにせよ、外猫として気ままに暮らし、それなりに緑の多い環境(すでに過去形になるけど)で、賢く他の猫とは争わず、適当に親たちに甘やかされ、けれどきちんと躾けられて、不満がなかったわけではないだろうけど、らんまるは幸せだったと思う。
あの時、あのまま路上に放置してたら、その日中に死んでたかもしれない。どうしてあの時、らんまるを拾う気になったのか。鬱でなかったら、財布に4千円なかったら、上司がすでに猫を拾ってなかったら、あの時ほんの少し違う時間に家を出てたら、らんまるとは縁がなかったかもしれない。
らんまるは、確かにあの時のこいつを救ってくれた。らんまるのおかげで、ほんとうに楽しく過ごせた4ヶ月だった。
拾った時には死に掛けてたように見えたくせに、ほとんど世話に手間も掛からない猫だった。死んだ時だって、思わず、「ほんとうに手の掛からない猫だった」と、お袋と思わずつぶやき合った。
放浪中のひどい風邪でやられた目は、結局涙腺が一部壊れた状態のまま、特にこれと言って不都合はないけど、いつも目を潤ませて、くるんとした大きな目で人を見上げる猫だった。
らんまるは、こいつに拾われるためではなくて、こいつを救うために、あの日あの時、あの場所にいたんだろう。そして、きっと、こいつよりも親と長く過ごせば、こいつがやきもち焼くと見通して、逝ってしまったんだろう。らんまるは、そういう猫だった。そんな気遣いをするだろうと、思わせてくれる猫だった。
出会ってくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。愛させてくれてありがとう。ほんとうにほんとうに、ありがとう。
わざわざ口にするような親父じゃないけど、きっと多分、らんまるがいなくなったことを、誰よりも淋しく思ってると思う。
親たちが、どんなふうにこいつに対して愛情を表現してくれてるのか、わかりやすく見せてくれたのがらんまるだった。一緒には暮らさない親子同士、ある種の照れと距離のせいで、なかなか素直になれないこいつらのために、間に立って、いろんなものを見せてくれた。らんまる、どうもありがとう。
生まれて来てくれて、ありがとう。あの時まで、生き延びてくれてて、ありがとう。あの場所にいてくれて、ありがとう。こいつと一緒に来てくれて、ありがとう。我が家に、耐えない笑い声を運んで来てくれて、ありがとう。親に感謝するチャンスを与えてくれて、ありがとう。あの人たちが、どれほどの愛情をこいつに注いでくれてたか、間接的に見せてくれて、ありがとう。あの人たちが、生来持ってる、でもなかなか素直には表現できない優しさを注げる対象になってくれて、ありがとう。人という生きものとの同居は、いろいろ息苦しいこともあったと思うけど、家出もなく、不満を表すような素振りもなく、ありがとう。親父がたまに短気を起こしてたらしいけど、それでも親父を好きでいてくれて、ありがとう。あの人が、ほんとうはとても優しい人なんだということを、自覚させてくれて、ありがとう。
一緒に生きてくれて、ありがとう。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。100万回言っても足らないけど、ほんとうにどうもありがとう、らんまる。
もし毛皮を替えて生まれ変わってくるなら、できたらこいつのところにして欲しいな。先客が6人いるけど、きっと大丈夫。一応一軒家で、一応裏庭もあるから。猫じゃないなら、何でもいいから、こいつのところに現れて欲しいな。ありがとうって、できたら直接言いたいから。
もう一度、会いたかった。こいつを救ってくれて、ありがとう。今もきっと、こいつのことを心配そうに見てるんだろうな。妹分のくせに、年上みたいなところのあるらんまるだったから。
こいつが逝ったら、その時覚えててくれるかな。先に逝ったCoalとは、もう出会ったかな。Layneには声掛けてくれたかな。
また出会いたい。今度は、数ヶ月だけじゃなくて、もっとずっと一緒にいたいな。
らんまる、ほんとにほんとに、どうもありがとう。ゆっくり休んで下さい。おやすみ。