シェーンコップ×ヤン、そしてリンツ。

美しいもの

 執務室に入ってすぐ目に入って来たのが、上官の膝枕で昼寝をする自分の上官、と言うのはいかがなものかと、リンツは、どんな表情を作ろうかと迷いながら考えていた。
 黒髪の司令官は驚いた顔もできずに、ただおろおろと自分の膝に乗った灰褐色の頭とリンツを交互に見て、頭を振りながら唇へ立てた人差し指を添える。
 別に何も思いません、慣れてますから、と目顔に言わせて、表情を全部消し、次はこのまま即退室するべきかどうか迷う。
 ゆったりと3人坐れるソファに、司令官は端へ坐り、彼の部下でリンツの上官であるシェーンコップは長々と体を伸ばし、一応は両腕は胸の前で組んでいる。
 休息のために、どこででも眠れるようにあるべきと言うのが、歩兵隊に属する者たちへよく言われることだけれど、将官になってもこの人のそういうところは変わらないのだなと、唇の端へごくかすかに微笑みを浮かべて、リンツは思った。
 携えて来た書類は、机の上に置いて行くかと、リンツが特に、この光景に対する感想を述べも浮かべもしないのに安堵したのか、暗色の瞳の司令官はリンツを見たままやっと表情をやわらげて、その視線をシェーンコップへ移す。
 空気が落ち着くと、それなりに珍しい光景──逆には以前遭遇したことがあったから──に好奇心をそそられ、リンツは足音を忍ばせて自分の上官の傍へそっと寄った。
 よく見れば、かすかに開いた唇の間から歯列の白さが覗き、閉じたままの眼球の丸さとしっかりと引かれた眉のバランスの完璧さが目について、鼻筋の通り方と頬の線の流れに視線を奪われ、リンツは束の間、端正とよく言われ、実際にその通りの上官の美しい造作に見入った。
 ヤンは不思議そうにリンツを見て、けれどシェーンコップのうたた寝を邪魔したくなくて何も言わない。
 「ちょっと、失礼します。」
 小声で言って、リンツは突然その場に坐り込む。床にあぐらをかき、シェーンコップの顔が真正面に見える位置になると、手にしていた書類の1枚を裏返し、ポケットから取り出したペンで、厳しい目つきで白紙に線を描き出す。
 ただ膝に置いた紙は、それなりの束とは言え安定はせず、紙がねじれて線がうねうねと勝手な方へ行くのに、リンツが色の薄い眉をしかめたところに、右手から差し出されたものがあった。
 ヤンが、自分が読んでいたらしい本を、リンツに手渡そうとして来る。え?とその方を見やると、台にするといいと、唇の形だけでヤンが告げた。
 すみませんありがとうございます、と頭を下げながら受け取り、リンツは素直にそれを紙の下に敷いた。
 表情豊かな瞳が描けないのは残念だけれど、上官の、こんな長閑な寝顔など二度と見ることはかなわないかもしれない。ヤンごと描けたらいちばん良いけれど、そんな時間はない。
 手早く、リンツはシェーンコップの寝顔の大体の線を、できるだけ描き取ろうとした。
 リンツの、出撃前と同じほど引き締まった真剣な横顔へ、邪魔をしないようにとヤンは息を詰めて、シェーンコップの顔の傍へあった自分の手を他へ避(よ)ける。
 リンツの手の動きが少しゆるやかになると、
 「絵が描けるってのは、すごいね。」
 わずかに体を前に乗り出し、紙の上に描き出されたシェーンコップを見ようとしながら、ヤンが小さな声で話し掛ける。
 「下手の横好きです。紙の上に出さないと落ち着かないだけです。」
 シェーンコップの、耳の下から伸びるあごと喉の繋がる線へ目を凝らして、リンツは答えた。
 「わたしは戦争以外、何の取り柄もないからなあ。」
 苦笑交じりにそう言うのに、そんなことはないと心にもないことを言うべきか、そうですねとあっさりうなずくべきか、リンツは心の中で迷いながら無表情を変えない。
 「──シェーンコップを描くのは楽しいかい。」
 シェーンコップが少々の音には目を覚ます様子のないのに安心したのか、ヤンが続けて掛けて来る言葉に、リンツは何か特別の響きを聞き取って、
 「整ったものを、整っているように描き取るのは難しいので、描き甲斐はあります。」
 素っ気ない風にも聞こえるリンツの抑揚のない言い方に、へえ、とヤンが相槌を打つ。
 あなたを描く方が難しいですよと、心の中でだけ言い返しておく。ごく微妙なバランスの造作、美醜のみ分けるならぎりぎり美しいと言えなくもない、と言う程度の顔立ちを、ありのまま描き写すのは骨が折れる。いくら描こうとしても、現れるのはただの平凡な顔だ。ヤンを非凡たらしめているのは、ヤンの発する空気なのだと、何度も何度も記憶に頼ってスケッチして、リンツは思い知っていた。
 今見るヤンは、顔全体の線をやわらげて、寝顔のシェーンコップとはまた違う意味で、どこか微笑ましく見える。これは、シェーンコップといる時にだけ見られる顔だと思って、ちらりと視線を流して、リンツはしっかりと記憶の隅にそれを描きとどめた。
 まったく似たところのないふたりの顔立ちの、線のなごやかさが今は同じに、誰かと一緒にいると言うのはこういうことなのかと、シェーンコップの唇の円みを何とか満足できる程度に写して、リンツはそこで手を止めた。
 ヤンが、年の離れた弟でも見るような目つきでリンツを眺めて、ほのぼのとした声を出す。
 「君みたいな、色々何でもできる部下がいて、彼は幸せだな。」
 描き終わったと思ったのか、ヤンの手はシェーンコップの髪の上へ移動しつつある。指先が、かすかに前髪に触れたのをリンツは見た。
 「それは、司令官閣下も同じではないですか。部下には十分恵まれていらっしゃるとお見受けしますが。」
 「その優秀な部下たちが、自分たちの上官に満足しててくれればいいんだがね。」
 リンツと幾つも変わらないのに、ヤンの口調はひどく老成したそれで、常に命令を出す立場にいる──それも、ひどく年若く──と言うのは、その声と口調だけで人を納得させるために、こんな風に落ち着いてしまうのかもしれないと思った。
 こんなことを言うヤンに、シェーンコップなら何か気の利いたことを言い返せるのだろうと、自分のそんな素養のなさを、見せずに恥じて、リンツはただ真っ直ぐな言葉を真っ直ぐに返す。
 「隊長は──少将は、自分は良い司令官に恵まれたと、そう思ってらっしゃると思います。小官も、少将と同意見です。」
 こんな時には色の濃くなるリンツの鮮やかな緑色の視線に、ヤンはたじろいだように右肩をかすかに引いて、驚いたことにぱっと頬を赤くした。
 ついさっき発した、リンツよりもひと回りも年上の男のような口調と、この恥じらいの表情がまったく一致せず、リンツは思わずシェーンコップの寝顔へ視線を移して、ああ、これなのかとふと思う。
 この、誰にもなびかない四つ足の獰猛な獣のような男が、初めて主と定めた人。人はたやすく見た目に騙される。平凡な見掛けに、覇気のない態度、誰がこの人を見て、狂犬集団と揶揄されたローゼンリッターが頭を垂れたその相手と思うだろう。
 自分の描く線には現れない、ヤン・ウェンリーと言う人物の、その内面。それを知るだろうごくわずかの人たちのひとりが、目の前で今昼寝の最中の、自分の上官なのだと、リンツは改めて思う。
 うろたえたせいかどうか、ヤンは無意識らしく、シェーンコップの髪を指先にいじっている。自分の上官と認めた男の、これが司令官と認めた男なのだと思って、その指先の動きへ目を当てながら、唐突に、つがいと言う言葉を思いついている。
 伴侶や連れ合いや、その類いの言葉ではなく、自分たち犬──ローゼンリッター──によりふさわしい語彙である、つがいと言う言い方で、目の前のふたりを一緒に眺めて、なぜか自分の非礼に驚く気持ちも湧かず、そう言ってもシェーンコップはきっと面白そうに笑うだけだろうとリンツは想像した。
 「失礼しました。」
 リンツは素早く立ち上がり、ペンや紙を元に戻しながら、本をヤンへ返した。
 本を受け取ったヤンは、退室しようと爪先を向こうへ向けたリンツへ、中佐、と呼び掛ける。
 「何か?」
 含羞の赤みの消え切っていない頬に、何か言い淀んだ風に、再び朱が上がる。リンツは、ヤンのこんな表情を目にしてしまったことは、シェーンコップには言わずにおこうと咄嗟に心に誓った。
 「・・・その・・・貴官は、要塞防御指揮官の絵を、描いたことはあるだろうか。」
 シェーンコップと、呼ぶのをためらってか、わざわざ役職の方を口にする。右手が、シェーンコップの髪に触れたままの自覚はないようだった。
 「あれば、その──いつか、見せてもらえないだろうか。貴官さえ、良ければ。」
 リンツを見ながら、うろうろと視線が迷っている。
 さっさと戻って、たった今台無しにしてしまった書類のやり直しをしなければならないリンツは、けれどこの場でヤンを適当にあしらう気にならず、描きためたスケッチの中から、どれなら見せることができるだろうかと、記憶を探っている。
 この寝顔のスケッチを、きちんと描き上げてヤンに渡そうかと思いついてから、
 「いつでも、お見せします。」
 きっぱりと言って、安心したように微笑んだヤンに微笑み返し、リンツはもう一度、シェーンコップがまだ眠っていることをちらりと確認する一瞥を送ってから、やっと執務室を後にする。
 閉じたドアを振り返ってから、自分のスケッチを眺めて歩き出し、これはいい絵になるかもしれないと思う。
 あのふたりが一緒にいる絵をいつかと、再び思った口元に浮かんだ淡い笑みに、リンツ自身は気づいていなかった。

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