恋をしている
シェーンコップはひどく疲れた様子で、上着を脱いでソファの背に放り、スカーフも外してそこへ置いた。ヤンはそのシェーンコップを見て自分の隣りを軽く叩き、おいでと黙って手招く。シェーンコップはすぐに、ヤンに触れそうな近さに腰を下ろして来て、そのままヤンの方へ倒れ込んで来た。
「疲れてるね。」
ええ、と乾いた声が肯定する。不機嫌になる手前の、ヤンの前ではそれよりも弱さを見せるシェーンコップの、灰褐色の髪をヤンはかき混ぜるように両手で梳く。
犬にでもするようなそんな仕草に、シェーンコップは疲労の色の濃い息を大きく吐き出し、ヤンのすでにシャツだけの胸元へ頬をこすりつけて来る。
「眠りたければそうするといいよ。」
いつもなら、ヤンの昼寝に肩や膝を貸すのはシェーンコップの方だと言うのに、今日はヤンがシェーンコップを抱きしめるようにしながら、ベッドの役を買って出た。
返事もせずに、シェーンコップはさっさとヤンに抱きついて目を閉じ、言われた通りにうたた寝のために体の位置を定めて、ヤンが自分の髪や頬や耳朶に触れるのに、そこから伝わるぬくもりへ、気持ち良さそうに軽く喉を伸ばす。猫なら、ごろごろ喉を鳴らす音が聞こえそうだった。
ヤンは、ふと思いついたように、まだ寝入ってはいないシェーンコップを抱きかかえたまま、体を前に折るようにして強引に腕を伸ばし、、シェーンコップが放った上着を何とか指先に引っ掛けて手元へ引き寄せる。
「・・・どうかしましたか。」
「何でもないよ。」
言いながら、シェーンコップの上着を羽織り、袖に腕を通す。寒いわけではなかったけれど、シェーンコップを寝かせるのに、自分の体温は高い方がいいだろうと、そう思っただけだった。
自分のよりも、シェーンコップの上着は少し重い。肩が余り、袖の先も掌をほとんど覆ってしまう。シェーンコップの使うコロンが襟の辺りに染み込んでいるのか、あごを埋めるようにすると、抱いているシェーンコップと同じ匂いが、少し違うトーンで、ヤンの鼻先に立って来る。
シェーンコップはぶ厚い体をすっかりヤンに預けて、手足は適当に放り出し、眠れなくてもただそうしているだけでも休まると言うように、目元が少しだけ穏やかになっているように見えた。
ヤンはシェーンコップを改めて抱き寄せて、髪にあごをこすりつける。目を閉じると、鬱陶しいほど濃いまつ毛の陰に疲れの色がはっきりと滲んで、ヤンは可哀想にと、近頃ゆっくり会う暇もなかった、山のような仕事に追われている自分の想い人を、腕の中に閉じ込めて永遠にどこにもやらずに済めばいいのにと、夢のようなことを考えている。
仕方がない。軍人が、戦争の最中に忙しいのは当然だ。敵を効率良く殺すために、できるだけ味方を死なせないために、敵の戦意を挫きながら、味方の士気は高く保って、そのためにヤン自身も、脳の隅々までを常に絞り切って、疲労の極みにはあの冴え返る感覚が高揚感を呼び、ああ自分はこのまま狂ってしまうのかもしれないと思う。
その冴え返る手前で、シェーンコップの脳と全身が、疲労の灰色の陰に覆われ、満身創痍の精神が何とかそこで踏みこたえているのが、ヤンには良く見えた。
ほんとうに、もう寝入ってしまったのか、腕の中で動かないシェーンコップのネクタイを指先にいじって、ヤンはシェーンコップの呼吸の気配に耳を澄ませた。
こうして触れるだけで、シェーンコップの心の中が見通せるような気がする。ヤンに触れた途端、それはあたたかな色を帯び、少し先へ進めば、熱量の多い赤みを帯びて、その色をヤンは自分の皮膚の上に映して、自分の心もシェーンコップのそれと同じ色に染まるのを感じる。
シェーンコップはヤンの胸を、ほとんど切り裂くように開き、そこへ手を伸ばして、ヤンの心へ直接触れる。心臓を握り込まれるような、死にそうな痛みのような、息苦しさの中で溺れるように喉を伸ばし、ヤンが叫ぶことができるのは、シェーンコップの名だけだ。
心が傷つくことは知っていても、そこに入り込んで来るシェーンコップを止めることはできず、恐れと喜びと哀しみと切なさと、あらゆる感情の存在するそこへ、誰かを招き入れるなど、ヤンは考えたこともなかった。
シェーンコップが踏み込んで来たのと、ヤンがそこへ招いたのと、どちらがどれだけ早かったのだろう。結局同時に起こったことだったのだと納得すれば、今ではシェーンコップの形になったヤンの心の中心に、彼が我が物顔でそこにすっぽりと収まっているのも道理で、追い出すことなどもう考えもしないヤンだった。
躯を重ねる先で、魂が触れ合う。心の形を互いの輪郭に添わせて、ヤンはシェーンコップの居場所を作り、シェーンコップはヤンの居場所を作る。皮膚と筋肉を引き剥がされる痛みは、幻覚ではなく現実だ。縫い合わせたように、ふたりは魂を結び合わせて、別々の時に生まれた双子のように、心を繋ぎ合わせて、触れ合っていなければ呼吸もできないように、その死の感覚はまるでほんものだった。
恋をしていると、思い知るのは苦しいだけだ。想いが重なっても、自分ではない誰かの、例えば明日など保証はできず、得たからこそ今度は失うことを恐れ続けることになる。
なぜ、とヤンは思う。恋の前に理性は愚にしか見えないと識っていて、そうして、理性にばかり傾く自分は、恋などとは無縁だろうと思っていた。ざわめきのない心、浮き沈みはヤンの内部にあるだけで、対処するのは自分の気持だけで良かった。それがどれほど気楽なことか、ヤンは知らなかった。
自分ではない誰か。自分のものではない心。思い通りにはならない感情。
なぜ、とヤンは思う。なぜ恋をしてしまったのか。なぜ。
天災のように、それはただ起こってしまうことだ。自分の支配の外にある、誰かの気持ち。それへ傾いてゆく、自分の気持ち。何ひとつ思い通りにはならない。心は常に乱れ、想う人の視界に入る自分の、醜悪さや愚鈍さに嫌気が差して、そして翌日には、自分は恐らく世界一幸せな人間だろうと確信する。同じ気分は24時間続かない。その繰り返しだ。
疲れて眠ろうとしているこの男を護って、ヤンはその体温ごと男を抱きしめて、もう、自分自身よりも大切と思うこの存在に、自分は一体何ができるのだろうかと、空の掌をじっと見下ろす。
失うことを想像するだけで、心のどこかが血を流す。考えることすら耐えられない。シェーンコップは、ヤンの弱さをそうして暴いて、けれどその弱みにつけ込むことはせずに、それはただヤンの一部なのだと、長い腕の中にヤンを抱きしめるだけだ。
こうして、弱った姿を晒すシェーンコップを、ヤンは可哀想だと思っても失望する気にはならず、自分を守る強いはずの男が、自分にすがりつくように抱きついて来るのを抱き返して、自分はこの男のために何ができるだろうかと考える。
想われる同じ強さで想い返していると思っても、同じだと証明する手立てはないし、比べることがそもそも無意味だ。
思考の機械の自分が、考えることを放り出して、ただ感じるだけの生き物になっている。ぬくもりを感じ、呼吸を感じ、鼓動を感じ、そうして、抱いて抱かれる腕を感じて、そこではどんな戯れ言も許されそうに、ヤンの舌はつい滑って、シェーンコップに向かってでたらめな軽口を叩く。
好きだと、冗談交じりに言うなら、本音は聞き取れないだろうと言う侮りを、シェーンコップにぶつけるのがすでに本心の露わな形だと言うのに、こうして抱き合っている時には、ヤンはそんなことにさえ気づけない。
恋とは、こんなに愚かしくて、醜くて、世迷言の集まりのような、そんなものだったろうか。恋によって晒される、自分の知らなかった自分自身にヤンはいまだ馴染めずに、先にそれに親しんでしまったシェーンコップへ、鏡に映すように、彼を通して自分を見るのだった。
ヤンはもう、自分自身を止めることができない。この恋を途中で止めて、なかったことにしたいと願うのは、時折自分を襲う苦痛のせいだけれど、その苦痛も結局、この恋を喪うことに比べれば取るに足らないことだと、思いながら、ヤンはまたシェーンコップの髪を撫でた。
ただ起こってしまったこと。受け入れたのは自分の選択だ。
この戦争を、早く終わらせよう。そうして、もう君を失うことを考えなくていい毎日へたどり着こう。
この男のために死ねると思うヤンは、けれどこの男が、自分を喪っては生きては行けないし、その喪失に苦しむ姿を自分が見たくはないのだと思って、だから、この恋のために生き延びようと思うのだった。1日でも長く。この男とともに。
シェーンコップの上着を着て、シェーンコップを抱いて、ヤンは自分の内も外もすべてをシェーンコップで埋め尽くして、今だけは考えるのをやめて、またシェーンコップの髪へ額をこすりつけた。