シェーンコップ×ヤン

Bittersweet

 「君は、こういうことは興味がないと思ってたよ。」
 赤やピンクのハートのモチーフがあちこちに溢れて、鬱陶しいのと気恥ずかしいのが大体等分に混ざり合った、独り者にはまったく無関係の、恋人たちのための1日。渡す相手もくれる誰かもまったく思い当たらず、そもそも甘いものにはあまり興味のないヤンには常と変わらない、ただの1日だ。
 そのはずだった。真っ赤なハートの形の箱を手に、シェーンコップが妙に機嫌良く目の前に現れるまでは。
 普段は斧を持つ手に、つやつやのリボンの掛かった可愛らしい箱を携えて、
 「惚れたやらはれたやらを語らう日ではなく、普段手に取る気もしないような上等のチョコレートを楽しむ日だと思えばよろしいではないですか閣下。」
 浮かれた調子は演技かどうか、皮肉に聞こえるような聞こえないような、本人が語る気がなくても、それについて語り掛けたくてしょうがない女性たちは山ほどいるだろうに、もしかしてこの箱も、彼女たちからの貰い物のお裾分けではないのかと、卑屈が猜疑心になるぎりぎり手前で、ヤンはシェーンコップが自分で開けて差し出す、その上等と言う中身へ唇の端を下げながら指先を伸ばした。
 「閣下の分はこちら側です。」
 ひとつびとつ、色と形が微妙に違う。シェーンコップが指差す側は違う側よりも色が濃く、とりあえずひとつと、つまんで口に放り込んで、それが自分用と言う理由をすぐに悟った。
 「いいブランデーだね。」
 噛んだ途端に、ちょうどひと口分、恐ろしく香りの良い、チョコレートとは違う甘さが舌と喉の奥へ一気に広がった。
 チョコレート自体は比較的に甘さは少なく、中身のブランデーの方が甘く感じる。
 「チョコレートが邪魔だなあ・・・。」
 うっかり素直な感想を口にしながらふたつ目に指を伸ばすと、
 「では来年は、チョコレート抜きのボンボンにいたしましょうか。」
 「──チョコレート抜きならこの日にこだわる必要はなくなるし、別に来年まで待つこともないじゃないか。」
 「それでは閣下からの、お返しを期待してもよろしいので?」
 3つ目を口に放り込もうとして、ヤンの手が止まる。この男のお返しとやらは高くつく。過去の経験でそれを学んでいるヤンは、このままボンボンを食べ続けるかどうか、一瞬迷った。
 「お返しのことはまた後日。お好きなだけどうぞ。」
 ヤンの前に箱を置き、シェーンコップは自分にひとつ、色の薄い方を取って口に入れる。珍しく子どもっぽい仕草がチャーミングで、ヤンは、爪の形と指先までの輪郭すら完璧なシェーンコップの手の動きに知らず見惚れて、香りを楽しむ前にうっかりブランデーを飲み込んでしまった。
 チョコレートを食べる仕草さえ様になるとは、色男はつくづく得だと、天は二物を与えないとやらは大嘘だとずっと以前に学んだヤンは、それに見惚れてしまった自分の方が忌々しくて、八つ当たりのようにシェーンコップの分のチョコレートへ指先を伸ばす。
 見た目通りに甘みの強い、噛み砕くと中からさらに甘い、香りのついたクリームがとろけ出て来る。予想以上の脳の溶ける甘さの波状攻撃に、ヤンは思わずむせた。
 シェーンコップはにやりと笑って、ヤン用のボンボンをぽいと口に投げ込み、机越しに腕を伸ばして体を傾け、大きな手でヤンのあごを持ち上げ引き寄せる。舌先が、中身のブランデーだけをヤンの口の中へ流し込んで来て、ミルクチョコレートの甘ったるさを上書きしてゆくと、唇の間でやっと溶けたダークチョコレートが、これはチョコレートがメインなのだと主張する。
 ブランデーの香りにか、それともシェーンコップの唇にか、ヤンはすでに酔っ払いの気分を味わって、さっきとは別の意味で、口の中に広がるチョコレートの味を邪魔だと思った。
 「──お返しは、後日って言ったじゃないか。」
 やっと唇が外れて、顔が赤いのを食べ過ぎたボンボンのせいにしながら、ヤンはハートの箱のふたを閉め、もう──今は──これ以上食べないと意思表示する。
 「戦局は刻一刻と変化するものです閣下。それに臨機応変に対応できるのが、優れた将と言うものではないですか。」
 作戦会議の時とまったく同じ声音で、けれど今呼気からかすかに、確かに匂うブランデーとチョコレートの香りは、ヤンの口元にもまだ漂っていた。
 「不敗がどうのと言われるわたしが君には勝てないと知ったら、常勝の天才はきっと目の色変えて君の方を追い回すだろうな。」
 箱の傍らに肘をつき、掌に頬を乗せて、そうなったら面白いのにと言う風に言うと、
 「死ぬかもしれない明日のために今日のことを考えるのが精一杯の、小官のような小物が、百年先を考える閣下やローエングラム公の障壁になる可能性は極めて低いと思われますな。」
 いかにも不遜な態度と口調が、謙遜の気配をすっかり消し去って、これは案外シェーンコップの真っ直ぐな本音ではないかとヤンは疑った。
 ブランデーでちょっと気分の良くなった脳の襞に、死ぬと言う言葉が突然鋭く差し込まれ、思わず寄った眉に不愉快が素早く浮き出す。
 黙れ、と思わず胸の中でつぶやいてから、ヤンは一度閉じた箱のふたを軽く持ち上げ、ミルクチョコレートをひとつ取り出し、それをシェーンコップの鼻先へ突きつけた。
 「わたしは忘れっぽくてね、貴官へのお返しも、いつになるか分からないな。せいぜい長生きすることだシェーンコップ。」
 ヤンの語調と表情に押されてか、一瞬の真顔の後ににやっといつものねじれた笑いを浮かべて、
 「──ご命令とあらば、せいぜい微力を尽くすといたしましょう、司令官閣下。」
 シェーンコップはヤンの手首を掴み、指先のチョコレートへ口元を寄せる。指先ごと唇へ挟んで、上目にヤンを見ながら、シェーンコップはチョコレートを取った舌先で、ヤンの指からチョコレートの香りも舐め取ってゆく。ヤンは一瞬も、そのシェーンコップから目を離さなかった。
 「では、小官はこれで。」
 わざと、口の中でチョコレートをころころ転がしながら、もったいぶった敬礼の仕草と甘ったるい匂いを残して、大きな背中が扉の向こうに消える。
 やっと眉の間を開き、ボンボンをもうひとつ食べるかどうか迷って、ヤンは箱の形を指先──さっき、シェーンコップが舐めた方──でなぞった。
 お返しなんかしてやるもんか。せいぜい一生待ってるがいいさ。
 これみよがしのわざとらしいハートの輪郭を、喉の奥からブランデーの甘い香りが消えるまで、ヤンは黙ってなぞり続けた。

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